イベリア半島北部,ピレネー山脈西端に位置し,ビスケー湾岸からカンタブリア山脈までフランスとスペイン両国にまたがる7地方からなる地域。スペイン語ではバスコンガダスVascongadasともいう。
バスク地方には,スペイン側に約265万人,フランス側に約35万人が住んでいるが,今日では,このうちスペイン側の約60万人,フランス側の約4万人がバスク語を話せるにすぎない。このほか,南北のアメリカ大陸(アルゼンチン,ウルグアイ,チリ,ベネズエラ,メキシコ,カリフォルニア州,カナダ)には,移住したバスク人の子孫約10万人が暮らしている。バスク人の起源については,イベリア系,カフカス系,ベルベル系など諸説があり,定説はないが,体型(前後に長い長頭),古語などからみて,バスク人の一部は,クロマニョン人の末裔であるとの説が提唱されている。血液型では,アジア人に多いB型が僅少(AB型を含めて2%),北欧人に多いA型もかなり少なく(34~41%),純粋型を示すO型が圧倒的に多い(57~64%)ので,最もヨーロッパ的であるといわれる。また,身体的にも特徴があり,平均身長は160~170cm,顔は三角ばっており,肩幅は広く,腰部は狭い。牛や羊の飼養(羊の移牧はかなり減少),トウモロコシの栽培(孤立した住居の周囲で行われる伝統的家族経営),漁業(クジラ,イワシ)などに従事している人々も少なくないが,今日では,観光(バイヨンヌなど)や鉱工業(ビルバオなど)に従事している都市住民が圧倒的に多くなっている。16世紀以降に創作された伝承文学,中世の神秘を想起させる田園詩,滑歩(パ・グリセ),デカジェ,ロン・ド・ジャンブなどの組合せで,大地や宇宙との接触をリズム感で表現した民族舞踊,中世のポーム球戯から生まれた,テニスのように壁に向かって敵味方が打ち合うペロタ球戯(ハイアライ)など,文化面でも豊かであり,ベレー帽はバスク固有の風俗としてあまりにも有名である。
執筆者:石原 照敏
スペイン側のバスク地方はギプスコアGuipúzcoa,ビスカヤVizcaya,アラバAlava,ナバラNavarraの4県からなる。面積1万7675km2,人口264万(2001)。バスク語を日常語とする人々の割合は1986年にギプスコアで43.8%,ビスカヤで17.5%,アラバで6.7%,ナバラで10.1%である。カスティリャとは対照的な風土で,雨が多く,なだらかな丘の間をぬって澄んだ小川が流れ,緑の牧草地がひろがっている。しかし,同時にここはカタルニャと並ぶスペイン有数の工業地帯で金融業,商業も栄え,全国の国民所得でも上位を占めている。その中でナバラ県は旧ナバラ王国の領域と合致し,他の3県とは地方自治(1979年10月承認)において同一歩調をとっていない(ナバラ)。バスクという統一的な呼称はローマ人による前1世紀のウァスコニアVasconia(ラテン語)に始まり,バスク人自らはエウスカルドゥナクEuskaldunak(エウスカラEuskara(〈バスク語〉の意)を話す人々)と呼んでいた。現在の同地方を総称する形であるエウスカディEuzkadi(Euskadi)は19世紀後半からの民族運動の開始とともに登場した新造語である。それ以前では16世紀ころからウァスコニアにあたるエウスカレリEuskal Herriが使用され,現在にいたっている。País Vascoもフランス語Pays Basqueのスペイン語訳で,近代国民国家の命名法に基づく。現在のスペイン側の地方自治制のもとで統一的行政体になる以前には,バスク地方の総称の変遷に見られるように,同地方独自の統一はなかった。それゆえにバスク地方とは広義には〈バスク語が話される地方〉を指し,言語の占める比重が大きい社会であった。
伝説上はノアの箱舟の一団で当地に漂着したアイトールAitorをバスク人の先祖とし,その7人の息子の名が7地方名である。歴史的にはインド・ヨーロッパ語系諸族の侵入以前からピレネー山麓に定住した民族が起源で,旧石器時代後期の遺跡が現存する。史上初めてバスク人が記録されたのは,ローマ人がイベリア半島に侵入し,カンタブリア人を攻撃した際にバスク人が協力したときである(前1世紀)。ローマ支配はナバラ,アラバ両地方の南部までで,海岸部であるカンタブリア地方へはローマ化が及ばなかった。5世紀にはバスク人はゲルマン人がピレネーを通過するのに抵抗したが,ついにその一派西ゴートに服属した(7世紀)。8世紀初め,南からのアラブの侵入はアラバまで及び,これに対抗してピレネー北側のフランクがイベリア半島に侵攻した。フランクは7世紀初めからピレネー北側を中心にアキテーヌ公領,さらに南側にはナバラ辺境領を設置していた。778年カール大帝軍はアンダルス遠征の帰途,ロンセスバリェスでバスク人に襲撃され敗走した。フランクとアラブ双方に対する戦闘の中でバスク人の統一意識が高揚し,ナバラ辺境領を基盤にバスコニア公領が成立し,その支配はアキテーヌまで及んだ(9~11世紀)。その中から905年サンチョ・ガルセスがナバラ王国を創設した。この王国はパンプロナを中心にバスク地方の中核となり,11世紀初めサンチョ3世(大王)の時代にその基盤が強固となった。周辺地域にもナバラは影響力を及ぼし,アラバを支配下に置き,これを先導役にギプスコア支配をカスティリャ伯国と争った。1016年ナバラはカスティリャとの境界の画定によってバスク地方すべてを領有した。その中でもアラブ支配の外にあったビスカヤは領主イニゴ・ロペスの下に自立し(1033),その後ギプスコアもカスティリャ側につき,1200年これに服属して自治権を保持した。
1134年,一時弱体化しアラゴン王の統治下に入っていたナバラ王国が復興し,レコンキスタ(国土回復戦争)推進に重要な役割を担ったが,サンチョ7世の死後,後継者がなく,フランスの三つの伯家が統治した。1512年カトリック王フェルナンド2世がナバラ王国を征服,併合し,ナバラ王国は立法,行政,司法の各機構を残す副王制下に置かれた。ビスカヤ領主国もすでに1379年にカスティリャに併合され,カスティリャの王がビスカヤ領主を兼任するようになっていた。しかし,バスクの各地方はカスティリャ支配下で地方特権を保持し続けた。
ビスカヤとギプスコアには,ラテン語,バスク語で金属類に関する単語が多く見られる。古代から貴金属類の産出がみられ,12~15世紀には製鉄が行われていたことが特許状の存在からも明らかとなっている。また9世紀ノルマン人がビスケー湾岸へ到達し,バスク人は彼らから航海術を習得した。伝統的な農牧業,漁業に加え,中世には鉱業,木材の運搬に伴う海運業が栄えた。さらにビルバオを中心にカスティリャの羊毛やブドウ酒がネーデルラントをはじめヨーロッパへ積み出された。13世紀終りにビルバオには羊毛取引の特権組合が設立され,また王立の造船所が建設された。航海術と海戦の知識に長じたバスク人は無敵艦隊に参加し,大航海時代に船員として活躍した。このような海外との交易・交流の素地はさらにアメリカ貿易と結びつくことで開花した。15世紀カスティリャ王の特権を盾にブルゴスがカンタブリア貿易の独占をもくろむと,ビルバオはこれと協定を結び競合することで勢力を伸張し,1511年にはコンスラード(海事領事所)の設立を認可された。セビリャの通商院を介してアメリカ貿易に参加したビルバオに加え,1529年カルロス1世によってカスティリャの貿易独占が一時解除されると,サン・セバスティアンやバイヨンヌなどのビスケー湾岸の諸都市もアメリカ貿易の認可を得た。
16世紀後半から17世紀にかけてスペインは全般的に衰退し,バスク地方でも農業は不振であった。しかし海岸部とくにビルバオは造船を中心に経済的活況が継続し,ビスカヤ,ギプスコアではヨーロッパ各国からの注文がある武器製造業が繁栄した。18世紀ブルボン朝時代になるとスペイン全体の経済も復興し,アメリカ貿易が特権会社の下で行われると,バスク地方の特権会社も活動を始めた。ギプスコアの〈カラカス会社〉〈フィリピン会社〉がそれであった。保護体制下での活動は資本蓄積に役立ち,これを基盤に1765年にはバスク経済の指導者の集りである〈国の友協会Real Sociedad de Amigos del País〉が設立された。この協会は文化活動を支援し,地方の独自性の見直し,地方意識の覚醒に貢献した。啓蒙主義の影響によるこの活動は全国にも及び,各地に同様の組織が設立された。
フランス革命,ナポレオン軍のスペイン侵攻は,自由主義思想の普及,さらに自由主義勢力の台頭による中央集権的統一国家観の導入に役立った。自由主義者と伝統主義者の対立は中央と地方の対立でもあり,1833年カルリスタ戦争の勃発は地方特権の擁護のための戦いとなった。バスク地方のカルリスタ(伝統主義者)は敗北し,41年,地方諸特権は廃止された。それ以後2度の蜂起も76年には鎮圧され,バスク地方はスペイン国家へ完全に統合された。ただし,ナバラは副王制下の形態を残す特権体制を維持し,その他3地方は経済特権を一部残した。この経済特権はビスカヤとギプスコアの自由主義ブルジョアの結合を進めた。一方で敗北したカルリスタ勢力はナバラを中心に内陸の農村部に退き,都市部の自由主義ブルジョアの躍進とは対照的であった。中央政府の保護政策の下で従来から蓄積された金融・商業資本は産業革命の波及とともに製鉄業に投下され,隣接するアストゥリアス地方やイギリスの石炭とバスクの鉄鉱石が結合し,バスク地方は全国で屈指の重工業地帯に脱皮していった。工業化とともに伝統的なバスク社会は変化し,工業労働者として旧カスティリャ,ガリシアなどの非バスク人が大量に移入してきた。バスクの習慣および社会破壊の危機感は反自由主義とカトリシズムに立脚した民族運動を引き起こした(1894)。その創始者S.アラナ・ゴイリは地方特権の回復,民族・言語の防衛を訴え,その後,地方自治運動へ転化した。その一方で工業労働者を中心に社会主義労働運動が展開され,これらはバスクの二大大衆運動として勢力が拮抗している。
今日の地方自治体制の前史は,1931年第二共和国成立から本格的に見られた。この時代に地方自治の要求は中心的政治課題となり,民族主義政党(バスク国民党。PNV)のみならず,社会労働党を中心に左翼勢力もこれに取り組んだ。36年7月,内戦が勃発すると,社会労働党とPNVの主力政治党派は共和国の防衛を支持し,10月バスク自治憲章が成立すると,バスク自治政府が樹立された。この時点でナバラとアラバの一部はフランコ陣営にあり,憲章第1条に明記されたバスク国はアラバ,ギプスコア,ビスカヤの3県であった。37年6月フランコ陣営がビルバオを陥落させると,バスク政府は亡命し,同月23日ビスカヤとギプスコアの地方特権は破棄され,フランコ側にあったナバラとアラバはそれを維持した。これ以後のフランコ時代において民族運動は弾圧され,バスク語の使用も禁止された。一方では基幹産業の復興は中央政府の資本の集中投下により達成され,旧来からの中心地域であったビスカヤとギプスコアに加えて,アラバでも重工業が発展した。穏健な地方自治要求をするPNVに対し,分派したETA(バスク祖国と自由。1959創設)は根強いバスク人の独立要求とフランコ体制への不満に支えられ,暴力革命によるスペインとフランスの両バスクの統一を目ざすゲリラ集団として活動し,テロ行為により社会不安を惹起した。75年フランコの死後,民主化の時代にバスク地方自治は承認(1979年10月)されたが,1973年石油危機以来の経済不況のもとでETAのテロ活動による社会不安は増大した。
フランコ後の民主化の時代においてもETAの戦術はエスカレートし,少数民族の抵抗というよりも犯罪者集団の扱いを受けるようになった。テロの範囲も全国に及び,それに対する抗議行動も全国に広がっている。1968年8月に最初の犠牲者が発生してから97年7月までにその数は815名となり,解決の糸口は見いだされていない。
執筆者:渡部 哲郎
フランス側のバスク地方は18世紀に,フランス語が話されていた西部ピレネー地方のうちのフランス側部分にあたり,ピク・ダニー山の西方に,アドゥール川流域にまで広がっている。面積約2300km2,人口約35万(1981)。南東部にスールSoule,中央部にバス・ナバールBasse-Navarre,北西部にラブールLabourdの旧3州がある。スール(主都はモーレオンMauléon)は13世紀までほぼ独立を維持していたが,1451年にフランス王領に併合された。バス・ナバールはピレネー山脈の南,現在のスペイン側にその中心があったナバール王国(ナバラ王国)の一部であったが,フランス王アンリ4世となったナバール王アンリ3世によって最終的に1589年フランスに併合された。ラブール(司教都市バイヨンヌとその周辺地帯および中世に特権を認められていた都市ウスタリッツからなる)は百年戦争が終わるまでギュイエンヌ(イギリス領)と連合していたが,1451年ボルドー政府に併合された。
山地は低く,丘陵状であり,小川の刻む複雑な地質構造(フリッシュという砂岩,片岩からなる砕屑地層)を示している。内陸部では,温暖・湿潤な気候のもとで,牧羊(移牧),酪農,多角耕作(穀物,トウモロコシ,リンゴ,ブドウ)などが行われており,緑の牧場が広がっている。小村や集村が生活の本拠であり,農家は勾配のゆるやかなローマ風の瓦屋根をもつ木骨白壁造で,一つのブロックの中に,住居,家畜小屋,納屋を収めている。バスク特有の家畜種として,生命力の強いバスク乳羊種(羊乳はロックフォール・チーズの製造に利用される)やバスク豚種(良質なハムがつくられる)などが知られている。工業はバイヨンヌに集中しているが,内陸部の町でも織物,履物(ズック靴,サンダル)などの製造が活況を呈している。海岸部では夏の観光(ビアリッツが代表的)と漁業が盛んである。
1960年代に入って,バスク自治権の要求や,地域の経済発展を強化するための,バイヨンヌを中心とするバスク県創設の運動などがとくに目だつようになった。
執筆者:石原 照敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
英語やフランス語ではバスクというが、バスク語ではエウスカディEuskadiという。フランスとスペイン両国にまたがるピレネー山脈西端麓(ろく)の地方名。フランスではペイ・バスクPays Basque(バスク地方の意)、スペインでも同様にパイス・バスコPaís Basco、またはバスコンガダスVascongadasともよばれる。フランス側はラブール、バス・ナバル、スールの旧3地方に相当するピレネーザトランティク県のバイヨンヌ郡とオロロン・サント・マリ郡西部を占め、バスク地方の人口は約22万(1990)。スペイン側はギプスコア、ビスカヤ、アラバ3県からなるバスク自治州(面積7261平方キロメートル、人口213万0783、1995)とナバラ自治州(面積1万0421平方キロメートル、人口53万6192、1995)の範囲にわたり、バスク語を話す人口はそれぞれの州人口の26%、12%を占める。
[田辺 裕・滝沢由美子]
フランス側はピレネー山脈北西麓の標高2000メートル以下の丘陵地帯を占め、気候は温暖湿潤で、ヒツジ、乳牛などの牧畜とトウモロコシ、ブドウなどの農業が行われる。海岸部では漁業と観光業が盛ん。工業は中心都市バイヨンヌに集中する。スペイン側は起伏に富むが、カンタブリカ山脈とピレネー山脈の間の陥没地であるため、ほとんど1500メートル以下である。フランス側同様、温和な西岸海洋性気候のため、牧羊や酪農、農業(トウモロコシ、ライムギ、ジャガイモ、野菜など)が盛ん。スペイン北部最大の都市ビルバオを中心とする工業地帯には人口が集中し、金属、機械、化学などの工業が立地する。この人口集中地域では非バスク人が増加しているが、過激派グループ「バスク祖国と自由」(ETA)がバスク人であることの条件に掲げているバスク語理解については、バスク自治州では79年に、ナバラ自治州では86年に、州の公用語としての地位を与えられ、バスク語教育が公教育に導入された。ただし、バスク語を日常言語とする両州の住民は約62万人でバスク地方住民の約23%にすぎない。また、フランス国内のバスク地方ではこのような法律はない(1995)。
[田辺 裕・滝沢由美子]
バスク人は特有の言語をもつだけでなく、民族的にも文化的にも独自のものを有し、伝統的に独立運動が盛んである。とくに1960年代には民族独立運動が急進し、1959年には、地方自治権拡大を要求するバスク民族主義党(PNV)に対し分派した過激派であるETAによるテロ活動が頻発した。79年のバスク、ナバラ両地方の自治権確立後もバスク・ナショナリズムは衰えていないが、バスク人口比率の低下もあり、86年11月のバスク地方立法議会選挙ではPNVが第一党の座から転落した。90年代に入り、ETAのテロ活動はふたたび激化したが、逆に国民の批判は高まっている。
[田辺 裕・滝沢由美子]
ローマはここに軍事的・商業的通路と行政中心地ポンペヨポリスPompeyópolis(現在のパンプロナ)をつくったが、先住のバスク人は自治を保持し、ローマ化の度合いは少なく、末期にその居住地は現在のフランス領に拡大した。5世紀に西ゴート人、8世紀にイスラム教徒の侵入を受けたが全面的には占領されず、後者に対抗して侵入したシャルルマーニュの一軍は『ロランの歌』にあるようにここで打ち破られた。8世紀にアストゥリアス王国に一部を支配されたが、11世紀にナバラ王国が全土を支配した。12世紀から一部がカスティーリャ王国の勢力下に入り、のち貴族の抗争が続いたが、この間フンタとよばれる自治機関が発展した。16世紀、カスティーリャ王国のナバラ王国併合によって前者の一部となったが、税制などの地域的特権(フエロス)は維持され、またフランス側地域は分離された。17世紀には農民解放が進み、西部では工業・港湾業が発展し、独自文化志向が強まったが、他方でフエロスはしだいに縮小された。19世紀初頭、フランス軍がこの地域から侵入したが、バスク人はこれに抵抗した。王位継承問題を契機とした19世紀の三次にわたるカルリスタ(カルロス派)戦争では、カトリック擁護やフエロス維持を掲げるカルロス派の拠点となったが、この戦争の敗北でフエロスは大幅に制限された。その後、1880年代からビスカヤを中心として鉄鉱石採掘、製鉄・鉄鋼・金属産業が急速に発展、北部はスペイン有数の工業地域となった。このころから自治の復活を掲げる地域主義、民族主義の動きが現われ始め、95年にはバスク民族主義党が創設された。1931年成立の第二共和政下で自治要求は一挙に高まり、36年にはこれを約した人民戦線派を支持、内戦開始後に自治権が付与されたが、ゲルニカ爆撃を伴った反乱派の攻撃で占領され、自治権を失った。内戦期や第二次世界大戦後も、バスクでの地下抵抗運動や亡命バスク政府による自治要求は収まらなかったが、フランコ政権が徹底弾圧で対処したので、これに対抗して59年には武力闘争とテロに訴えるETAが誕生した。フランコ死後の78年、憲法で民族自治が保障されたことにより、79年にバスク民族主義党主導の自治政府が復活、確立した。しかし、独立を求めるETAはテロ・誘拐活動をやめず、現在に至るまで多くの犠牲者が生まれている。
[深澤安博]
『渡部哲郎著『バスク もう一つのスペイン――過去・現在・未来』(1984・彩流社)』▽『J・アリエール著 萩尾生訳『バスク人』(白水社文庫クセジュ)』▽『田辺裕監修・訳『図説世界の地理10イベリア』(1997・朝倉書店)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…たとえば,ガスコン方言は,南仏オック語の中でも,きわめて特異で,スペイン北部の方言との類似を指摘されるが,その用いられる範囲は,ギュイエンヌ南部にも及んでいる。ガスコーニュの名称は,580年ころ,フランク王国の領域であったこの地域に,西ゴート王に追われピレネーを越えて移住してきたバスコン人Vascons(バスク人Basques)に由来する。この移住民が,その呼称にもかかわらず,実際にバスク人であったかについては異論もあるが,いずれにせよ,彼らはガロンヌ以南の地域に広く定住し,フランク王国の権威に抵抗し,その実質的な支配を許さなかった。…
…まず世界観については,キリスト教ヒューマニズムとソ連の影響下に浸透した共産主義との対立である。スペインの統一に関しては,画一的かつ中央集権的な統一か,それともカタルニャ地方やバスク地方などの各地方の多様性を生かした統一を達成するかの対立である。そして,これらの思潮が複雑にからみ合い,過度に高揚した結果,右派は宗教的・愛国的祈りに宿るべき,敵を許す戒めを忘れ去り,左派は精神的・国民的なるものへの道を閉ざしてしまった。…
※「バスク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加