ソ連崩壊と東欧の歴史的変革(読み)それんほうかいととうおうのれきしてきへんかく

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ソ連崩壊と東欧の歴史的変革
それんほうかいととうおうのれきしてきへんかく

ソ連崩壊


ペレストロイカの理想と現実

チェルノブイリ原発事故とグラスノスチ
1986年4月26日、ソ連共産党第27回大会の直後、ウクライナ共和国キエフ市の北方にあるチェルノブイリの原子力発電所4号炉が爆発、大量の放射性物質が空中に噴き上げられ、火災が発生した(チェルノブイリ原子力発電所事故)。消防隊員の献身的な消火活動によって他の三つの原子炉への延焼は防がれたが、事故後の処理は遅れ、発電所からわずか3.5キロメートルの距離にあるプリピャチの4万5000人の住民に対する緊急避難命令は、爆発から36時間後に初めて出されるというありさまであった。放射性物質の放出は事故後も続き、9月26日にようやく「石棺」による密封作業が終わった。死者は9000人に達したともいわれており(2006年WHO死者推定値)、北のベラルーシでは農地の20%が使用不能となり、放射能による被害はトルコ、イタリア、ドイツなど国境の外にまで広がった。
 これほどの大事故にもかかわらず、テレビは事故の翌々日4月28日に初めて簡単に報道し、新聞は30日にようやく4行の記事を載せるというありさまで、時代錯誤的な情報統制が白日の下にさらされた。この事件をはずみとして、秋からグラスノスチ(情報の公開、言論の自由)が急速に進み、一部の新聞、雑誌にソ連社会の実態や、それまで隠されていた歴史上の事実や解釈についての大胆な記事が現れ始め、人気を博した。また、ゴルバチョフら新指導部は、事故の発生とその後の処理のまずさの原因が旧来の体制そのものにあることを痛感し、根本的な改革の必要性を確認した。共産党政治局は、9月下旬、改革に向け大胆に立ち上がるよう呼びかけた。[木村英亮]
高学歴社会の実現
すでにソ連社会には、根本的改革、ペレストロイカの条件ができていた。逆に、これらの条件が古い体制の維持を許さなくなっていたといえよう。その条件の一つは、教育の普及と高学歴社会の実現である。1988/1989年、大学(総合大学、単科大学)は898校あり、学生数は約500万人、1988年の入学者は108万人で、日本とほぼ同じ程度の進学率であった。高学歴化は、革命前には文字さえもたなかった中央アジアなどの民族地域をも含めて達成されたのである。このような条件がそれまでの官僚支配を崩すものであったことは当然であろう。指導者層も、たとえば歴代の党書記長がたたき上げであったのに対し、ゴルバチョフは初めてのモスクワ大学出身者であった。このゴルバチョフが教条主義・権威主義との闘いや、「新しい思考」に基づく改革に大胆に立ち上がるよう呼びかけたのである。すでにフルシチョフ時代から言論統制はむずかしくなってきており、反体制知識人の活動が続いていた。ここにきてグラスノスチは知識階級全体の要求となり、予測を超えた奔流となって逆にゴルバチョフをも突き上げたのである。[木村英亮]
労働者民主主義と国有企業法
革命当時、人口の一部を占めるにすぎず、しかも大部分が読み書きできなかった労働者階級もまた、いま人口の大部分を占めるようになったばかりでなく、質的にも政治・経済を自らの手で担うにふさわしいものに成長した。労働者階級が政治・経済の主人公となることが社会主義であるとすれば、ようやくその条件が形成されたことになる。
 知識階級のイニシアティブによって始まったペレストロイカが、勤労者へその裾野(すその)を広げ、本格的なソ連社会主義再生のきっかけとなるかと思われたのが、1987年6月に最高会議で採択され、1988年1月に施行された国有企業法である。その第一の内容は、ソ連経済の基本単位としての国有企業の自主裁量権を大幅に拡大し、独立採算制と資金自己調達制を基本として中央の指令を減らすことである。第二は、企業の労働集団を全権的運営者としたことで、企業長をはじめとする職場の長は、これまでの任命制にかわって、それぞれの部局の労働集団によって5年までの任期で選出されることになった。これによって労働者の職場や仕事に対する関心と生産意欲が高められるはずであった。しかし、国の管理機関の改革が進まず、移行措置が不十分であったために、企業長による歯止めのない賃上げが行われるなど弊害が大きくなり、まもなく棚上げとなった。[木村英亮]
大統領制の導入と共産党一党制の廃止
1988年末、新しい最高権力機関として人民代議員大会が創設された。代議員の任期は5年で執行機関の長との兼務は禁止された。1990年2月共産党中央委員会総会では共産党の一党支配の廃止が決められ、3月には人民代議員大会によって新設の大統領にゴルバチョフが選出された。こうして国の実権の、党から国家機関への移動が完成したのである。
 このようなソ連の変化は、1989年から1990年にかけて東欧に激動をもたらし、1955年の創設以来、東側軍事ブロックの中核をなしてきたワルシャワ条約機構はその役割を終えて1991年7月に政治機構を解体した。また、経済相互援助会議(コメコン)も同年6月に解体の議定書の調印が行われ、ソ連・東欧ブロックは名実ともに消滅した。ハンガリーなどいくつかの国はヨーロッパ共同体(EC)に準加盟し、全欧安保協力会議(CSCE)にも加盟した。また、ソ連自体も西側への接近を強めた。一方、ゴルバチョフは1989年5月に北京(ペキン)を訪問して中ソ関係を正常化し、1990年9月にはトルクシブ鉄道と北疆(ほくきょう)鉄道がつながるなど中国との関係も密接になった。
 冷戦の終結により、米ソ間の軍縮交渉も進み、1987年12月中距離核兵器廃棄条約(INF条約)が調印され、1991年5月には完全に履行。同年7月には戦略兵器削減条約(START(スタート))も調印された。こうして、世界の緊張緩和がさらに進んだ。[木村英亮]
ソ連崩壊と市場経済導入

8月政変と共産党の解散
1991年8月19日、突如、副大統領ヤナーエフGennadiy Yanaev(1937―2010)が健康上の理由でゴルバチョフ大統領の職務を引き継いだこと、非常事態国家委員会が全権力を掌握したことが発表された。このクーデターの発生は、ソ連国民ばかりでなく、世界を驚かせた。これに先だつ同年6月の投票で、エリツィンが4555万票という史上空前の得票でロシア連邦共和国大統領に選出された。ロシア国民は共産党の意思に反し、むしろその妨害に逆らい反発してエリツィンを大統領に選んだのである。ロシア共和国はすでにその1年半前の1990年初めに民族主権宣言と人民主権宣言を発表し、6月12日の共和国人民代議員大会でそれを採択していた。この段階でロシア共和国とソ連との二重権力状態が生まれていたのである。
 クーデターが起こると、エリツィンはただちに抗議のゼネストを呼びかけた。1991年8月20日夜から21日朝にかけてロシア共和国政府の建物(ベールイ・ドム)の近くで戦車の出動などに抗議していた市民十数人が死傷した。まもなく非常事態国家委員会は国民の支持を得られず解散、22日早朝ゴルバチョフがクリミアから戻り、ヤナーエフらは逮捕され、内相プーゴBoris Pugo(1937―1991)は自殺、クーデターは失敗に終わった。ゴルバチョフはクーデター直後の8月24日、共産党が関与していたとして党の解散と書記長辞任を声明した。こうした政変の後、多くの都市でレーニン、ジェルジンスキー、カリーニンらロシア革命指導者の銅像がデモ隊によって倒されたのは、ソ連が終末へ向かう象徴的光景であったといえよう。エリツィンは7月のロシア共和国大統領就任直後、国家機関などでの政党の活動を禁止し、党と国家との癒着を断とうとしていたが、11月、ソ連共産党の活動を停止し、党組織を解散させる大統領令を出した。[木村英亮]
ソ連解体とエリツィンの指導権の確立
1991年1月、ソ連軍のリトアニアにおける武力行使に対し、ロシア共和国最高会議は抗議の訴えを決議した。これに対し、連邦指導部は3月に「主権共和国連邦に関する条約」案、ついで8月にはこれを共和国寄りに修正した新連邦条約案を発表し、ソ連の維持を図ろうとした。クーデターはその採択を阻止する意図をもつものであったが逆効果となり、共和国の連邦離れを決定的にした。9月に最後の連邦条約案である「主権国家連邦に関する条約」案が発表されたが、12月1日、ウクライナが国民投票で参加を拒否したことによって連邦の維持は不可能となった。そして12月21日、アルマアタでジョージア(グルジア)を除く11共和国が独立国家共同体(CIS)創設の議定書に調印、CIS成立によって69年間続いたソ連は解体した。これに伴ってソ連とロシア共和国の二重権力の状態も終わり、エリツィン大統領が前面に登場した。社会主義の再生を求めたペレストロイカの時代は終わり、資本主義を目ざす時代が始まる。[木村英亮]
全面的な市場経済化路線への移行
ロシアでは1992年1月、副首相ガイダルYegor Gaidar(1956―2009)によって価格が自由化され、国際通貨基金(IMF)の指導の下に資本主義に向け市場経済化の路線へ踏み出したが、たちまちハイパー・インフレーションが始まり、この年のうちに物価は26倍となり、年金生活者などの生活はどん底に落ちた。混乱のなかでマフィアが流通を握り、貧富の差が拡大し続けた。意図されているような市場経済は、国営企業の大部分が国有のままであったり、民営化されても独占が維持されている場合には実現がむずかしいが、そのための改革は遅れていた。巨大な軍需産業の民需への転換も大仕事である。財政は大幅な赤字となり、投資が急減しているばかりでなく、外国への資本の逃避が起きた。このような状況は、欧米諸国による資金援助の効果を減殺した。通貨ルーブルの安定を達成することも必要で、ルーブルの切下げを断行した。農業政策ではソフホーズ(国営農場)の株式会社化などの改編を実行したが、これにより投資が急減し、農業全体の生産が低下、穀物はソ連時代の60%台にまで落ち込んだ。
 このような経済的混乱のなかで、ロシアでは大統領と人民代議員大会との対立も深まり、命令や法律が守られず、一種の無政府状態が生じた。1992年12月にはガイダルが失脚し、チェルノムイルジンが首相に選出された。エリツィンは1993年4月の国民投票で過半数の支持は得たが、その後も政治の不安定が続き、10月にはついに最高議会を武力制圧して大統領権限を固めた。12月に行われた議会選挙ではエリツィン支持の改革派が第一党を占めたが、極右の「自由民主党」も多くの議席を獲得し、不安定な政治が続いた。[木村英亮]
旧ソ連各地域での民族紛争の激化
100以上の民族からなるソ連の解体は、民族紛争を解決することはできず、むしろその激化をもたらした。とくに多民族性の強い都市や、ドイツ人、ユダヤ人など少数民族の状況は悪化した。ロシア以外の共和国におけるロシア人の地位も不安定であった。
 ウクライナでは、ロシアとの結び付きの弱まりとともに経済が悪化、大統領、首相、最高会議3者の争いのなかで改革は中断し、ロシア人が多い東部での炭鉱ストなどによる地域的な対立も激しくなった。ザカフカスでは、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとアルメニアとの紛争が泥沼化し、そのなかでアゼルバイジャンの人民戦線政府は1年続いたのちに崩壊した。ジョージアでは独立運動派の大統領ガムサフルディアZviad Gamsakhurdia(1939―1993)の強権支配の下でアブハジア、オセチアとの民族紛争が激化し、元ソ連外相シェワルナゼを国家評議会議長に迎えて国内の安定と団結を目ざした。モルドバではルーマニア系住民と、ロシア人の多い「沿ドニエストル共和国」との対立が続き、リトアニアではサユディスが独立のイニシアティブをとってきたが、1992年10月の選挙で旧共産党系に敗れた。ラトビア、エストニアも含めたバルト諸国は旧ソ連のなかでは比較的生活水準も高かったが、ロシアとの経済関係の復活が求められた。中央アジアではタジキスタンで、旧共産党系の政府とイスラム勢力との内戦が続いた。ソ連の解体前後には諸外国とのつながりが求められたが、1993年1月、7か国による独立国家共同体憲章が調印されるなど、共和国間の経済関係の回復も模索された。[木村英亮]
ソ連崩壊の世界史的意義

 1917年にロシア革命が成功を収めたのは、戦争で生活に行き詰まった人々の平和の要求、農民の土地の要求、諸民族の自決の要求にこたえたことによる。これらの要求にソビエト政権のような形でこたえた例はなく、世界に大きな衝撃を与えた。また大恐慌の時期にソ連の計画経済があげた成果は、世界に大きな影響を与え、資本主義の下で経済に対する国家の介入が行われるようになった。ソ連崩壊以降、ソ連のような中央集権的指令的な経済の破綻(はたん)は明らかとなったが、環境や資源、また南北問題などの解決のために、なんらかの計画化が求められていることもまた確かである。集団化をはじめとする農業政策は、ソ連でもっともうまくいかず、スターリンの政策の失敗が目だった分野であるが、個人経営と協同組合経営、小規模経営と大規模経営、工業との結合の問題などは、ソ連に限らない問題である。農業を含めた国民経済全体を急速に発展させた経験は、とくに開発途上国にとって重要である。今日、民族紛争が世界的に噴出する一方で、広域経済圏の形成も試みられている。解体に終わったとはいえ、多民族の地域を連邦制の形で結合し、一つの分業体制を形成しようとした経験も貴重であろう。
 失敗に終わったとはいえ、これらの問題について、掲げられてきた社会主義の理論との関連をも含め、公開されつつある資料によって歴史的事実に即して明らかにしていくことが必要である。これは、ソ連を含めた世界史の再検討にまで及ぶべきであろう。
 ロシアをはじめとする旧ソ連各地域の状況はまだ流動的であり、結果は予測できない。長く共産党の一党支配が続いたために議会政治にも慣れていない。現在諸勢力のいくつかの政党への組織化の過程が進行中であるが、最終的にはどの勢力が多くの支持を集めるかによって将来が決まるであろう。その際、旧ソ連外の諸国の動向、働きかけも大きな役割を果たすであろう。ソ連の崩壊によって、アメリカ、西欧諸国とともに世界の政治・経済に対する日本の責任は大きくなっている。なお、ソ連崩壊後のロシアについては「ロシア連邦」「ロシア史」の項目を参照。ウクライナなど旧ソ連の構成共和国についてはそれぞれの項目を参照のこと。[木村英亮]

東欧の歴史的変革


総論 東欧の民主化

 1980年代の東欧は、ポーランドの自主・自立労働組合「連帯」の成立によって幕を開けた。「連帯」は翌1981年に戒厳令によってつぶされはしたが、それは第二次世界大戦後東欧の共産党権力が統治能力を完全に喪失したことを象徴するものであり、1989年にポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアという順で連鎖反応的に発生した政権崩壊の先触れをなすものであった。第二次大戦後の東欧では、1953年東ベルリン暴動、1956年ハンガリー動乱(ハンガリー事件)、1968年チェコ事件、1980年「連帯」登場という形で、押し付けられた「スターリン主義体制」に民衆が一貫して抵抗し、自由と自立を求め続けてきたのであり、その意味では1989年革命は内因的・内発的な事件であった。
 しかし他方で、1985年にソ連にゴルバチョフ政権が登場し、あらゆる面で大胆な転換を開始したことの衝撃は、東欧においても決定的であった。1980年代全体を通じて自主的に改革を進めてきたハンガリーとポーランドにとっても、ゴルバチョフが「ブレジネフ・ドクトリン」を何度も否認したことが変動を予想以上に進展させることになった。東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニアについては、来訪したゴルバチョフが間接的に改革を勧告する発言をし、政権倒壊のきっかけをつくった。
 東欧革命は、1970年代以来、しだいに歴史の底流となってきた政治、経済の自由化の気運、さらには人権擁護、環境保護などの人類共通の課題に対する認識の浸透に触発されたものであり、角度を変えてみれば、1989年の米ソ首脳のマルタ会談によって方向が示された国際関係、政治思想、経済体制などの広範な分野に及ぶ巨大な変化の一環として発生したものであったといえよう。
 1989年の変動後、東欧各国は、自由選挙を繰り返し、政治的複数主義と市場経済の確立に向けて奮闘を始めた。東中欧(中欧)と南東欧(バルカン)とを比較すると、政治面では前者の選挙で共産党が惨敗したのに対し、後者では最初の自由選挙で共産党ないしその後継政党が勝利を収めた。その理由は、後者ではその多くで戦後政権が第二次世界大戦中の対ドイツ抵抗戦争か、クーデターにより自力で樹立された面が強かったこと、他方で共産党の権威主義的支配が伝統的政治風土により適合的であったことが考えられる。ただ、セルビア以外のバルカン諸国では、まもなく非共産党勢力が選挙で勝利を収めた。経済面では、より先進的であった東中欧が急進的な民営化、市場化に向かったが、当初予期されたほどには転換は成功したとはいえなかった。原因は多様であるが、その一つは東欧全体を通じて人々が、革命の熱狂のなかで「民主政治」や「市場経済」をあまりにもバラ色に理想化し、その実現には大きな社会的コストが不可欠であることを軽視したことにあったと思われる。[木戸 蓊]
東欧各国の動き

東ドイツ国家の消滅
西ドイツ(ドイツ連邦共和国)のブラント政権(1969~1974)の「東方政策」は、東西ドイツ間にヒト、モノ、カネ、情報の太い流れを生み出し、東ドイツ(ドイツ民主共和国)のホーネッカー政権を窮地に追い込んだ。1989年にハンガリーがオーストリアとの国境を開いたという情報に接した東ドイツ市民は、9月以降大挙してそのルートを経由して西ドイツへ逃亡した。10月からライプツィヒなどで自由旅行、自由選挙を求めるデモの参加者が急増し、11月4日には東ベルリンで100万人デモが行われた。これに対して東ドイツ当局は民衆の圧力を回避するねらいで、11月9日に「ベルリンの壁」を含む東西ドイツ間の国境を開放した。これ以降、両ドイツ統一への機運は急速に高まり、1990年3月に実施された初の自由選挙では、西ドイツの主要政党が幹部や資金を送り込み、代理選挙の様相を呈した。東ドイツ経済が急速に崩壊しつつあったこと、西ドイツ首相コールが両国のマルクが1対1で交換可能であるかのような発言をしたことなどもあり、選挙の結果はキリスト教民主同盟を中心とする保守系の「ドイツ連合」が、48.2%の得票を得て勝利した。選挙前には、西ドイツ基本法第146条に基づいて、両国が対等な立場で新憲法をつくる案が有力であったが、東ドイツ国民が西との早期統合を求めていることが明らかになったため、東ドイツの州を西ドイツの州に合わせて再編成し、西ドイツ基本法第23条に基づいて連邦共和国に編入する方式がとられることになった。西ドイツの連邦銀行がインフレを懸念してマルクの1対2交換を主張したため、折衝が重ねられ、7月の通貨協定により賃金・年金は1対1、預金は年齢に応じて3段階の上限までが1対1、それ以外は1対2の比率で交換されることとなった。1990年8月31日、東西ドイツは政治統一を取り決めた国家条約に署名し、9月12日には東西ドイツと第二次世界大戦の戦勝4か国の外相がドイツに関する最終規定条約に署名した。そして10月3日にドイツ統一が実現し、東ドイツ国家は消滅した。[木戸 蓊]
ポーランド「連帯」の苦い勝利
1981年に戒厳令を敷いたポーランド共産党第一書記兼首相のヤルゼルスキは、1983年6月の法王ヨハネ・パウロ2世の里帰りを契機として7月には戒厳令を解除し、経済改革を推進しようとした。しかし消費物資の大幅値上げを伴う改革には労働者が抵抗し、1988年夏にはストライキが全国化した。1989年にヤルゼルスキは党内の反対を押し切って、「政治的複数主義」と「連帯」の再合法化の決断を下した。1989年6月には旧来の方式に自由選挙の要素を加味した選挙が行われ、自由選挙の部分では「連帯」が圧勝した。この結果、9月に「連帯」週刊誌編集長のマゾビエツキTadeusz Mazowiecki(1927―2013)を首班とする内閣が発足、同首相はインフレ克服のため補助金打切りなどの超緊縮政策を発表した。しかしこの政策は国民には不人気で、1990年11~12月に行われた大統領選挙では、各方面に約束を振りまいたワレサが当選し、マゾビエツキは第3位にとどまった。1991年10月に行われた本格的自由選挙では、29の政党が議会に登場することになったが、単独で全議席数の20%を占める党はなく、議席数1の党が11に達したこと、民主左翼連合(旧共産党)が大衆の不満を吸収し13%の議席を得て第二党になったこと、投票率が43%と低かったことが特徴であった。12月になってやっと成立したオルシェフスキ政権は、1993年2月に過去2年間の引き締め政策を緩和すると発表したが、国際通貨基金(IMF)、世界銀行の厳しい注文を背景に退陣を余儀なくされた。8月にハンナ・スホツカHanna Suchocka(1946― )内閣が登場して緊縮政策に戻ることを明らかにしたが、各地で連帯系労組のストが広がり、1993年5月には国会も同内閣を不信任した。大統領ワレサはこれに対抗して国会を解散したが、同年9月の総選挙では民主左翼連合が第一党となり、元協力政党の農民党とあわせて下院議席の3分の2を支配した。ワレサが結成した新党ブロックは5.4%しか得票できなかった。10月には農民党のパブラクWaldemar Pawlak(1959― )党首が首相になり、より穏和な改革路線の採用を発表した。[木戸 蓊]
民営化に取り組むハンガリー
1980年代に大胆な経済改革の試みを次々に打ち出したハンガリーでは、1988年の共産党全国会議でカーダールをはじめ古参指導者8人が政治局を去り、ニエルシュ、ポジュガイら若手改革派が指導権を握った。1980年代末には「民主フォーラム」などの新政党が名のりをあげ、また、非合法化されていた戦前の諸政党の復活が認められ、1989年1月の結社法によりそれらがすべて公認された。1989年2月と6月の党中央委員会で、党組織が西ドイツの社会民主党(SPD)に似たものに再編成されたほか、1956年のハンガリー動乱が「反革命ではなく、国民的蜂起(ほうき)であった」とする立場が公式見解として打ち出された。1990年3~4月に行われた自由選挙では、民主フォーラムが165議席を獲得、協定を結んでいた小地主党、キリスト教民主国民党とあわせて229(総数386)の議席を確保し、政権をとった。自己改造に努めた社会党(旧共産党)は第4位で、獲得議席は32にとどまった。民主フォーラム議長のアンタルAntall Jzsef(1932―1993)政権は、国営企業の民営化に力を注いだが、成果は十分にあがらなかった。1992年4月に破産法が発効し、2000近くの非効率企業が破産した。失業者はその後1年間に8万人から40万人に増加し、他の東欧諸国同様、1990年代を通じて目標とされた市場経済化の成果も、弊害のほうが目だつという皮肉な結果となった。[木戸 蓊]
分裂した連邦国家チェコスロバキア
チェコスロバキアでも1980年代には教会や知識人による政府批判が強まっていたが、1989年11月の「ベルリンの壁」崩壊はこの国の市民に衝撃を与え、11月17日以後プラハなどで連日数十万人の自由化要求デモが行われた。結局、党指導部は退陣し、反体制派劇作家ハベルを中心とする「市民フォーラム」代表と党の新指導部との会談で民主化の過程が検討された。12月28日には連邦議会議長にドプチェクが、29日には大統領にハベルが選出された。1990年6月に行われた自由選挙では、市民フォーラム(スロバキアでは「暴力に反対する公民」という名称)が170議席を獲得して第一党に、共産党は47議席で第二党に、キリスト教民主同盟が40議席で第三党になった。「暴力に反対する公民」は連邦維持派で、独立を主張するスロバキア人民党とは一線を画していたが、その後、チェコの蔵相クラウスによる急進的な市場化政策に対する反発や、ソ連、ユーゴスラビアの連邦崩壊の影響を受けて内部で民族主義気運が強まり、1992年3月に連邦維持派の市民民主同盟と分離独立派の民主スロバキア運動に分裂したのち、後者の勢力が急増した。同年6月の選挙では、クラウス蔵相派の市民民主党がチェコで85の議席を得て第一党になったのに対し、民主スロバキア運動はスロバキアで57の議席を得て第二党となった。後者の党首メチアルはスロバキアの首相に就任するとともに、スロバキアの主権宣言を行うと発表した。連邦維持を望んでいたチェコ側もそうした気運を受け入れ、8月に両国の独立過程に関する合意が成立、双方が独自の憲法を制定し、1993年1月1日からチェコとスロバキアは、それぞれが主権国家となった。[木戸 蓊]
ルーマニアの「救国戦線」
1970年代に大統領チャウシェスクが夢想的な「先進国化」構想を打ち出したルーマニアでは、そのための国民総動員体制が形成され、窮乏生活を強いられた国民の不満が強まっていた。トランシルバニア地方のハンガリー系住民に対する迫害が国連人権委員会でも問題にされ、同国は国際的にも孤立した。1989年12月18日に西部のティミショアラで発生した民衆と警察との衝突は、21日になってブカレストでの大規模なデモに発展し、チャウシェスクに忠誠を尽くす治安警察隊と民衆の側に立った国軍の間で銃撃戦が発生した。22日に国営ラジオを通じて臨時革命勢力の「救国戦線」が権力を掌握したことが発表された。同日チャウシェスク夫妻は逃亡を試みて国軍に逮捕され、25日に特別軍事法廷は両人に死刑を宣告、刑は即時に執行された。1990年5月22日に行われた大統領選挙では、救国戦線議長のイリエスクIon Iliescu(1930― )が85.1%の得票により当選し、同時に行われた国会選挙でも救国戦線が下院議席の66.4%、上院議席の77.3%を占めた。野党は救国戦線が旧共産党幹部中心の組織であり、選挙では不正が行われたとして、その後しばしば抗議デモを組織した。1992年3月の救国戦線大会では、改革派の議長であるロマンPetre Roman(1946― )への支持が確認され、これに対抗してイリエスク派は民主救国戦線という別組織を結成した。しかし、9月の大統領選挙ではイリエスクが再選され、国会選挙でも民主救国戦線は、支持は減ったものの第一党の地位を保った。[木戸 蓊]
政権が野党に移ったブルガリア
ブルガリアでは1981年から「新経済メカニズム」という経済改革が開始されたが、そのしわ寄せが社会生活に波及し、環境問題や人権問題が浮上した。ことに、1984年末からトルコ系少数民族の氏名をブルガリア式に改名させる政策が強行されたため、トルコ系住民のトルコへの移住が1989年8月までに30万人に達した。「ベルリンの壁」が開かれた翌日の1989年11月10日に、35年間権力の座にあった書記長ジフコフが高齢を理由に辞任し、後任には外相のムラデノフNikolay Mladenov(1972― )が就任した。ソ連の意向を受けて党内でジフコフ辞任を促す動きがあったともいわれ、環境保護グループ「エコグラスノスト」などによる体制批判も強まっていた。1990年6月の自由選挙では、社会党(旧共産党)が議席の過半数(52.8%)を占め、野党連合の民主勢力同盟は28.8%にとどまった。7月に社会党のムラデノフがデモ弾圧の責任を問われて辞任、新大統領に民主勢力同盟議長のジェリュ・ジェレフZhelyu Zhelev(1935―2015)が就任した。1991年10月の選挙では民主勢力同盟は議席数の45.8%を獲得したが、社会党も44.2%を得たので、トルコ系の「権利と自由のための運動」と農民同盟の支持を取り付けて過半数を確保、11月に民主勢力同盟議長のディミトロフが初めて社会党を含まない内閣を組織した。しかし、価格自由化を中心とする経済改革に反対する労組のストが拡大、1992年10月にディミトロフ内閣は解散、12月に経済学者ベロフLyuben Berov(1925―2006)を首班とする「専門家内閣」が発足した。[木戸 蓊]
ユーゴスラビアの解体
ユーゴスラビアでは1980年5月に大統領チトーが死去したあと、6共和国と2自治州から1人ずつ代表が出て連邦幹部会を構成し、1年交代で議長(国家元首)を務めるという多頭体制が発足したが、経済危機は年を追うごとに深刻化した。1987年に連邦首相ミクリッチBranko Mikuli(1928―1994)(クロアチア出身)はインフレ対策として賃金を凍結し、その後生産性向上にスライドさせる政策を発表したが、各地でストが発生した。1989年に東欧全体の激動の過程で「中欧」結束の気運が発生すると、宗教的、歴史的にかつて中欧に属していたユーゴ内の先進共和国スロベニアとクロアチアでは、その気運に乗ろうとする分離主義が急浮上した。1990年1月の党大会でスロベニア代表が退場すると、クロアチア代表もそれにならい、党は完全に分裂した。1990年4月から12月にかけてユーゴ内の共和国で次々に自由選挙が行われ、スロベニア、クロアチア、マケドニアでは民族主義的政党が勝利したが、セルビア、モンテネグロでは旧共産党が政権を維持した。そして1991年6月25日に、スロベニアとクロアチアの議会が、それぞれ「独立宣言」をするに至るのである。[木戸 蓊]
民主化のアルバニアへの波及
アルバニアでは1985年4月に最高指導者ホジャEnver Hoxha(1908―1985)が死去し、後任の党第一書記にラミズ・アリアRamiz Alia(1925―2011)が就任すると、ホジャ路線を基本的には継承しながら、イギリス、カナダ、西ドイツなどと国交を樹立、1988年2月の全バルカン外相会議に初参加するなど、国際的孤立から脱出する方向を模索し始めた。1989年の東欧の激動はアルバニアを素通りするかにみえたが、1990年7月に首都チラナで自由化を要求する1万人デモが発生し、また6000人ものアルバニア人が外国大使館に逃げ込み、出国に成功した。1991年3月には、最初の複数政党制による国会選挙が行われたが、労働党(共産党)が議席の67.2%を占め、主要野党の民主党は30%にとどまった。そのころから数万人ものアルバニア人が船でイタリア各港に逃亡し、また秋以降には極端な食糧難に抗議するスト、デモ、暴動が多発するようになった。1992年3月の国会選挙では民主党が65.7%の議席を獲得、27.1%の社会党(旧労働党)を野党に追い込んだ。同年4月に大統領アリアが辞任し、後任には民主党議長ベリシャSali Berisha(1944― )が選ばれた。大多数が民主党所属のメクシAlexander Meksi(1939― )内閣が誕生し、アルバニアもついに農地・国営企業・住宅などの私有化に乗り出した。[木戸 蓊]
『木戸蓊著『激動の東欧史』(1990・中央公論社) ▽フローラ・ルイス著、友田錫訳『ヨーロッパ 民族のモザイク』(1990・河出書房新社) ▽長砂實・木村英亮編『「どん底」のロシア』(1993・かもがわ出版) ▽外務省ロシア・CIS問題研究会編著『最新アトラス データで見るロシア/CIS』(1993・ダイヤモンド社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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