ナポレオン1世(読み)ナポレオンいっせい(英語表記)Napoléon I; Napoléon Bonaparte

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナポレオン1世」の意味・わかりやすい解説

ナポレオン1世
ナポレオンいっせい
Napoléon I; Napoléon Bonaparte

[生]1769.8.15. コルシカ島アジャクシオ
[没]1821.5.5. セントヘレナ島
フランス第一帝政皇帝在位 1804~14,1815)。生粋のコルシカ人貴族の子。フランスで教育を受け,1785年パリ士官学校を卒業。フランス革命初期にはジャコバン・クラブ(→ジャコバン派)に入会。コルシカ独立運動に参加したが指導者パオリと衝突し,1793年一家をあげてフランスに亡命,同 1793年ニースの連隊に復帰した。この頃からナポレオン・ボナパルトと呼ばれるようになった。同 1793年8月国民公会軍の砲兵隊の指揮官に任命され,12月反革命派の手中にあったツーロン港の砲撃を指揮して奪回に成功し,准将昇進。1796年3月イタリア遠征軍司令官となる。同 1796年3月9日ジョゼフィーヌと結婚。カンポフォルミオ条約によってイタリアで 5年間続いた戦争は収拾され,ナポレオンの人気は頂点に達した。1798年7月エジプトに遠征,1799年11月エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと結んでブリュメール十八日クーデターを断行し執政政府樹立,軍事独裁を始めた。1804年5月に帝国成立が宣言されると皇帝に即位。以後産業振興,学制改革,行政司法の再編成などを行なった。1807~10年頃相次ぐ対外戦争の勝利によってその威信権力は頂点に達したが,1812年のロシア遠征の失敗によって諸国民戦争が勃発。1813年ライプチヒの戦い敗北没落は決定的となり,1814年5月エルバ島に流された。島を脱出し 1815年3月上陸,再びヨーロッパ連合軍と対抗ベルギーに進撃し,6月リニーでプロシア軍を撃破したが,ワーテルローでイギリス軍と戦って敗れ(→ワーテルローの会戦百日天下),セントヘレナ島に流されて同地で没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナポレオン1世」の解説

ナポレオン1世(ナポレオンいっせい)
Napoléon Ⅰ (Napoléon Bonaparte)

1769~1821(在位1804~14,15)

フランスの皇帝。コルシカのボナパルト家出身。フランスで軍事教育を受けて砲兵将校となり,1793年にはトゥーロン攻囲戦に戦功をあげた。総裁政府下に,95年,パリ王党派の反乱を鎮定し,96年イタリア軍司令官となって軍事的天才を発揮し,立身の端をつかんだ。98~99年,エジプトに遠征したが,対仏大同盟が結成され,総裁政府の動揺を知って帰国し,99年11月,ブリュメール18日のクーデタをもって統領政府を樹立,みずから第一統領(在任1799~1804)となった。アミアンの和約締結,ナポレオン法典編纂,教育制度設立,コンコルダート締結,産業育成などの事業を行い,1804年には皇帝となり,第一帝政を開いた。それ以後戦争を続けて軍事組織の基礎を固め,ヨーロッパを征服し,06年には対イギリス作戦の一環としてベルリン勅令によって大陸封鎖を命令した。08年にはスペインの離反にあい,翌年にはジョゼフィーヌと離婚し,10年にマリ・ルイーズと結婚した。ここに全盛期を迎えたが,12年ロシア遠征に失敗し,ドイツ解放戦争にあい,14年退位しエルバ島に流された。15年3月帰国し百日天下を実現したが,ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流され,21年そこで死んだ。

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367日誕生日大事典 「ナポレオン1世」の解説

ナポレオン1世

生年月日:1769年8月13日
フランス第一帝政の皇帝(在位1804〜14)
1821年没

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