イタリア最大の詩人。不滅の古典『神曲』を著して、ヨーロッパ中世の文学、哲学、神学、修辞学、および諸科学の伝統を総括し、古代ギリシアのホメロスとローマのウェルギリウスが築いた長編叙事詩の正統を継承し、やや遅れて現れたペトラルカ、ボッカチオと並んで、ルネサンス文学の地平を切り開いた。
1265年の5月もしくは6月に、フィレンツェの小貴族の家柄に生まれた。父親はアリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ、母親はベッラ。祖父の祖父カッチャグィーダは第2回十字軍に加わって戦死。祖父ベッリンチョーネと父アリギエーロはフィレンツェとプラートで金融業に従事していたが、ダンテの代に一家は裕福とはいえない経済状態にあった。けれども、貴族のたしなみとして、幼少から古典文法と修辞学を修め、青年時代にはフィレンツェ市国の上流階級に出入りし、学問の研鑽(けんさん)を積み、碩学(せきがく)のブルネット・ラティーニにも師事した。
[河島英昭]
『神曲』のなかで主人公ダンテを導きながら、ローマの大詩人ウェルギリウスが「地獄」「煉獄(れんごく)」を案内することからも明らかなように、ダンテはギリシア、ローマの古典作家たちの文章を規範としたが、他方では同時代の新しい文学思潮にも敏感であった。当時は文章語としてラテン語がまだ圧倒的優位を占めていたが、1200年代後半に入ってようやくイタリア半島各地に勃興(ぼっこう)しつつあった俗語文学の詩法に、ダンテは着目した。イタリア語地域でもっとも早く俗語文学を開花させたのは、シチリア島におけるフェデリーコ2世の宮廷であった。ラテン文化の中心地であるローマの教皇庁と政治的に対立していたホーエンシュタウフェン家の宮廷は、首都パレルモに多数の吟遊詩人たちを流入させ、フェデリーコ2世自身が流麗なプロバンス恋愛詩の実作者であった。一般に「シチリア派」とよばれる詩人たちの「愛」をめぐって書かれた詩は、この派の一人ジャコモ・ダ・レンティーニが考案したといわれるソネット(十四行詩型)によって、いっそう一般化し、ホーエンシュタウフェン家の没落後、俗語詩の中心は北イタリアに移った。なかでもボローニャはヨーロッパ最古の大学を擁し、ここにおいて宮廷恋愛詩は「愛」をめぐり哲学的相貌(そうぼう)を帯びるに至った。
1287年に、ダンテはこの大学都市で数か月を過ごし、前述のブルネット・ラティーニに師事したり、「愛」を主題とする新しい詩法に接したりした。この種の「愛」をめぐる詩をつくった者たちを概括して「清新体派」とよぶが、ダンテはその第一人者になったことを自認して、『神曲』のなかで次のように歌っている。「チマブーエは画壇の王座にある/と思っていたのが、名声はジョットにあり、/いまや彼の栄誉はかげってしまった。/同じようにグィードが別のグィードから/言語の栄光を奪ったが、たぶんそのいずれをも/巣から追い出す者はもう生まれている。」(「煉獄編」第11曲、94~99行)
[河島英昭]
グィード・グイニツェッリ、グィード・カバルカンティ、ラーポ・ジャンニ、またのちにはチーノ・ダ・ピストイアなど「清新体派」の詩人たちと親交を結びながら、ダンテが哲学的な「愛」の詩を寓意(ぐうい)にまで高めたのは、ベアトリーチェ(愛を与える者)という女性像を詩法のうちに定着させたときからである。昨今の研究によってダンテの初期の詩作品に『フィオーレ』や『愛のことば』などが想定されるようになったが、いまのところ確実に最初の作品と断定できるのは『新生』(1292~93もしくは94)である。一種の詩文混交体で書かれたこの作品のなかで、ダンテは9歳の終わりごろ(すなわち1274)ベアトリーチェに初めて会い、そのとき彼女のほうは9歳の初めであったが、それから9年を経て18歳のときにフィレンツェの路上でたまたま再会し、彼女が会釈をしたという。が、さしたる交渉もないまま、1290年にベアトリーチェは亡くなってしまう。彼女を実在の人物とするか、あるいは『神曲』「天国編」のなかで詩人を導く久遠の女性の象徴とするか、この点をめぐってさまざまな解釈がなされてきたが、実在説のモデルとしては、詩人と同じころフィレンツェに住み、銀行家シモーネ・デ・バルディに嫁したフォルコ・ポルティナーリの娘ビーチェであったという。他方、ダンテは1277年(すなわち12歳のとき)から父親の意志によって婚約者と定められていたマネット・ドナーティの娘ジェンマと95年に結婚し、ヤーコポ、ピエートロ、アントーニア、そしてもう1人はたぶんジョバンニという名の、少なくとも4人の子供たちが生まれた。
[河島英昭]
ダンテ文学への接近の方法は二つに大別できるであろう。第一は、「愛」をめぐる関心から読み進む道であり、詩人は『新生』や『神曲』のなかで、ベアトリーチェを結局、三位(さんみ)一体説への導き手に仕立てている。先に触れたところでも、詩人がベアトリーチェに初めて会ったときや再会したときに、しきりに「9」という数字を用いるのは、その具体的な表れの一つである。周知のように、『神曲』は「地獄」「煉獄」「天国」の3編からなり、漏斗(ろうと)状に地底へ落ち込む「地獄」が9の円周から、地上楽園へ登り詰めていく「煉獄」の山が3種の愛の層から、またプトレマイオスの天動説に基づく「天国」が10天の輪から、それぞれ構成されていたり、『神曲』100歌が3行一連のテルツァ・リーマterza rimaの形式で整然と書き抜かれ、「地獄」「煉獄」「天国」の3編がそれぞれ33歌からなっていたりすることなどは、いずれも1、3、9、10(1+3の二乗)、100(10の二乗)といった数値に根拠を置いている。そして読者は、これらの数の文(あや)にとらえられながら、詩編を読み進むうちに魂の浄化を遂げていくことになる。
[河島英昭]
ダンテ文学への接近の第二は、1300年前後のイタリアの混乱した政治的状況の認識とそのなかで詩人が苦しみながら生きざるをえなかった困難への共感とから読み進む道である。第一の読み方が「愛」を通して宗教(キリスト教)へ向かうとすれば、第二のそれは、いつの時代にあっても読者を軋轢(あつれき)の渦へ巻き込む政治へ向かう読み方であり、後者の場合にあって鍵(かぎ)となるのは「正義」である。たとえば、「煉獄編」第10歌93行において、いにしえの皇帝トラヤヌスが戦場へ向かわんとしているのを、すでに馬上にあった皇帝の片足にすがって貧しい女が公正な裁きを願い出て彼を引き留める。その嘆願を聞き入れたときの皇帝のことば「正義が欲して憐憫(れんびん)が引き留める」という1行は、『神曲』100歌を貫く正義感の端的な表れであるといっていい。
青年詩人ダンテがフィレンツェ共和国の市政に関与していったころ、北イタリアの各自治都市はローマ教皇庁と神聖ローマ皇帝の両勢力のはざまにあって、グェルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)に分かれ、相克を繰り返していた。ダンテ個人の経歴で史実に照らして明らかなものとしては、1289年に教皇派のフィレンツェが皇帝派のアレッツォと決戦を交えたとき、騎兵隊の一員としてカンパルディーノの戦闘に参加した。やがて詩人はフィレンツェの市政に深くかかわっていくことになる。
1295年の11月に、貴族出身のダンテは政治活動を行う必要上、「医薬業種組合」に加入し、ポーポロ選出の委員に加わり、12月にはサービsavi(元老)の1人となり、翌96年にはシニョリーアsignoria(政府)直属の百人委員会の1人に選ばれた。そのころ、フィレンツェ市の行政は、教皇派のなかでも、共和国の自立政策を掲げる白(はく)党と、商業上の利益から教皇に強く結び付く黒(こく)党とに分裂し、これがさらに市の名門チェルキ家とドナーティ家の確執と絡み合い、複雑な争いを繰り返していた。ダンテは1300年に、教皇派の同盟のため使者としてサン・ジミニャーノに赴き、その年の夏にはプリオーレpriore(統領)になった。しかし黒白両党の争いが激化して、教皇ボニファティウス8世が調停使節を派遣し、フィレンツェの内政に干渉しようとしたため、政権を握っていた白党はこれを阻む目的で01年10月、ダンテを含む3人を使者としてローマへ送った。だが、その間に教皇の使節バロアはフィレンツェに入り、政変が起こって黒党の天下となったため、02年1月、ダンテは故国に帰れないままに公金横領の罪に問われ、市国外追放と罰金刑を宣告され、さらに3月には罰金を支払いに出頭しなかった理由で永久追放の宣告を受け、捕らえられれば火刑に処せられることが決まった。
[河島英昭]
以来、ダンテは二度と故国に戻ることなく、北イタリアの都市から都市へ流浪を続けるが、初めのうちは他の白党の同志たちと謀って、フィレンツェ復帰を画策したがいずれも失敗に終わり、最後には一人一党を宣言した(「天国編」第17歌)。しかしながら、この苦難に満ちた他郷での生活のうちに、詩人として『神曲』3編を書き続けるかたわら、より強固な意志を保ちながら、1304年から07年ごろまでに、哲学的論文『饗宴(きょうえん)』(未完)やラテン語による詩論『俗語論』(未完)も執筆した。そして10年には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに攻め下ってきたのを機に、政情の変革を期待して『帝政論』をラテン語で書いたが、13年に皇帝が急死し、これによって故国フィレンツェに帰る望みはいっさい絶たれた。そしてベローナのスカーラ家やラベンナのポレンタ家の宮廷に賓客として迎えられ、20年にはベローナで行った講演をもとに『水陸論』が書かれた。21年9月、ラベンナのグィード・ノベッロ・ダ・ポレンタの使節としてベネチア共和国へ赴いた帰途、急の病(マラリアと推測されている)を得て、同月13日から14日にかけてラベンナで没した。遺骸(いがい)は同市聖フランチェスコ教会堂の一角に埋葬されている。
[河島英昭]
ダンテの文学が後世へ与えた影響は絶大なものがあり、イタリア国内はもちろんであるが、たとえばブレイク、ロングフェロー、ジョイス、T・S・エリオット、パウンドなど、英語圏の詩人や作家たちの名前を思い起こすだけでも、その一端がうかがえるであろう。日本でも明治以来、上田敏(びん)、森鴎外(おうがい)をはじめ、多くの文学者たちがダンテの文学に注目し、かなりの数の翻訳と紹介が行われてきた。その傾向を大別すれば、第一は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの、第二は内村鑑三、正宗白鳥(まさむねはくちょう)らによる宗教的関心に基づくもの、第三は阿部次郎をはじめとする哲学的・倫理的傾向のもの、第四は政治と文学との緊迫した関係から、とりわけ第二次世界大戦下の状況のなかで矢内原忠雄(やないはらただお)、花田清輝(きよてる)、杉浦明平(みんぺい)らが寄せた関心など、になるであろう。なお翻訳には、たとえば『ダンテ全集』を刊行した宗教家中山昌樹(まさき)(1886―1944)など、熱烈なキリスト者(もしくは宗教者)の手によるものが多いが、代表作『神曲』の翻訳に関しては、原文に忠実で正確なものとして山川丙三郎(へいざぶろう)の訳業をあげねばならない。ほかに竹友藻風(たけともそうふう)、生田長江(いくたちょうこう)、野上素一(そいち)(1910―2001)、平川祐弘(すけひろ)(1931― )、寿岳文章(じゅがくぶんしょう)などの労作がある。
[河島英昭]
『上田敏著『詩聖ダンテ』(1901・金港堂)』▽『上田敏著『みをつくし』(1901・文友館)』▽『中山昌樹訳『ダンテ全集』全10巻(1925・新生堂)』▽『阿部次郎著『地獄の征服』(1933・岩波書店)』▽『黒田正利著『ダンテ 神曲』(1935・岩波書店)』▽『竹友藻風訳『神曲』(1952・河出書房)』▽『野上素一訳『神曲』(『世界文学大系6 ダンテ』所収・1962・筑摩書房)』▽『花田清輝著『地獄の周辺』(『花田清輝著作集Ⅱ』所収・1963・未来社)』▽『正宗白鳥著『ダンテについて』(『現代日本文学全集14 正宗白鳥集』所収・1965・筑摩書房)』▽『平川祐弘訳『世界文学全集 第三集3 神曲』(1966・河出書房新社)』▽『杉浦明平著『増補ルネッサンス文学の研究』(1966・未来社)』▽『矢内原忠雄著『土曜学校講義 ダンテ「神曲」』全3巻(1969・みすず書房)』▽『デ・サンクティス著、池田廉他訳『イタリア文学史(中世)』(1970・現代思潮社)』▽『クルツィウス著、南大路振一他訳『ヨーロッパ文学とラテン中世』(1971・みすず書房)』▽『寿岳文章訳『世界文学全集2 神曲』(1976・集英社)』▽『岩倉具忠訳『ダンテ俗語詩論』(1984・東海大学出版会)』▽『河島英昭著『叙事詩の精神』(1990・岩波書店)』▽『アウエルバッハ著、小竹澄栄訳『世俗詩人ダンテ』(1993・みすず書房)』▽『ボルヒャルト著、小竹澄栄訳『ダンテと中世ヨーロッパ』(1995・みすず書房)』▽『山川丙三郎訳『神曲』全3巻(岩波文庫)』▽『ブルクハルト著、柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)』
イタリア最大の詩人。長編叙事詩《神曲》を著して,ヨーロッパ・ラテン中世の文学,哲学,神学,修辞学などの伝統を総括し,同時に踵(きびす)を接して現れたペトラルカ,ボッカッチョと並んで,ルネサンス文学の地平をきりひらいた。
フィレンツェの小貴族の家柄に生まれ,父はアリギエーロ・ディ・ベリンチョーネ,母はベッラ,祖父の祖父カッチャグイーダは第2回十字軍に加わって戦死している。祖父ベリンチョーネと父アリギエーロはフィレンツェとプラトで金融業を営んでいた。ダンテは幼少から古典文法と修辞学を修め,長じてブルネット・ラティーニに師事した。《神曲》のなかでダンテの導き手となったウェルギリウスに代表されるように,ラテン諸作家を規範としただけでなく,古代ギリシアの文学的伝統やアラブ世界の思想も取り入れ,他方ではシチリア派やトスカナ派の詩人たちと実作上の詩法を競い,G.カバルカンティとグイニッツェリGuido Guinizzelliの影響を受けて,〈愛〉の詩的概念を転換させ,《新生》を著して清新体派の雄となった。その詩的契機が,1274年のベアトリーチェとの出会いである。
青年時代のダンテはフィレンツェの市政に積極的に従事するとともに,政争の渦中に巻きこまれてゆく。当時の北イタリアはローマの教皇庁と神聖ローマ皇帝とのはざまにあって,自治都市はゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)とに分かれ,相克を繰り返していた。フィレンツェではゲルフが政権を掌握していたが,さらにこれが自立政策をかかげるビアンキ(白党)と商業上の利益から教皇と強く結びつくネーリ(黒党)とに分裂し,市の名門チェッキ家(白党)とドナーティ家(黒党)との争いも加わって,熾烈(しれつ)な政争の場となっていた。ダンテは,いわゆる正義の法令(1293)により,貴族が公職につくことを制限されていたのが緩和されると,名目上は医薬業組合に加入し,1295年から市行政の公務につき,96年から97年にかけてシニョリーア直属の百人委員会の一員となり,1300年にはプリオーレにまで指名された(シニョリーア制)。ダンテは黒白両党の争いから身を放そうとつとめたものの,たちまちに渦中に巻きこまれて,白党に属していたダンテがローマ教皇庁へ使者として赴いている間に,フィレンツェでは黒党が優勢となり,白党を追い出して,02年1月,欠席裁判のまま,ダンテ自身も市外追放と罰金刑に処せられた。また同年3月,罰金を払いに出頭しなかったとの理由で,死刑を宣告された。以来,ダンテは二度と故国フィレンツェの土を踏むことがなく,流浪の半生を送り,その亡命生活のなかで《神曲》をはじめとする作品を書きついだ。
ところで,ベアトリーチェのモデルとされるフォルコ・ポルティナーリの娘ビーチェは,銀行家シモーネ・デ・バルディに嫁し,1290年に他界した。またダンテのほうは,1277年から父の意志によって婚約者と定められていたマネット・ドナーティの娘ジェンマと,95年に結婚した。亡命生活の初期にあって,ダンテは他の追放された同志たちと謀って,フィレンツェ復帰を画策したが,いずれも失敗に終わり,最後にダンテは一人一党を宣言し,詩人として困難かつ強固な道を歩み出した。とりわけ,1310年にイタリアに攻め下った神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世が,13年に急死してからは,故国フィレンツェに帰る望みはいっさい絶たれた。そして北イタリアの宮廷のどこかに自分と家族との安住の地を求めつつ,苦難の生活のなかでの激しい怨念と,見神の体験に基づく魂の救済とを,地獄・煉獄・天国の三界の遍歴のうちに描き出した。未完の《饗宴》,ラテン語による詩論の《俗語論》,3巻本の《帝政論》その他,いずれも亡命生活のなかで書かれ,21年にラベンナで客死した。
ダンテの作品は,約言すれば,政治と文学との激しい葛藤のなかで生み出された。日本においては,明治時代から《新生》と《神曲》を中心に,かなりの翻訳と紹介が行われてきたが,その傾向を大別すると,第1は上田敏を頂点とする純文学的動機によるもの,第2は内村鑑三,正宗白鳥ら宗教的関心に基づくもの,第3は阿部次郎が築こうとした哲学的・倫理的傾向のもの,そして第4にダンテの文学を政治と文学の葛藤の角度から(とくに第2次世界大戦下の日本の状況と照らし合わせて)とらえようとしたもの(矢内原忠雄,花田清輝,杉浦明平ら)となる。《神曲》の翻訳としては,文章表現と文体に問題は残るが,最も原文に忠実で正確なものとして,山川丙三郎訳を挙げねばならない(1984年現在)。また,みずからキリスト者として翻訳にたずさわったもの(山川丙三郎,中山昌樹ら)が多いなかにあって,寿岳文章訳は仏教者の心構えからダンテの詩的世界を日本の読者に知らしめようとしている。なお,一般の読者に最も接近しやすい版には平川祐弘訳がある。
執筆者:河島 英昭
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1265~1321
イタリアの詩人。もとの名はドゥランテ(Durante)。フィレンツェ小貴族の出。ボローニャ大学で修辞学を学び,ラテン文学や哲学の教養を積んだ。少年時代に出会った美少女ベアトリーチェへの清純な思慕を霊感として『新生』などを詩作。1295年以来政治活動に入り,ビアンキ党(=白党,大銀行家貴族チェルキ家を頭目とし政権を握っていた)に属し,1300年には政務長官の一人に選ばれた。02年ネリ党(=黒党,武家貴族ドナーティを頭目とする野党派,のち教皇の後援を得て政権をとる)により追放され,ヴェローナ,ボローニャ,ラヴェンナなど各地の小君主の保護を受けつつ『饗宴』『俗語論』『帝政論』『神曲』などを書いた。ラヴェンナの君主のためにヴェネツィアに使しての帰途病死。
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…しかし画家でもある彼の本領は,きわめて暗示的で追随を許さぬ特異な舞台装置に十全に発揮されるとの定評があり,諸外国でも展示された。死の収容所の悲惨を描く自作の戯曲《レプリカ》(抗議,複製の両義)(1971),《神曲》に基づく《ダンテ》(1974)はその代表作。【工藤 幸雄】。…
…(1)北部イタリア方言群 (a)ピエモンテ方言(b)ロンバルディア方言(c)リグリア方言(d)エミリア方言(e)ベネト方言(2)トスカナ方言群 (a)フィレンツェ方言(b)西部トスカナ方言(c)南部トスカナ方言(3)中・南部イタリア方言群 (中部)(a)マルケ方言(b)ウンブリア方言(c)北ラツィオ方言 (南部)(a)ナポリ方言タイプ(南ラツィオ,アブルッツィ,カンパニア,ルカーニア,北プーリア)(b)シチリア方言タイプ(サレント,カラブリア,シチリア)。 イタリアにおける方言の多様性についてはすでにダンテ(1265‐1321)がその《俗語論》のなかで筆を費やしているが,ではラテン語はなぜこのように地域ごとに分化し,その状態が現在にまで及んでいるのであろうか。ローマ人の征服以前に話されていた種々の先住民族の言語,例えばケルト語(北部),オスク・ウンブリア語(中・南部)などが,その土地にもたらされたラテン語におのおの異なる影響を与えた結果であるとする説(基層説)が出されているが,細部にわたる証明は難しい。…
…しかしながら13世紀後半,ホーエンシュタウフェン家の没落とともに,〈シチリア派〉の宮廷詩人たちも四散して,彼らの詩は北イタリアにひろまり,同じくプロバンスの詩を別個に継承しつつあったボローニャの詩人たちの詩法と影響しあって,トスカナ地方に〈清新体〉の詩を生みだした。 〈清新体〉派の代表的詩人はダンテ・アリギエーリであり,この新しい詩法は《新生》のなかに書きこまれている。すでに〈シチリア派〉はプロバンスの宮廷恋愛詩を取り入れ,〈愛〉についての論議を俗語詩のなかに繰り返した。…
…また〈武勲詩〉中の傑作である《ローランの歌》(11~12世紀初め)も十字軍の理想を掲げ,教会の宣伝である点において,すぐれて宗教的な作品といえよう。 これにつぐ時代はイタリアを中心とするダンテやペトラルカの活躍をみるが,その道程には,この清新の歌風をイタリアへもたらしたグイード・ダレッツォ,グイニツェリGuido Guinizelli(1230から40‐76)らがあった。グイードはソネット詩の作者で,中年に妻子を捨て修道会にはいった者,宗教的あるいは倫理的な主題を用い,グイニツェリも哲学詩,思想詩をよくして,ダンテの尊敬を得ている。…
…この思想は古代末期にいたってアウグスティヌスの《神の国》で神の浄福に輝く共同社会という形で,さらに,トマス・アクイナスの《君主統治について》の中では,数個の都市国家を包含する王国regnumを中世的帝国の合理的原則の体現とみなす考えとして示された。一方,中世末期イタリア諸都市の動乱に悩んだダンテは《帝政論》の中で世界帝国の理想をかかげ,全人類の手になる連邦国家の構想を述べた。近代にはいり,啓蒙主義の時期になると個人主義が確立する一方,理性はすべての人間に普遍的なものとされ,理性を通じての個々人の結合関係が世界市民主義にまで発展する。…
…中世末期からルネサンスにかけてのイタリアの大詩人ダンテの代表作。全1万4233行からなる叙事詩。…
…詩人ダンテの最初の重要な作品。詩と散文の混合形式で,1293年前後に執筆された。…
…アステカ人が罪人や戦争捕虜を犠牲として,生きたまま胸を開いて心臓をつかみ出し,太陽神にささげたのも心臓と魂のイメージの重複があるからである。文学上では,恋人ベアトリーチェに自分の心臓を食べられる幻影を見たことをつづったダンテのソネットがその典型といえようし,矢に射抜かれた心臓や燃える心臓が,キリスト教文化圏における愛の最もポピュラーなシンボルであることも同様の理由である。心(こころ)【池沢 康郎】。…
…トスカナはイタリア諸州の中でもルネサンス以来の伝統を誇る個性豊かな州として知られている。トスカナ方言(トスカナ語)はダンテ以来の文化的背景をもち,現在のイタリア語の基盤となった。トスカナ方言が北西部のカラーラ付近を除き,ほぼ州の範囲全体に普及していることは,トスカナの文化的統一性を物語っている。…
…ローマ教皇,神聖ローマ皇帝,ビザンティン皇帝が並び立つ中世にあっては,このような〈帝権の移行〉〈帝国の更新〉という観念に基づくキリスト教的古代との連続感,およびキリスト教的摂理史観が支配的であり,ローマ没落原因論が展開される余地はほとんどなかった。ダンテはギベリン(皇帝派)にくみする立場から,教会に西欧をゆだねて世俗的秩序と精神的秩序の均衡を破ったコンスタンティヌス1世の治政にローマ帝国衰退の始まりをみたが,彼もまたこのような中世的思想界の枠内にとどまっていた。ルネサンス期,現実の都市ローマの落(ちようらく)と遺跡が語る過去の栄光は,イタリア人文主義者の間に愛国的ローマ理念を芽生えさせ,同時に中世との訣別の自覚は彼らをして古代と中世の境界に目を向けさせた。…
※「ダンテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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