ドイツ映画(読み)ドイツえいが

改訂新版 世界大百科事典 「ドイツ映画」の意味・わかりやすい解説

ドイツ映画 (ドイツえいが)

第1次世界大戦後の〈表現主義映画〉,そこから出発して国際的な評価を得たエルンスト・ルビッチ,フリッツ・ラング,F.W.ムルナウ,G.W.パプストといった監督たち,レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画によって代表される1930年代のナチス宣伝映画,そして国際的なスターとして知られるウェルナー・クラウス,コンラートファイト,マルレーネ・ディートリヒ,アントン・ウォルブルック,クルト・ユルゲンス,ホルスト・ブーフホルツ,ヒルデガルド・クネフ(アメリカではヒルデガード・ネフ),ロミー・シュナイダー,マリア・シェル,マクシミリアン・シェル,ゲルト・フレーベ等々の名が,〈ドイツ映画〉のイメージを形成しているといえよう。以下,第2次大戦後,東西二つのドイツに分割されて政治的対立の下に映画活動も衰退せざるを得なくなるまでの動きを追ってみる。

フランスリュミエール兄弟がパリで〈シネマトグラフ〉を公開する2ヵ月近く前の1895年11月,ドイツのスクラダノフスキー兄弟Max Skladanowski,Emil S.が〈ビオスコープBioskop〉と呼ばれる〈動く絵〉をベルリンの〈ウィンターガルテン〉という寄席のプログラムのなかに組み入れて発表し,翌96年,〈ドイツ映画のリュミエール〉といわれるメスターOskar Messterが,フィルム映写機蓄音機を結びつけた〈ビオフォーンBiophon〉を〈ウンター・デン・リンデン〉で映写し,ドイツにおける映画製作が始まった。しかし,作品としては初期のドイツ映画には見るべきものがなく,アメリカ,フランス,イタリアから輸入された〈外国映画〉が主流であった。

 1908年,ベルリンにドイツ・ムトスコープ・ウント・ビオグラフDeutsche Mutoskop und Biographが,すこし遅れてドイツ・ビオスコープDeutsche Bioskopその他の製作会社が設立される。これらの会社はすべて,蓄音機のレコードと映写機のフィルムを等速回転の軸で連結した原始的で幼稚なものにすぎなかったものの,すでに〈ものいう映画sprechender Film〉をつくっていた。しかし,《ウィンザーの陽気な女房たち》《リゴレット》などのオペラを歌と音楽入りで舞台そのままに撮影しただけのもので,まもなく観客に見捨てられ,フランスから輸入された〈文芸映画〉(フィルム・ダール社製作のサラ・ベルナール主演作品など)に人気が集まり,これにならってシラー原作の《ドン・カルロス》(1910),シュニッツラー原作の《恋愛三昧》(1912)などの〈文芸映画Literarischer Film〉がつくられた。それを機に映画の社会的評価が高まり,作家や演劇人たちが協力しはじめ,ドイツ映画は〈キーントップKientopp(活動)〉から〈キノKino(映画)〉,さらに〈フィルムクンストFilmkunst(映画芸術)〉への第1歩を踏みだして,第1次大戦を迎えた。

外国映画の輸入がとだえて自給自足しなければならなかったドイツ映画は,他のヨーロッパ諸国とは反対に,戦争によってかえって活性化し盛んになった。戦争宣伝の目的のために軍部や軍需工業トラストの積極的な支援を受けて,1917年12月,当時の有力な製作会社を合併したウーファUFA(Universum-Film AG)が設立され,ドイツ映画を支配するとともに,その後のドイツ映画の方向を決定づけることになった。

 敗北に終わった第1次大戦後のドイツ映画の特色の一つは,演劇や美術における表現主義の影響で,その様式を借りたロベルト・ウィーネ監督《カリガリ博士》(1919),カール・ハインツ・マルティン監督《朝から夜中まで》(1920),パウル・レーニ監督《裏街の怪老窟》(1924)などがドイツ映画の国際的地位を確立したばかりでなく,これらの作品によって〈映画〉が初めて〈芸術〉になったとさえいわれた。〈表現主義映画〉は,ある意味では小市民的な芸術であったが,映画資本家に利用されなかった純粋な映画として,のちにフランスの〈純粋映画〉とかかわりをもつことになった〈絶対映画absoluter Film〉にもつながるものであり,ハンス・リヒターの《リズム21》(1921),スウェーデン出身のビキング・エッゲリングの《対角線交響曲》(1924),ワルター・ルットマンの《ベルリン--大都会交響楽》(1927)などを生んだ。

 ウーファは野心的な映画の製作をつづけ,《パッション》(1919)をはじめ王朝や貴族社会を背景にした歴史的題材のエロティシズムあふれるスペクタクル映画をつくったエルンスト・ルビッチハリウッドに招かれてドイツを去ったが,ゲルマンの中世伝説をとり上げたフリッツ・ラング監督《ニーベルンゲン》(1924)や,会話字幕をすべて排除して〈ウーファ式カメラ〉として知られる柔軟でダイナミックなカメラワークによるF.W.ムルナウ監督《最後の人》(1924)や,サーカスの世界の愛欲を大胆に描いたE.A.デュポン監督《ヴァリエテ》(1925)や,そしてまたムルナウ監督《ファウスト》(1926)などによって,ドイツ映画は黄金時代を迎えた。しかし,ルビッチの例がそのさきがけであったが,すぐれた脚本家,監督,カメラマン,俳優がアメリカの映画資本によってハリウッドに吸収され,さらにナチズムの台頭とともに有能な映画人が追放されて,黄金時代は短命に終わった。それでもドイツでは自由契約制度や貸しスタジオの設備が発達していて,良心的映画作家たちは独立プロダクションを設立し,大資本の制約をのがれて映画をつくる自由が残されていたため,G.W.パプストは,敗戦後のウィーンを描いた《喜びなき街》(1925)や,ルイズ・ブルックスを映画史に残るスターにした《パンドラの箱》(1928)および《淪落の女の日記》(1927)などをつくり,また,ゲアハルト・ランプレヒト監督《第五階級》(1925),ハウプトマンの劇によるフリードリヒ・ツェルニーク監督《織匠》(1927)など社会の冷酷な現実を描いた作品もつくられた。

トーキーは,アメリカより約3年遅れて出発したが,まもなくドイツ独自のトーキー・システム〈トビス・クラングフィルムTobis-Klangfilm式〉が完成され,1929年ころから本格的な製作が始まり,同時に高度なトラスト化が進んでウーファとトビスTobisの二大映画会社が市場を支配した。ワルター・ルットマン監督《世界のメロディ》(1929),ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督《嘆きの天使》(1930),ラング監督《M》(1931),エリック・シャレル監督《会議は踊る》(1931),レオンティーネ・ザガン監督《制服の処女》(1931),ウィリー・フォルスト監督《未完成交響楽》(1933),《たそがれの維納(ウイーン)》(1934)などがつくられ,また反ナチスの監督パプストは反戦映画《西部戦線一九一八年》(1930),資本主義社会の腐敗と偽善を痛烈に描いた《三文オペラ》(1931),労働者の国際的連帯を描いた《炭坑》(1931)などの問題作をつくり,ドイツの〈トーキー芸術〉確立に寄与した。

1933年に政権を握ったヒトラーは,宣伝相ゲッベルスを通じてドイツ映画のナチス化をはかり,ウーファをナチス支配下の独占的な国策映画会社とし,さらにユダヤ人や自由主義的な映画人を追放して,ドイツ映画をヒトラーの宣伝機関化した(1933年渡米したラングなど,多くの映画作家がこの時期にドイツを離れている)。ヒトラーを賛美する女優であり監督であるレニ・リーフェンシュタールの党大会記録映画《意志の勝利》(1935),国策的オリンピック記録映画の二部作《オリンピア》(1938),カール・リッター監督の戦争映画《最後の一兵まで》(1937)などがつくられ,《ポーランド進撃》(1940)とか《勝利の歴史》(1941)とかいった侵略戦争の記録映画と反英宣伝を意図した《世界に告ぐ》(1941)といった政治的な戦争映画がすべてであった。

ナチスの敗北は,国策映画会社ウーファの解体に伴うドイツ映画の解放でもあった。しかし,ドイツそのものが東西に分割されて民族としての統一を失い,映画界も二分され,〈東ドイツ映画〉と〈西ドイツ映画〉はあるが〈ドイツ映画〉はないといわれる事態を招くに至った。敗戦直後に廃墟のなかでつくられた映画は〈瓦礫映画〉などとも呼ばれた。東ドイツ映画の再建にはソビエトの映画人が協力し,西ドイツ映画の復興にはプロデューサーのエーリッヒ・ポマーがハリウッドから復帰して力を尽し,1946年,東ドイツでは製作配給会社デーファDEFA(Deutsche Film AG)が,西ドイツでは新ドイツ映画社NDF(Neue Deutsche Filmgesellschaft)が設立された。戦後のドイツ映画の第1作は,新人ウォルフガング・シュタウテ監督の東ドイツ映画《殺人者はわれわれの中にいる》(1946)で,つづいてランプレヒト監督《ベルリンのどこかで》(1947),ユダヤ人迫害をテーマにしたクルト・メーツィヒ監督《日かげの結婚》(1947),シュラタン・ドゥドゥ監督《日々のパン》(1949)などがつくられ,とくに戦争挑発者を批判したメーツィヒ監督《神々の会議》(1950)が傑作として知られた。西ドイツではロベルト・A.シュテムレ監督《ベルリン物語》(1949),ウォルフガング・リーベンアイナー監督《1947年の恋》(1949),ウィリー・フォルスト監督《罪ある女》(1951)などの秀作が発表されたあと《最後の橋》(1954)のヘルムート・コイトナーと《橋》(1959)のベルンハルト・ビッキが次代を担うホープとして期待されたが,ともにハリウッドに吸収され(そしてともに成功できなかった),以後,60年代末から70年代にかけての〈ニュー・ジャーマン・シネマ〉の胎動まで,まったく見るべきものがない時代がつづくことになる。
ニュー・ジャーマン・シネマ
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のドイツ映画の言及

【ニュー・ジャーマン・シネマ】より

…第2次世界大戦直後のイタリアの〈ネオレアリズモ〉,1950年代末のフランスの〈ヌーベル・バーグ〉などに次いで,ようやく60年代末から70年代にかけて西ドイツで起こった新しい映画の動きがこの名で呼ばれる。戦後のドイツ映画は,25年の歴史をもつウーファ社の解体に象徴されるように衰退と消滅の一途をたどり,東西ドイツに分割されて力を失い,西ドイツでは,それでも,ナチスの犯罪を告発し,荒廃と飢餓の現状を訴える〈瓦礫(がれき)映画Trümmerfilme〉のなかからヘルムート・コイトナー(《最後の橋》1954),次いでベルンハルト・ビッキ(《橋》1959)というすぐれた才能が輩出するが,ともにハリウッドに吸収され,そのあとに残されたものは,ベルリンでつくられていた〈労働者映画Arbeiterfilme〉とミュンヘンでつくられていた〈郷土映画Heimatfilme〉という母もの映画やメロドラマだけというありさまであった。1962年のオーバーハウゼンOberhausen短編映画祭に集まった〈ミュンヘン・グループ〉(のちに〈オーバーハウゼン・グループ〉)と呼ばれる若い映画作家たち(それまでドキュメンタリーや短編しか撮っていなかった)が,〈パパの映画は死んだ〉という標語を掲げ,〈新しいドイツ映画Junger Deutscher Film〉の創造を宣言。…

※「ドイツ映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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