サクラ(英語表記)Prunus

改訂新版 世界大百科事典 「サクラ」の意味・わかりやすい解説

サクラ (桜)
Prunus

サクラは古くから日本人に親しまれ,日本の花の代表として海外にまで知られる。一般にサクラと総称しているものは,主として北半球の温帯と暖帯に分布しているバラ科サクラ属サクラ亜属の主として落葉性の樹木で,花がいっせいに開花して美しいものが多く,広く観賞されている。日本にはヤマザクラオオヤマザクラをはじめ,カスミザクラ,オオシマザクラマメザクラエドヒガンチョウジザクラミヤマザクラタカネザクラなど10種類ほどの自然種を基本として,変種や品種をあわせると約100ほどの種類が野生している。サクラ類の多くは陽樹で,しかも二次林を構成する生長の速い種が多いため,人家で栽植するにも好適であり,これらの野生種から多数の園芸品種が育成され,その数も200から300といわれる。古く奈良時代から栽培化された八重咲きのサクラが知られていたが,サクラの品種がまとまって記録されるようになったのは江戸時代からで,水野元勝の《花壇綱目》(1681)に40品種のサクラがのっている。その後,多くのサクラ図譜が出ているが,松岡玄達の《怡顔斎桜品(いがんさいおうひん)》(1758)には69品種,桜井雪鮮描画,市橋長昭撰の《花譜》,《続花譜》上と下,《又続花譜》,《花譜追加》の5冊(1803-04)には252図が出ている。大井次三郎著,太田洋愛画の《日本桜集》(1973)には154図がのっている。英語ではセイヨウミザクラのように実を食べるものをcherry,日本で改良された花をみるサクラをJapanese cherry,flowering cherry,Japanese flowering cherryと呼び,区別している。

 サクラの葉は互生し,縁に鋸歯があり,多くは葉柄の上部に1対またはそれ以上のみつ腺がある。花序は散房状,散形状,総状などになり,花の基本は,円筒形をした萼筒の上部に5枚の萼片があり,萼片と交互になって5枚の花弁がつき,萼筒上部の内側に通常40本内外のおしべが3段ぐらいついている。めしべは普通1本あり,子房は萼筒内の底に子房周位の状態におさまり,子房の上には細長い花柱がある。果実は核果で,果肉のなかに1個の硬い核があり,1種子が含まれている。

日本にはサクラの種類が多いので,早春から晩春までサクラがつぎつぎに咲き,なかには季節はずれの初冬に咲くサクラもある。早春の2月に淡紅色の花が咲くものにカンザクラ(寒桜)P.×kanzakura Makinoがある。これはヒカンザクラとオオシマザクラの雑種で,大寒桜(おおかんざくら),修善寺寒桜などの品種がある。カンザクラの一方の母種であるヒカンザクラ(緋寒桜)P.cerasoides D.Don var.campanulata (Maxim.) Koidz.はカンヒザクラ(寒緋桜)ともいわれ,中国南部,台湾に分布し,琉球に野生化している。葉が展開する前に,花弁が半開した濃緋紅色の花が下向きに咲く。沖縄では1~2月に開花し,関東以南の暖地でも2~3月の早春に咲くサクラとして植えられている。まれに栽培されている中国原産の桜桃(おうとう)と呼ばれるシナミザクラP.pseudocerasus Lindl.も,大木にはならないが花期の早いサクラである。しかし,俗にサクランボといって果実を食用にしているセイヨウミザクラP.avium L.の花は4月になってから咲く。

 春の彼岸ごろになると全体に毛の多いエドヒガン(江戸彼岸)P.spachiana(Lavallée ex H.Otto)Kitam.f.ascendens(Makino)Kitam.が,萼の基部がつぼ形にふくらんだ小型の花を,葉の出る前に咲かせる。本州,四国,九州の山地に生え,朝鮮半島,中国にも分布しており,各地に巨樹,名木が残っている。日本一大きいといわれる山梨県北杜市の旧武川村山高神代桜(やまたかじんだいざくら)をはじめ,山形県伊佐沢の久保桜,岐阜県根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら),巨岩を割って生えている岩手県盛岡市の石割桜(いしわりざくら)などはいずれもエドヒガンの大木で,天然記念物になっているものが多い。エドヒガン系の糸桜も同じころ枝をやさしく垂れさげて,淡紅白色一重の花を開く。福島県三春町の三春滝桜(みはるたきざくら)は糸桜の巨木として古くから知られており,京都市の平安神宮,東京都の神代植物公園などにある八重紅枝垂(やえべにしだれ)は紅色,八重の美しい花が咲く。このエドヒガンとマメザクラの雑種のコヒガン(小彼岸)P.×subhirtellaMiq.はヒガンザクラ(彼岸桜)とも呼ばれ,長野県伊那市の旧高遠町の城跡公園のものは有名である。

 4月になると,全国各地に広く植栽されており,最も普通に花見の対象になっているソメイヨシノ(染井吉野)P.×yedoensis Matsum.の花が咲いてくる。明治初年ごろに東京の染井から広がり始めたもので,オオシマザクラとエドヒガンの雑種と考えられている。若枝や葉,花部などに毛があり,葉を開く前に大きな一重の花が木を埋めつくして美しく咲く。ソメイヨシノの仲間には,北アメリカでソメイヨシノの実生から選出された〈アメリカ〉やオオシマザクラとエドヒガンの交配によってつくられた三島桜,天城吉野(あまぎよしの)などがある。チョウジザクラ(丁字桜)P.apetala(Sieb.et Zucc.)Fr.et Sav.は本州と九州の山地に生え,花径1.5cmほどの小さい花が春早くに咲く。マメザクラ(豆桜)P.incisa Thunb.も花が早く開葉の前に咲き,木が全体に小型なので〈豆桜〉といわれている。関東,甲信地方から静岡県東部の山地に生えているが,富士,箱根地方に多いので,フジザクラまたはハコネザクラともいわれている。純白な花弁に,鮮緑色の萼をつけた緑萼桜(りよくがくざくら)や八重咲き,菊咲きなどの品種があり,本州の中部より西の山地には変種のキンキマメザクラ(近畿豆桜)var.kinkiensis(Koidz.)Ohwiが分布している。

 昔から日本人に親しまれてきたヤマザクラ(山桜)P.jamasakura Sieb.ex Koidz.は,4月に赤茶色に染まった葉を広げると同時に,淡紅白色の花をほころばせる。ソメイヨシノが出現しなかった明治以前の観桜の主役はもっぱらヤマザクラで,奈良の吉野山,京都の嵐山などは古くからの名所である。本州の宮城県以西,四国,九州の山野に生え,韓国の済州島にも分布している。ヤマザクラは葉や花部に毛がなく,花の裏面の白みの強いものであるが,葉の一部に毛を散生するウスゲヤマザクラも混ざって生えている。2~3年生の幼木で開花する稚木桜(わかきのさくら)と呼ぶ一歳桜もあり,八重咲きの木の花桜(このはなざくら),御信桜(ごしんざくら)などの花は少し遅れて咲く。カスミザクラ(霞桜)P.leveilleana Koehneはヤマザクラより山地の上部に生え,花期もやや遅れる。葉や花部に毛があるのでケヤマザクラとも呼ばれているが,葉の裏面に白みがなく,花が白い。北海道から九州の山地に生え,朝鮮半島,中国東北部まで分布している。奈良市の知足院(ちそくいん)にある有名な奈良八重桜はカスミザクラの八重咲きで,花期が遅く,4月下旬になって淡紅色の花が咲く。ヤマザクラにつづいて咲くオオヤマザクラ(大山桜)P.sargentii Rehd.は,北海道の山地に多いのでエゾヤマザクラ,あるいは紅色の花が咲くのでベニヤマザクラともいい,北海道では5月に入ってから咲き,新冠の桜並木,小樽苗畑,厚岸の国泰寺など名所が多い。サハリン,南千島,北海道から本州,四国の愛媛県,徳島県,朝鮮半島に分布している。本州中部では標高700~1000mのところに生え,ヤマザクラより上部の山地に出てくる。新潟県新発田市大峰山の橡平(とちだいら)のサクラ樹林は天然記念物になっている。オオヤマザクラやヤマザクラなどのサクラの樹皮は色つやがよいので,タバコ入れ,小箱などの外側にはるのに用いられ,秋田県角館の樺皮細工(かばざいく)は有名である。樹皮はまた去痰剤として薬用にもしている。ヤマザクラの仲間のサクラ材はやや硬い散孔材で良質なので,器具・家具・建築材になり,版画の版木にはサクラ材が最高である。最近はサクラ材の量が少なくなったので,カバノキ科のカンバ材がサクラ材といわれ,流通している。

 ヤマザクラに似たサクラには,海岸に適応した型にヤマザクラまたはカスミザクラから分化したといわれているオオシマザクラ(大島桜)P.lannesiana(Carr.)Wils.var.speciosa(Koidz.)Makinoがある。伊豆七島,伊豆半島,三浦半島,房総半島に分布していて,3月から4月ごろ開葉とともに開花する。タキギザクラ(薪桜)ともいわれ,薪炭用にするので,伊豆,三浦,房総の各半島では植林され,それが野生化したものもある。葉は大きくて毛がなく,縁には先がのぎ状の鋸歯があって,裏面は白みがない。オオシマザクラの葉は塩漬にして,桜餅を包むのに使われている。

 4月の中旬から下旬になると,変化に富んだ花の咲く栽培のサトザクラ(里桜)P.lannesiana(Carr.)Wils.が咲いてくる。オオシマザクラを主として,それにヤマザクラ,オオヤマザクラなどが交雑したものから改良選出された園芸品種の総称であって,一重,八重,色の濃淡,香りのよいものなど多数の品種がある。一重でも太白のように花が大きくなり,花径5cm以上の大きな白花を開くものもある。サクラは花弁5枚が基本であるが,おしべが花弁に変化すると花弁が増加してきて,八重咲きになる。花弁化が不完全なときは葯だけが花弁状に変わり,花糸の先に旗のようにつくので,これを旗弁と呼んでいる。旗桜には旗弁があるので,この名がつけられた。御車返し(みくるまがえし)は一重の花と旗弁をもった6~8枚の花弁がある花が,同じ木に混じって咲くので〈八重一重〉ともいわれている。法輪寺や福禄寿,楊貴妃(ようきひ)などは花弁が15~20枚ある淡紅色大輪の花が咲く。公園によく植栽されている関山(かんざん)や普賢象(ふげんぞう)には花弁が30枚内外ある大きな花が咲き,これらの花を塩漬にしたものは桜湯に使われている。普賢象は室町時代から知られている古い品種で,花は長い柄があって垂れさがり,緑色の葉状に変化しためしべが2本ある。普賢象の名は普賢菩薩の乗ったゾウの鼻を花にたとえ,葉化しためしべの先に残っている2本の花柱をきばに見立てて名付けられたという。花弁が100枚から300枚以上にも増加した菊咲きのサクラもあり,兼六園菊桜は金沢の兼六園にあったサクラで,老木になると350枚から380枚の花弁のある花をつけ,一つの花の中にさらにもう一つの花が重なり,いわゆる二段咲きになっている。花色の変わったものもあり,鬱金(うこん)や御衣黄(ぎよいこう)は黄緑色の八重の花が咲く。

 春も深まった5~6月になると,ミヤマザクラ(深山桜)P.maximowiczii Rupr.が咲く。花は花柄のもとに小さい葉をつけ,北海道から九州までの深山に生える。本州中部以北の高山や北海道に生えるタカネザクラ(高嶺桜,別名ミネザクラ(嶺桜))P.nipponica Matsum.や,葉柄,花柄などに毛のある変種のチシマザクラ(千島桜)var.kurilensis(Miyabe)Wils.は,山地の雪どけとともに咲く。

 日本には初冬の季節はずれに毎年花が咲き,また4月にも再度花が咲く変わったサクラがある。フユザクラ(冬桜)P.×parvifolia Koehneはコバザクラ(小葉桜)ともいわれ,白色,一重の花が11月から12月いっぱい咲き,群馬県藤岡市の旧鬼石町の桜山では木枯しの吹くころに花見ができる。コヒガン系のものにも,八重咲きの十月桜や一重の四季桜のように,初冬と春の2回きまって咲くサクラがある。ヤマザクラ系の不断桜も季節はずれに咲き,10月下旬から4月下旬まで咲きつづける。

 サクラ属ウワミズザクラ亜属のウワミズザクラP.grayana Maxim.やイヌザクラP.buergeriana Miq.などは小さい花が多数集まって細長い穂になって咲き,サクラといわれているが,とくに美しいものではない。ウワミズザクラは北海道南西部から九州までの山地に分布しており,花は白色で小さく,花弁より長いおしべがある。よく似たエゾノウワミズザクラP.padus L.(英名(European)bird cherry)は北海道など北半球の亜寒帯に広く分布するが,おしべが花弁より短いので区別できる。ウワミズザクラの花序の軸に数枚の葉をつけているが,本州,四国,九州,済州島に分布するイヌザクラの花序の軸には葉がない。本州中部以北,北海道の山地に生えるシウリザクラP.ssiori Fr.Schm.は花序の軸に葉があるが,おしべは花弁とほぼ同長で,葉は大型で,基部が心形である。バクチノキP.zippeliana Miq.やリンボクP.spinulosa Sieb.et Zucc.は暖地に分布する常緑高木で,秋に穂状の花を開く。

サクラは実生,接木,挿木などで繁殖させる。新品種の育成や台木用の苗作りは実生による。6月ごろ果実を採取して種子(核)を取り出したら,翌年の春まで土の中に貯蔵しておき,2月ごろまくのがよい。種子は乾燥させると発芽が悪くなる。八重桜などの園芸品種は,接木で繁殖する。台木はオオシマザクラの実生苗やアオハダの挿木苗が使われ,ヒガンザクラ系の台木にはエドヒガンの実生苗やヒガンダイザクラの挿木苗がつかわれる。植栽は日当りのよい適潤な肥沃地で,排水のよいところがよく,浅根性なので風当りの強くないところを選ぶ。〈サクラ切るばか,ウメ切らぬばか〉といわれるように,サクラは切口から腐りやすいので,やむをえず太い枝を切った場合には切口に殺菌剤の入った癒合剤を塗って腐食を防ぐ。また,天狗巣病,癌腫病などの病害にかかっている部分は切り取って焼却し,切口に癒合剤を塗るのがよい。葉を食害するオビカレハ(ウメケムシともいう),モンクロシャチホコ,アメリカシロヒトリ,コスカシバなどの虫がつきやすい。
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近代以降の日本人は,子どもの時分から,サクラに関する予備観念を植え付けられてきた。いわく〈サクラは国花である〉,いわく〈サクラは日本のみの原産である〉と。そこで,日本男児と生まれたるものだれしも祖国のために桜花のごとく〈散りぎわ美しく〉死んでこそ本懐と心得るべきであると教え込まれ,多くの若者が数次の戦争に狩り出されては〈死に急ぐ〉といった痛ましい事態が起こった。また,それとはまったく正反対の社会事象ということになるが,第2次世界大戦が終息した直後,日本国じゅうの公園や並木通りのサクラが,忌まわしい軍国主義や忠君愛国のシンボルだからとの理由で,容赦なく切り倒されてしまった。植物文化史を通観しても,これほどまでに一つの国民が一つの植物を玩弄(がんろう)し冒瀆(ぼうとく)した事例はほかに見当たらないであろうと思われる。いったい,〈国花〉なる概念からして,学問的根拠もなにもない,すこぶるいいかげんな取決めによるものでしかない。そして,明治国家のオピニオン・リーダーが脱亜入欧政策の一環として新たに植え付けた〈国花はサクラ〉という考えのおかげで,いまだに大多数の日本人は,サクラを愛するに当たり,国花だからサクラを愛するといった心理的虚構に寄りかかったままである。

 また〈サクラは日本のみの原産〉とする通説がある。しかし,サクラは中国(四川省,雲南省ほか)にもたくさん自生し,インドやミャンマーの山岳地帯にはヒマラヤザクラPrunus cerasoidesやヒマラヤヒザクラP.carmesinaが美しい花を咲かせており,日本以外にもサクラの原産地があったことを知らされる。セイヨウミザクラP.aviumおよびスミノミザクラ(酸果桜桃)P.cerasusに至っては,小アジアから東ヨーロッパ,北ヨーロッパにかけて森林のなかにはいくらでも自生する。セイヨウミザクラは,自生種はそれほどでもないが,園芸品種になると案外に美しい花をつける。オランダ経由で早くからアメリカへ渡ったサクラも,この美しいセイヨウミザクラの1種であり,現在でも,アメリカ北部や中西部で美しい花を咲かせて日本人来訪者を驚かせるサクラは,このセイヨウミザクラのほうの子孫である。--これら明白な事実も,永い間,日本人には隠蔽されていた。〈さくら博士〉として有名な三好学(1861-1939)が大正デモクラシー期に刊行した《人生植物学》(1918)には,〈昔は支那には桜は無いやうに思ったが,今日では多数の桜が西部幷(ならび)に西南部の山中で発見された〉〈印度にはヒマラヤ桜(Prunus Puddum)と云ふ美しい種類があって,ヒマラヤの中腹に生えて居る。日本の紅山桜に似て,花が赤く,且(かつ)萼(がく)が粘(ねば)る〉とある。ところが,この正しい科学的記述は後退を余儀なくされ,同じ三好が昭和10年代に出した《桜》(1938)では,これらに関する記述はぼかされてしまっている。自然科学的学問業績もときとして政治権力の圧力に屈服することのありうる事例の一つである。

しからば,いつごろから日本人はサクラを日本固有の花と思い込むようになったか。従来は,《古事記》上巻に〈爾(ここ)に“誰(た)が女(むすめ)ぞ”と問ひたまへば,答へ白(もう)ししく,“大山津見神(おおやまつみのかみ)の女,名は神阿多都比売(かむあたつひめ),亦の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と謂ふ”とまをしき〉とあるコノハナノサクヤビメの〈サクヤ〉が音声的に転化して〈サクラ〉になったのだから,神代の時代にサクラは存在し,したがってサクラは日本固有のものであると主張されてきた。だが,サクヤがサクラに転化したという説明(本居宣長《古事記伝》以来の定説)だけで,サクラを日本固有の植物とする議論は成り立ちにくい。ついで《日本書紀》に2ヵ所あらわれるサクラは,一つは履中天皇の宮殿〈稚桜宮(わかざくらのみや)〉とその御名代(みなしろ)である〈稚桜部〉との命名由来,もう一つは允恭天皇と衣通郎姫(そとおりのいらつめ)との恋愛ロマンスである。ともに,白文で〈時桜花落于御盞〉〈天皇見井傍桜華〉と表記されているから,強大となった大和王権とサクラとの結びつきを想定することは必ずしも無理ではない。サクラが登場する文献のうちで3番目に位置する《懐風藻》(751成立)のサクラは2ヵ所,一つは近江守采女朝臣比良夫(おうみのかみうねめのあそみひらふ)の五言詩に〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉(葉は緑なり園柳の月,花は紅(くれない)なり山桜(さんおう)の春),他は長屋王(ながやのおおきみ)の五言詩に〈松烟双吐翠 桜柳分含新〉(松烟(しようえん)双(なら)びて翠(みどり)を吐(は)き,桜柳(おうりゆう)分(わ)きて新(あたら)しきことを含(ふふ)む)に見えている。7~8世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習したことは周知であるが,この〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉も,じつは《文選(もんぜん)》十四所収の沈休文の有名な五言詩〈早(つと)に定山を発す〉の中の〈野棠開未落 山桜発欲然〉(野棠(やとう)は開いて未だ落ちず,山桜は発(ひら)いて然(も)えんとす)を下敷きにして換骨奪胎したものにすぎなかった。結局,日本の律令知識階級にとって,サクラを賞美する行為は,それが中国詩文に見えていたればこそ模倣する値うちがある,というふうに了解されていたのである。《万葉集》にもサクラの歌が44首見えるが,この数はウメの歌118首に比較するとはるかに少ない。詩歌の手本になっている中国詩文におけるサクラの扱い方が,ウメに比べてはるかに小さかったためと考えられる。その後,勅撰三大漢詩集(《凌雲集(りよううんしゆう)》《文華秀麗集》《経国集》)の時代でも,サクラはウメよりも軽い地位に置かれ,摂関期の《古今和歌集》になって初めて数量的にウメを圧倒するに至る。これをもって,日本化の自覚のあらわれと賞賛する論者もあるが,一方,平安王朝文化が華美軽佻に流れた証拠だと見る論者もあり,《古今和歌集》の美学的規範そのものは中国詩文的教養に根ざしていたことのみは否定しようもない。

 ともかく,このようにして,《懐風藻》このかた,古代の日本知識人は,中国にサクラがないなどといった謬見(びゆうけん)を抱いたためしはなかった。古代ばかりではない。中世随想家も,戦国武将も,彼らは一様にサクラを愛したことにまちがいはないが,しかも,ひとりとしてサクラが日本にしかない固有の花木だなどと主張した者はいない。日本のサクラの美しいのは絶対だが,もろこしにもこの美しい花はあるはずだから当然そこでも賞愛されているだろうと,そう思っていた。西行法師の〈ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月(もちづき)の頃(ころ)〉〈ほとけには桜の花をたてまつれ我が後(のち)の世を人とぶらはば〉の和歌や,長谷川等伯,久蔵親子の智積院障屛画〈桜図〉には,サクラを〈世界の花〉として賞美する精神姿勢以外の狭小な志向はまったく感じられないではないか。

 サクラを〈日本国原産の花〉という謬見のほうへ引きずり込んでいったのは,かえって近世の学者,それも一流の学者であった。貝原益軒《花譜》(1698)の〈二月/桜〉の項をみると,〈文選の詩に,山桜は果の名,花朱,色火のごとし,とあれば,日本の桜にはあらず。からのふみに,日本の桜のごとくなるはいまだみず。長崎にて,から人にたづねしにも,なしとこたふる〉とある。この貝原説が,中国にサクラが存在しないことを主張した最初である。さらに10年後の《大和本草》(1709)では,前著の〈から人〉の実名を挙げ,〈日本の桜と云物(いうもの)は,中華に之(これ)無き由,延宝年中長崎に来りし何清甫(かせいほ)いへり。若(もし)あらば中華の書に記し,詩文に述作し,賞詠すべきに此樹なきと云は,実説なるべし。朝鮮にはあり〉と記す。すなわち,福岡藩儒医で,当時,日本最高の博物学者であった貝原益軒(1630-1714)は,わざわざ長崎へ行き,中国から来た貿易商人に会って質問し,中国にサクラがないという情報を得,これをもとに叙上の記載をなしたのである。サクラが中国にないという新情報は,延宝年間(1673-81)の日本知識人に強烈な衝撃を与えたらしく,もうひとり,同時代の百科全書的大学者である新井白石(1657-1725)も,近世言語学の古典と仰がれる《東雅(とうが)》(生前未刊行,写本のみ流布)のなかに〈むかし朱舜水(しゆしゆんすい)に,ここの桜花の事を問ひしに,桜桃は此にいふサクラにあらず,唐山にしても,もし此にいふサクラにあらむには,梨花(りか)海棠(かいどう)の如き,数ふるにたらじと,我師也(わがしなりし)人は語りき〉と記述している。わが師なりし人とは木下順庵(1621-98)をさし,朱舜水(1600-82)とは長崎に亡命してきた明の儒者で,のちに帰化して水戸藩で古学的儀礼や農業実学などを講じた学者である。結局,亡命インテリ朱舜水は,中国奥地にはサクラの自生地がいくらでもあるのを知らず,自分の狭い生活地域空間のなかでの知識をもとに,中国にはサクラがないと答えてしまい,さきの貝原益軒著作に名の挙がっている何清甫の情報を正しいとする証言を行ったのである。

 そして,延宝年間から100年経過した明和・安永・天明(1764-89)ごろになると,国学者らによって,サクラは日本にしかないという考え方が増幅され拡大解釈され,それを基礎にして,まったく新しい命題の理論化が図られるようになる。本居宣長が,有名な〈しきしまの大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花〉と歌いあげて,日本観念論の勝利を宣言する段階では,もはやだれひとり中国にサクラがあるとは信じなくなってしまっていた。

 もちろん,幕末本草学者のなかには,誤報=誤伝に基づく学説に訂正要求を突き付ける人もあるにはあった。江戸幕府の命を受けて江戸医学館で本草学を講義し,また大著《本草綱目啓蒙》(1803)の著者としても名高い小野蘭山(1729-1810)は,弟子の井岡冽(れつ)に筆記させた《大和本草批正(ひせい)》というゼミナール速記録のなかで,貝原益軒の犯した誤謬をひとつひとつ指摘し,〈中華に桜と云ふは朱花なり。欲然と云こと,桃及杏にも賦せり。然らば正朱色を云にも非ず。桜にも用ゐて可なり。中華にては桜と桜桃とを混ず〉〈紅毛には桜あり。○どゝにうす,図あり〉と明言している。ドドネウスRembertus Dodonaeus《草木誌Cruydt-Boeck》(1554)は,日本へはオランダ語版1618年刊と1644年刊と2種類のものが入ってきており,一目瞭然(りようぜん),16世紀以前のオランダ(ドドネウスはライデン大学医学教授であった)に美しいサクラが咲いていた事実がわかる。1659年(万治2)3月に和蘭(オランダ)商館長ワーヘナルが幕府に献上したドドネウス《草木誌》を,小野蘭山は,江戸の医学館かどこかで手に取りたしかめたから,自信をもって〈紅毛には桜あり〉といい切ることができたのであろう。

 だが,幕末社会全体の文化動向としては,このときにはすでに〈国学の勝利〉のほうが決定的なものになっており,また尊王攘夷の勢いのほうが日増しに強くなり,サクラに関する科学的真理になどだれも耳を貸さなくなっていた。誤報=誤伝に端緒づけられた〈サクラ日本原産説〉〈サクラ国民性論〉は,明治近代ナショナリズムに受け継がれることとなった。
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西洋で話題になるサクラはほとんどの場合サクランボ(セイヨウミザクラ)のことで,チェーホフ《桜の園》も日本的な観賞用サクラの庭園ではなく,サクランボ果樹園を舞台としている。またG.ワシントンが切り倒したことを正直に父親にわびたという有名な逸話に登場するサクラの木も,農園のサクランボであった。しかし,アメリカのポトマック河畔の有名なサクラ並木は,1909年に東京市長尾崎行雄が贈ったソメイヨシノなどをもととしている。ただし同年に贈られた2000本の苗木は虫害のためすべて焼却され,12年に改めて3100本が贈られた。

 サクラは一般に春,純血,処女の象徴で,キリスト教伝説ではその中のサクランボがマリアの聖木とされる。マリアがこの実を夫のヨセフに求めて拒絶されたとき,枝がマリアの口もとにまでたわんできたといい,そこから花は処女の美しさに,サクランボは天国の果実にたとえられるようになった。またイギリスではサクランボを1粒ずつ食べながら,結婚できるかどうかうかがいを立てる恋占いがある。花ことばは〈教養〉〈精神美〉,日本のサクラは〈富と繁栄〉,実が二つついたサクランボは〈幸運〉や〈恋人の魅惑〉の象徴とされる。なおサンカオウトウの仁(じん)は青酸成分を有し,民間で鎮痛薬として用いられた。
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世界大百科事典(旧版)内のサクラの言及

【サクランボ(桜坊)】より

…バラ科の落葉果樹。園芸上は核果類に属し,オウトウ(桜桃)という。サクラ類の果実は1個の核をやわらかく多汁な果肉が包みこんでいるので,多くのものが食べられ,ソメイヨシノやヤマザクラの果実も苦くて美味ではないが,子どもが遊びに食べることがある。また食用にするために栽培されるサクラの種類もいくつかある。広い意味でのサクランボはサクラ類の果実を総称するが,園芸上では栽培種の果実をサクランボと称している。そのなかで日本の果樹として重要なものはセイヨウミザクラ(甘果オウトウ)P.avium L.(英名sweet cherry)で,サクランボの名称で市販されている果物は大部分が本種である。…

【ウメ(梅)】より

…中国原産の落葉小高木で,バラ科サクラ属のウメ亜属に分類される(イラスト)。ムメともいう。…

【挿頭】より

…古く男女が自然植物の花や枝葉をめで,これを頭髪にさして飾りとした風習があったが,のち中国から伝わった冠の飾りにつけた髻華(うず)と習合して,ながく年中行事のうちの一部にこの風習が伝えられた。そのおもなものは大嘗会(だいじようえ),賀茂や石清水の臨時祭(使いや舞人,陪従など),政治的な行事では列見や定考(こうじよう)のとき,また踏歌節会(とうかのせちえ)のときなどで,さす花にはフジ,サクラ,ヤマブキ,リンドウ,キク,ササ,カツラなどがあった。これらは,さす人や行事によって種類がちがい,フジの花は大嘗会のとき天皇および祭使が,また列見のとき大臣などが巾子の左にさす。…

【国花】より

… 日本の場合は法律で定められた国花はない。しかし,一般にはサクラないしキクが日本を表徴する花として用いられていることが多い。【野村 通年】。…

【花見】より

…桜の花を観賞するために野山に遊びに行く行事。酒や馳走を用意し,花を見ながら宴を催す。特定の庭園の桜のもとで行う例も多い。現代も盛んで,花の時期には桜の名所は花見客でにぎわう。露地に敷物を敷いて席を設け,飲み食いをし,歌い踊ってさわぐのは,江戸時代に,江戸,大坂,京都などの大都市を中心に発達した庶民の花見の風俗の継承である。元来,花見は個人の趣味ではなく,社会慣習になっていたところに意味がある。中国・近畿・関東地方では,旧暦3月3日か4日に,山に登って飲食をする行事を,花見と称した。…

【吉野】より

…大和国南部の地名。狭義には吉野川流域の吉野山など表吉野をさすが,広義には十津川・北山川流域など奥吉野も含まれる。吉野川沿いの宮滝遺跡は,縄文・弥生以来の複合遺跡であるように,原始以来文化の発展がみられた。《日本書紀》には神武紀から吉野が登場し,吉野国神(くにつかみ),吉野国栖(樔)(くず)などの伝承が著名。宮滝遺跡にあったと推定される吉野宮(よしののみや)は同応神紀に初見し,壬申の乱において大海人(おおあま)皇子(天武天皇)は吉野に逃れてから挙兵,吉野宮にはとくに持統朝にしばしば行幸が行われた。…

【吉野山】より

…奈良県吉野郡吉野町の山。大峰山脈の北端で,金峰山(きんぷせん)(青根ヶ峰)から北西方向につらなる約8kmの山稜部分を称する。大峰山の入口で,金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(蔵王堂)があり,また源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地に富む。役行者(えんのぎようじや)によって蔵王権現の神木とされたという桜は,参詣者などの献木により一山を埋め,吉野神宮付近の下千本,如意輪寺付近の中千本,吉野水分(みくまり)神社付近の上千本,西行庵付近の奥千本として有名。…

※「サクラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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