アメリカの黒人女性シンガー。テネシー州ナットブッシュに生まれる。本名アンナ・メイ・ブロックAnna Mae Bullock。強烈なボーカルで、黒人のソウル・ミュージックと白人のロック・ミュージックの橋渡しをつとめた。
小さいころから音楽好きであったが、故郷のテネシー州など南部の黒人街で注目を集め始めたのは、後に夫となるアイク・ターナーIke Turner(1931―2007)が率いるバンド、キングズ・オブ・リズムに入ってからのことであった。キングズ・オブ・リズムのファンであったティナは、その才能をアイクにみいだされ、メンバー入りしたのち短期間でバンドの中心へと成長していった。
1950年代当時、アイクが率いるキングズ・オブ・リズムは南部でも指折りの黒人ダンス・バンドとして知られていた。1951年に彼らは、ロックン・ロール・ヒットの第1号といわれるシングル「ロケット88」(バンド・メンバーであったジャッキー・ブレンストンJackie Brenston(1930―1979)のバンド、ジャッキー・ブレンストン・アンド・ヒズ・デルタキャッツ名義で発売)を世に送り、一大変革期にあった当時のアメリカン・ポップ・ミュージックの土台となるバンドの一つとなった。さらに、リーダーであるアイクは、サニー・ボーイ・ウィリアムソンSonny Boy Williamson(1899―1965)やB・B・キングなど、第二次世界大戦後のブルースを彩(いろど)った先人たちとの交流から多くを学びながら、さらにビートの激しいエネルギッシュな音楽性で若年層から人気を集めたのである。そこに新たに加わったのがティナであった。アイクとティナは1958年に結婚し、これを機にバンド名もアイク&ティナ・ターナーと変える。
1960年代初頭は、アメリカでも女性が人前で踊り歌うことは好ましいことではなかった。しかしアイク&ティナ・ターナーのレビューは、この常識に逆らうように、ティナと数人の女性コーラスを舞台前面に立て、セックス描写を強調する生々しいステージで評判をよんだのである。ちなみに「ロックン・ロール」の「ロック」や「ロール」は、もともとは性行為を意味する隠語であった。アイク&ティナ・ターナーやジェームズ・ブラウンら、1950~1960年代を席巻した黒人ミュージシャンは、キリスト教という規律に縛られたアメリカの社会の息苦しさを、セックスやダンスなどの「肉体の表現」で否定しようとする文化的側面をもち、これが若い白人層にも浸透したのである。
アイク&ティナ・ターナーのヒットとしては「ア・フール・イン・ラブ」(1959)、「アイ・アイドライズ・ユー」(1961)、「プラウド・メアリー」(1971)などがある。またアメリカではヒットはしなかったものの、フィル・スペクターがプロデュースした「リバー・ディープ/マウンテン・ハイ」(1966)という名作もある。
1976年にアイクとティナは離婚。その後ティナが一人のシンガー、また一人の女性としてのびのびと仕事をする時代がやってくる。長年にわたるアイクからの暴力によって縛りつけられた生活をついに清算したからで、彼女は、1984年の「レッツ・ステイ・トゥギャザー」「ホワッツ・ラブ・ガット・トゥ・ドゥ・ウィズ・イット」などの大ヒット、映画『マッド・マックス サンダードーム』(1985。ジョージ・ミラーGeorge Miller(1945― )監督)への出演の時期に、人気の頂点を迎えることになる。当時の彼女は40歳代後半とは思えない若々しさと迫力で、マドンナなどと並び、新時代の女性像の一翼を担いながら1980年代のトップ・ポップ・シンガーへと昇りつめた。
[藤田 正]
イギリスの風景画家。4月23日ロンドンに生まれる。ロイヤル・アカデミーの美術学校に入学。初めは水彩画で地誌的、名所絵図的作品を描いたが、やがて油彩画に力を注ぎ、1802年初めて大陸に旅したのち、『カレー埠頭(ふとう)』などに代表される作品群が生まれる。主として、暗い色調で、形態を激しい動きでとらえようとする。15年、彼の絵の質は一変、画面構成において、クロード・ロランに肉薄しようとして、擬古典的な静的な明るさをもつ作品が描かれた。28年、二度目のイタリア旅行をしたのちは、文学的物語を主題として、色と光とで幻想的風景を描くようになり、『チャイルド・ハロルドの巡礼』『戦艦テメレール』などが生まれた。
1839年に最後のイタリア旅行をしたが、このころから、一連のいわゆる「ベネチア風景」が描かれた。ここでは文学的主題は消え、物の描写はほとんど留意されなくなる。画面に描かれた主題や物象自体の動きでなく、動きをいわば光の振動に転換して表現しようとする。「光の錬金術師」といわれたように、世界のエネルギーとしての光を描いたともいえよう。また未完成に終わった作品も多い。彼の絵画は半世紀後の印象派以後の問題を予想させる異彩に違いないが、晩年の未完成の作品には、それ以上のものを感じさせる。51年12月19日ロンドンに没し、手元にあった約2万点の作品は国家に遺贈された。そのほとんどはロンドンのテート・ブリテン(旧テート・ギャラリー)の所蔵となっている。
[岡本謙次郎]
『千足伸行解説『世界美術全集18 ターナー』(1977・集英社)』▽『渡辺俊夫編『世界の素描15 ターナー』(1978・講談社)』
スコットランド生まれの人類学者。バージニア大学教授を務めた。マンチェスター大学修了後、ザンビアのンデンブ(デンブ)Ndembu人社会で詳細な実地調査研究を行う。それまでの静的な社会構造分析を中心としたアフリカ社会研究に対して、「社会劇」として記述・解読される社会過程の動的把握と、文化の根幹にかかわる儀礼と象徴の研究を推進し新しい次元を開いた。理論的にはファン・ヘネップの儀礼研究にみられる移行と境界状態の問題を発展させ、社会における境界状態に注目しつつ、地位や役割といった形で人間を区分する社会構造に対して、平等性と連帯性を強調する人間の存在様式(コミュニタス)を積極的な文化概念として提出した。社会は構造と反構造から構成されるとする、いわば「否定性」に着目するターナーの所説は、「未開社会」の枠を超えて、巡礼やカーニバルなど現代社会や歴史社会における文化現象をも人類学的分析の対象とし、人類学以外の分野にも大きな影響を与えている。
[永渕康之 2018年12月13日]
『冨倉光雄訳『儀礼の過程』(1976・思索社/新装版・1996・新思索社)』▽『梶原景昭訳『象徴と社会』(1981・紀伊國屋書店)』
イギリスの天文学者。リーズに美術家の子として生まれる。ケンブリッジのトリニティ・カレッジに学ぶ。1884年グリニジ天文台の主任助手となり、1893年オックスフォード大学の天文学教授となり、終生この職にあった。天文観測に写真観測を採用し、それに関する研究もある。後年、変光星、月面地形、地震の研究を行い、友人の地震学者ミルンの死後その観測を引き継ぎ、後年これをオックスフォードに移した。また、世界中の地震観測資料を集め、震源カタログを発行した。その間1922年には深発地震の存在に想到している。同年「測地学および地球物理学国際会議」の地震部会議長となる。1930年8月、ストックホルムでの同会議の初会議開始のとき脳出血に倒れ、4日後の8月16日に没した。
[松澤武雄]
イギリスの劇作家。文学的出発は風刺的寓意(ぐうい)詩『変形譚(たん)変形』The Transformed Metamorphosis(1600)。経歴には謎(なぞ)の部分がきわめて多く、彼の作と断定される現存戯曲は『無神論者の悲劇』The Atheist's Tragedy(1611)一作だけである。これは副題に「正直者の復讐(ふくしゅう)」とあるように「復讐劇」の系統に属する作品であるが、残虐非道な無神論者ダンビルが自ら振り上げた斧(おの)によって頭を割られる結末には、神による復讐というモラルと同時に、伝統的復讐劇に対する批判も読み取れる。流血と瞑想(めいそう)の交錯するジェームズ朝悲劇の傑作『復讐者の悲劇』(1607)も、彼の作とみなされているが、決定的証拠に欠け、ミドルトン作者説も依然として有力である。ほかにヘンリー王子の夭折(ようせつ)を悼む哀歌などの詩作がある。1613年には早くも筆を断ち、25年、政治家サー・エドワード・セシルEdward Cecil(1572―1638)の個人秘書としてスペインに遠征するが、カディス攻略の企ては失敗、その帰国途上アイルランドに客死した。
[野崎睦美]
『大場建治訳『復讐者の悲劇』(1969・悠久出版)』
アメリカの歴史学者。ウィスコンシン州に生まれる。1888年から1910年までウィスコンシン大学、また10年から24年までハーバード大学でアメリカ史を講じた。1893年に発表した論文『アメリカ史における辺境(フロンティア)の意義』は、彼のフロンティア学説展開の基礎として、歴史学者としての彼の地位を確立したばかりか、アメリカの思想界にも大きな影響を与えた。彼は、アメリカの歴史のユニークさは、西部の存在にあったとし、ヨーロッパからの移民者であるアメリカ人は、未開の西部との遭遇体験を通して、独自の個人主義的、民主主義的伝統を生み出していったと論じた。著作に『西部の興隆』The Rise of the West(1906)がある。
[紀平英作]
イギリスの画家。コンスタブルと並んでイギリス風景画の黄金期を代表し,その作品数,後世への影響の大きさなどから,同国最大の画家といえる。
ロンドンのコベント・ガーデンの理髪師の息子として生まれる。幼時から画才を示し,1789年から4年間ローヤル・アカデミーに学んだ。そのかたわら当時需要のあった地誌的(トポグラフィカル)な銅版画の下絵や彩色に携わり,またカズンズ等の風景素描の模写複製の仕事をし,しだいに風景画家としての道を歩み始める。早くから国内の制作旅行を試み,1802年にはフランスとスイスにも旅行し,アルプスの壮大崇高な風景に打たれ,ルーブル美術館の巨匠たちの作品から大きな影響を受けた。同年ローヤル・アカデミー会員になり,このころから意識的に正統的アカデミズムの作品,すなわち大画面の歴史画を手がけるようになる。その生い立ちのゆえに歴史画制作に必要な古典的教養に欠け,ときに主題解釈上の誤りを犯しているといわれる。しかし,この分野の彼の作品では,主題の物語る〈過去〉が,背景として描かれた風景を満たす生き生きとした光や大気の〈現在〉によって生気を与えられ,そこに独特のドラマ性がみられる(《雪の嵐:アルプスを越えるハンニバルとその軍勢》1812)。歴史画制作のかたわら身近なイギリスの自然を描き,天候と大気が風景に与える変化を追究し,《霜の朝》(1813)などを完成する。19年夏に最初のイタリア旅行を行った。帰国後は,旅行中の無数のスケッチを用いて旅先に取材した大作に取り組む。また南国の体験は,彼の作品における光の役割を大きなものにした。28年,2度目のイタリア旅行を試み,29-46年にはイタリアに主題を採った作品を毎年のようにローヤル・アカデミーに発表した。他方国内では20年代末から30年代にかけて,サセックスのペットワースにあるエグルモント伯爵の館を足場に多くの風景画や室内画を描き,スコットランドなどにも制作旅行を行った。また,《雨,蒸気,速度》(1844)のように,汽車や船など,蒸気を用いる当時の最新の乗物の美にも開眼する。総じて晩年の画面からは事物の細密な描写が失われ,光や霧のもうろうとした表現がその主役となり,ことに40年以降多く描かれたベネチア風景にその傾向が顕著である。ローヤル・アカデミーの院長代理を務めるなど画家としての地位は高く,莫大な財産も築いたが,母親の精神病の遺伝を恐れてか生涯独身で,ロンドン市内に本宅と別の隠れ家でひっそりと世を去った。
ターナーの風景画家としての軌跡は,18世紀イギリスの伝統的な水彩画,地誌画に始まり,ロマン主義的情趣に満ちた物語(歴史)主題の風景画によって盛期を迎え,印象主義やときには非具象絵画さえも先駆する晩年の作品によって幕を閉じた。それと並行して,光と天候と大気という近代風景画の基本的課題を,生涯をかけて追究しつづけた。
執筆者:鈴木 杜幾子
イギリスの劇作家。初期の晦渋(かいじゆう)な寓意詩《変身の変容》(1606)のほか数編の詩の作者であること,晩年セシル卿のスペイン遠征に参加して途中アイルランドで病死したこと以外,彼の生涯について知られることは少ない。今日確実に彼の作とされる戯曲は《無神論者の悲劇》(1609ごろ初演)の1編のみである。〈正義の士の復讐〉という副題をもつこの悲劇は,無神論者の悪党の企むグロテスクな陰謀を軸に,腐敗した貴族社会の乱倫の図をなまなましくくりひろげる。さらに殺人と亡霊の出現がそれに加わって典型的なセネカ風復讐劇を予想させるが,最後は悪党がみずからの振り上げた斧でみずからの頭を割るという神による復讐の形で終わっている。
安直なモラル,生硬で誇張に富んだ文体,人為的な筋立てと生気に乏しい人物像などの欠点にもかかわらず,この作品に,最近まで彼の作とみなされてきた《復讐者の悲劇》(1606ごろ。T.ミドルトン作)に共通する生への否定的精神の表出を見取り,この劇をジェームズ朝悲劇の一つの代表作とする向きもある。
執筆者:笹山 隆
アメリカの歴史家。ウィスコンシン州出身。ウィスコンシン大学(1891-1910),ハーバード大学(1910-24)でアメリカ史を教え,1927年から死去までカリフォルニア州のハンティントン・ライブラリーの研究員。1893年《アメリカ史におけるフロンティアの意義》を発表,その後の一連の論文は〈フロンティア学説〉としてまとめられ,アメリカ史の見方を,当時主流を占めていた制度史,憲政史,東部中心のものから,フロンティアおよび西部という環境に重点をおく見方に変えた。同時に,アメリカ史を多数のセクション間の対立,抗争,合従,連衡という角度から見ることの必要性を強調した。1920年代には,アメリカ歴史学界は〈ターナー党〉になってしまった,といわれるほど強力な影響力をもっていた。
執筆者:渡辺 真治
アメリカ最大の奴隷暴動の指導者。バージニア州サウスハンプトン郡生れの奴隷で,生来豊かな才能に恵まれ,神秘的な傾向が強く,予言者として奴隷たちの信望を集めた。28歳のとき天啓を受けて奴隷に自由を与える使命にめざめ,1831年8月21日,天候の異常現象を神の啓示と感じ,数名の奴隷たちと暴動を起こした。翌日は数十名に膨張し,白人約60人を殺害した。暴動はまもなく軍隊に鎮圧され,ターナーも10月末に捕らえられて11月に処刑されたが,全南部は恐慌状態に陥り,奴隷取締りが厳重になった。1968年にピュリッツァー賞を受けたW.スタイロンの小説《ナット・ターナーの告白》(1967)は,これをテーマにしたものである。
執筆者:猿谷 要
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1800~31
黒人説教者で,1831年8月ヴァージニア州サウサンプトン郡で起こったアメリカ最大の奴隷反乱を指導。約60人の白人を殺害したが,鎮圧され絞首刑に処せられた。この反乱を機に南部では奴隷に対する取締りが強化されるに至る。
1775~1851
イギリスの画家。風景画を中心にして光線と大気の織りなす雰囲気を独特の色彩で描き出し,コンスタブルと並んで,イギリス最大の画家と評価されている。のちの印象派にも影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ハムレット,マクベス,リア王,フォールスタッフなど,強烈な存在感のある人物を数多く造った点でも,彼の右に出るものはいない。
[屈折と終息]
シェークスピアの同時代人には,〈気質喜劇〉と呼ばれる卓抜な風刺劇の作者ベン・ジョンソンがいたが,ほかにも,《白魔》《モールフィ公爵夫人》のJ.ウェブスター,《復讐者の悲劇》のC.ターナー,《あわれ彼女は娼婦》のJ.フォードなど,すぐれた才能がひしめいていた。加虐,嗜虐,近親相姦といった屈折し倒錯した主題を,マニエリスム的な手法で劇化した彼らの作品には,ルネサンス末期の魂の苦悩と,痛ましい抵抗の身もだえが満ちている。…
…90年代にアメリカはイギリスに追いつき追いこして世界一の工業国になり,それを誇示するかのように93年アメリカの急成長を象徴する都市シカゴで盛大な万国博覧会が開催された。
[フロンティアの消滅と海外進出]
そのシカゴ万博の会場の一隅で,F.J.ターナーという歴史学者が1890年にフロンティアが消えたことを論じ,〈フロンティアの消滅とともに,アメリカ史の第1期は終わった〉とその報告を結んだ。アメリカの限りなき発展を象徴するフロンティアが失われたことは,ヨーロッパと異なるアメリカ社会というイメージの基底が失われたことを意味する。…
…アメリカの開拓は,単に農地を拡大し,農業生産を増大させたのみならず,開拓者精神を生み出した。歴史家F.J.ターナーは,西部開拓がアメリカの個人主義,経済的平等,立身出世の自由,民主主義を促進したと指摘している。このようなアメリカ開拓の精神と技術は,日本の北海道開拓にあたり,H.ケプロンやW.S.クラークによって伝えられたのである。…
…さらに約300年にわたって北アメリカに存在し続けたフロンティアはアメリカの文明や社会に大きな影響を及ぼした。アメリカ史におけるフロンティアの存在の重要性を初めて総合的に主張した歴史家F.J.ターナーの〈フロンティア学説〉を参考にしてフロンティアの意義について見てみよう。フロンティアと密接な関係にあるのが未開拓の自由地(フリーランド)である。…
…しかし,いずれも独自の国民様式として定着するにはいたらず,時代による質的な差も目だつ。また少なくとも19世紀のJ.M.W.ターナー,J.コンスタブルの時代までは,ジャンルを問わず大陸諸国に与えた影響よりは受けた影響の方が大きかった。島国という地理的特殊性がイギリス美術にどれだけ作用しているかは微妙な問題であるが,様式の伝播という点からすれば,大陸諸国との間に時間的なずれがしばしば認められる(マネ,セザンヌ,ゴッホ,ゴーギャンなどの作品がイギリスで初めて本格的に紹介されたのが,ようやく1911‐12年の〈マネと後期印象派〉展によってであったというのは,その一例である)。…
…一貫した体系を持つ学術論文ではないが,作者の美意識,とくに19世紀イギリス社会の芸術に対する無理解を断罪する社会改革的使命感がよく表れている。自然と人間との関係,ヨーロッパの風景画についての論考など,話題は広く多様だが,画家ターナーをいち早く賞賛している点などが注目に値する。【小池 滋】。…
…時まさにイギリス・ロマン主義の時代である。1792年17歳の若き画家J.M.W.ターナーが,翌年,青年詩人ワーズワースがここを訪れる。ターナーはその後幾度か足を運び数多くのすぐれた作品を残し,ワーズワースは5年後の98年に妹とここを訪れ,〈人間性の奏でる静かな悲哀の音色〉を耳にして《ワイ川再訪に際しティンターン・アベーの数マイル上流にて詠めるうた》を書く。…
※「ターナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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