コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

バチカン市国 バチカンしこくVatican City

翻訳|Vatican City

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

バチカン市国
バチカンしこく
Vatican City

正式名称 バチカン市国。イタリア語では Stato della Città del Vaticano。
面積 0.44km2
人口 約 800(2014推計。うち海外在住約 225人を含む約 450人が市民権を保有)。

ヨーロッパ南部,イタリアの首都ローマにあるローマ教皇領。世界最小の独立国。カトリックの大本山。テベレ川西岸に近く,サンピエトロ広場を除いて古い城壁に囲まれている。754年のピピンの寄進により教皇領が成立,中世には広大な領域となったが,教皇のバビロン捕囚(1309~77)の間に荒廃。教皇グレゴリウス11世のときバチカンに戻った。イタリア統一に際して,イタリア王国軍が,教皇の支配下にあったローマ市(1870)を軍事的に占領,首都としたため,ローマ教皇庁はイタリア政府と対立を続けていたが,1929年ラテラノ条約によって和解が成立し,バチカン市国が誕生した。ラテラノ条約はカステルガンドルフォにあるバチカン宮殿,ラテラノ大聖堂,サンタ・マリア・マジョーレ聖堂,サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂,いくつかの省など,イタリア国内に散在するバチカンの不動産に治外法権または公用徴収免除,免税の特権を与えている。市国は教皇を主権者とし,立法,司法,行政組織をもち,諸外国と外交関係がある。日本はバチカンと 1942年外交関係を樹立,今日では大使を交換している。貨幣,切手を発行し,29ヵ国語による放送を行ない,日刊紙『ロッセルバトレ・ロマノ』を発行している。また教皇の警護のため,スイス衛兵が 1506年からその任にあたっている。人口の大部分は教皇庁で働く聖職者で,庁内の職務を去ると元の国籍に戻る。市国内にはサン・ピエトロ大聖堂システィナ礼拝堂,博物館,図書館,庭園などがある。図書館,博物館は古文書,古美術の宝庫であり,建築物も含めて,ラファエロ・サンツィオ,ミケランジェロ,フラ・アンジェリコ,ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラバッジオルネサンス期の巨匠の優れた美術作品が多い。1984年市国全体が世界遺産の文化遺産に登録された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

バチカン市国

国土面積0・44平方キロメートルで、ローマ市内の一角にある。1929年にイタリアと結んだラテラノ条約で誕生。市国外にも直轄地を持つ。人口は約800人(2007年)で大半が聖職者か衛兵。元首ローマ・カトリック教会の最高指導者であるローマ法王。信者は世界中に約11億人いる。

(2010-01-30 朝日新聞 夕刊 2総合)

出典 朝日新聞掲載「キーワード」朝日新聞掲載「キーワード」について 情報

デジタル大辞泉の解説

バチカン‐しこく【バチカン市国】

バチカン」の正称。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

世界遺産情報の解説

バチカン市国

バチカン市国は、イタリアのローマ市の中に位置する国です。国際的な承認を受けている独立国家としては面積・人口ともに世界最小で、都市国家であるため首都はありません。ローマ教皇の居住地であり、教皇を元首としてローマ教皇庁が治めています。聖ペテロの墓の上に造られたカトリックの聖都で、住民のほとんどが聖職者。サンピエトロ大聖堂は8億人の信者がいるとも言われるカトリックの総本山であり、世界各国から巡礼者が訪れます。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

世界遺産詳解の解説

バチカンしこく【バチカン市国】

1984年に登録された世界遺産(文化遺産)で、イタリアのローマ、テヴェレ川の西にある世界最小の独立国で、全世界に10億人近い信者を持つカトリックの総本山。324年にローマ皇帝コンスタンティヌスが、殉教したイエス・キリストの第一の弟子聖ペテロの埋葬地に最初の聖堂を建設して以来、ここはローマ教皇が住む教皇庁となった。16~17世紀にミケランジェロなどの設計により再建されたサン・ピエトロ大聖堂、バチカン宮殿など、芸術性に優れた建造物や美術品を有する文化的価値が評価され、世界遺産に登録された。◇英名はVatican City

出典 講談社世界遺産詳解について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

バチカン市国
ばちかんしこく
Vatican City State英語
Stato della Citt del Vaticanoイタリア語

イタリア、ローマ市内に位置し、ローマ教皇が統治する世界最小の独立国。英語名Vatican City State。キリスト教ローマ・カトリック教会の首長である教皇がその職務を遂行する機関をローマ教皇庁とよぶ。教皇と教皇庁をまとめて教皇座Sedes Apostolicaという。バチカンという名称はバチカン市国だけをさす場合と教皇庁をさす場合とがある。国連の公称は教皇座The Holy Seeである。面積0.44平方キロメートル、人口802(2007)で大部分が聖職者。言語はラテン語(公用語)、イタリア語、フランス語。貨幣はユーロ。1984年に全域が世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。[藤澤房俊]

領域・施設・建造物

テベレ川の右岸、モンテ・マリオの南端とジャニコロの丘の北端の間に位置する。北と西と南をバチカン大通りに、北東をレオ4世通りとリソルジメント広場に、東をポルタ・アンジェリカ通りに囲まれ、南東にサン・ピエトロ広場がある。大部分を中世およびルネサンス時代の城壁に囲まれ、六つの城門がある。
 そのほかに、教皇庁とイタリアの間に締結されたラテラン協定(1929年2月11日)に従って、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、カステル・ガンドルフォ教皇庁宮殿など、ローマ市内外の施設にも主権(治外法権を有する)が及んでいる。ミケランジェロがデザインした華麗な服装のスイス人傭兵(ようへい)約1000名が教皇身辺と教皇室を、市国警察がその他の警備を行う。独自の放送局、銀行、郵便局、鋳貨施設、イタリア鉄道(トレンイタリア)と連絡する鉄道などがある。
 主たる建物はサン・ピエトロ大聖堂とバチカン宮殿である。サン・ピエトロ大聖堂は330年ごろにコンスタンティヌス大帝の命で着工され、1506~1667年にかけてブラマンテ、ミケランジェロ、ベルニーニなどの芸術家たちによって増改築された世界最大のキリスト教建築物である。バチカン宮殿はグレゴリウス11世(在位1370~78)の時代から教皇の宮廷となり、その後増改築が加えられ、現在の面積5万5000平方メートルになった。ほかには世界の至宝を集めた美術館・博物館、学術的価値の高い蔵書をもつ図書館などがある。また、シクストゥス4世(在位1471~84)によって建立されたシスティナ礼拝堂は、教皇選挙(コンクラーベ)、枢機卿(すうききょう)会議など、教皇庁の重要な会議が行われる場所であり、ミケランジェロらによる壁画が有名。[藤澤房俊]

行政・司法組織、財政

独立国としての行政事務と全世界約11億3000万人(2006年統計)のカトリック教徒の宗教行政とを管理する教皇庁の組織には次のようなものがある。行政の最高機関は国務省でバチカン市国の統治を担当し、教皇庁の他の諸機関との連携にあたり、諸国政府との交渉を行う。国務省には総務部と外務部が設置され、9聖省12評議会がある。いわゆる「バチカン外交」は外務評議会が中心になり行う。
 中央行政機関として九つの聖省は以下のとおりである。教会の信仰と道徳の保護・奨励にあたる教理聖省、教区の新設・改廃、司教の任命、流民・移民の世話を任務とする司教聖省、東方諸教会のうちカトリックに合同した信者の諸問題を統轄する東方諸教会聖省、カトリック教会の七秘跡の合法的授受とラテン式典礼をつかさどる秘跡・典礼聖省、布教地、準布教地への伝道を所管する布教聖省、聖職者と信徒の規律監視、カトリック要理教授、ミサ執行、聖堂財産管理を行う聖職者聖省、修道会を管轄する修道者・在俗修道会聖省、聖職者の育成や一般信徒の教育を扱うカトリック教育聖省と、かつての秘礼部聖省の一部を独立させた、列福、列聖や聖遺物崇敬などを扱う列聖調査聖省である。各聖省の長官は枢機卿が務める。
 教皇庁独自の司法制度は、内赦院、大審院、控訴院から成り立っている。内赦院は信者の良心問題を扱い、神と信徒の信仰的関係を調整する。大審院は諸国の大司教区法廷間の権限争議を裁き、またある事件を控訴院に移管させる通路の役割を果たす。控訴院は教皇に留保された事件、大審院を通して教皇が回付する事件を扱う。ただ、カトリック教会においては、審判権はキリストの代理者としての教皇にのみ与えられているところから、これらの裁判所も教皇の審判権の遂行機関とみなされている。
 バチカン市国の財政は、教皇庁が全世界で行う巨額の投資からの利潤、美術館・博物館の入場料、切手発行、信徒の寄付金などによってまかなわれている。外交は、国際法上に認められた一主権国として、全世界の主たる国々と大使・公使の交換を行っている。2008年の時点で178か国と外交関係を有する。また、教皇庁による平和と社会正義と人間解放のための努力として、教皇による世界各地の視察・訪問の旅は、世界の人々の大きな注目を集めていることを忘れることはできない。[藤澤房俊]

歴史

ローマ教皇が絶対的主権をもつバチカン市国の成立は、1929年2月にローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂において、当時のイタリア国家すなわちファシスト政権と教皇庁とが取り交わしたいわゆるラテラン(ラテラノ)協定に基づく。それまでのイタリア国家と教皇庁の対立の起源は、リソルジメント期にまでさかのぼる。この時期にサルデーニャ王国が行った宗教儀式によらない届出制の市民婚の義務づけや、イタリア統一期になされた教会国家領の併合、統一(1861)後の教会財産の国有化、数多くの修道院の解散といった政策は、教皇庁を完全に統一イタリア国家と対立する立場に追いやることになった。その後、教皇ピウス9世(在位1846~78)はイタリア国家に対して硬化の一途をたどり、1864年末には80か条からなるシッラボ(謬説(びゅうせつ)表)を公布して近代自由主義をまっこうから弾劾した。さらに1870年7月第1回バチカン公会議(1869~70)は、ある条件のもとで教皇は信仰や道徳上において誤りを説くことがないように神に守られているという教皇の無誤謬説を宣言した。
 この時期にローマに駐屯していたフランス軍は、プロイセン・フランス戦争による敗北でナポレオン3世の帝国が崩壊したため撤退を余儀なくされた。1870年9月20日、カドルナ将軍の率いる6万のイタリア王国軍がローマに入城し、教皇ピウス9世は抵抗をあきらめた。このイタリア王国の実力行使に抗議して教皇はバチカン宮殿に閉じこもり、自らバチカンの「幽囚者」として王国政府とのいっさいの交渉を禁じたのみならず、イタリア王国の存在すら認めようとしなかった。そして、教皇俗権の廃棄に関与するすべての者の破門を宣した。その年の10月2日ローマを含む教皇領で住民投票が行われ、13万3681対1507票の圧倒的多数でローマのイタリア王国併合が支持された。
 1871年5月イタリア議会は、政治家カブールの主張していた「自由国家内の自由教会」の原則にたって教皇保障法を成立させ、教皇にバチカン、ラテラノ宮殿、カステル・ガンドルフォ宮殿の所有権を認め、その経営費として助成金を支給することを決めた。また、教皇庁に駐在する外国の使節に外交上の不可侵権を与えることを認めた。しかし、イタリア王国とのいっさいの交渉を断った教皇はそれらの発効を拒否した。ピウス9世とその後継者たち(レオ13世、ピウス10世、ベネディクトゥス15世、ピウス11世)のイタリア国家を拒否する立場は、イタリア国家と教皇庁の正式の和解である1929年のラテラン協定まで変わることなく続いた。
 サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂において、イタリア国家を代表する首相ムッソリーニと教皇庁を代表する枢機卿ガスパルリが二つの議定書を取り交わした。一つの議定書は国家と教皇庁の和解条約で、これによってカトリックがイタリアにおける唯一の宗教であることが確認され、教皇が絶対的主権をもつバチカン市国の成立が定められた。もう一つの議定書は政教協約で、婚姻を教会の統制下に置くことの容認、学校教育における宗教課目の義務化などが認められた。この二つの議定書によって、イタリア統一以来続いた国家と教皇庁の対立にいちおうの終止符が打たれた。
 ラテラン協定が締結された時期の教皇ピウス11世(在位1922~39)は第一次世界大戦後の世界諸国の教会再建に尽くし、諸国政府との多くの政教条約を結んだ。1933年にヒトラーとの間に締結された政教協約はその一つで、今日もドイツに適用されている。ピウス12世(在位1939~58)は第二次世界大戦中、平和工作を実施し、反キリスト教的全体主義国家の台頭に対処したが、その成果はあがらなかった。
 1962年12月、ヨハネス23世(在位1958~63)は第2回バチカン公会議を招集し、普遍的教会の司牧の責任と権限を全世界の司教団と分担しあい、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教などのキリスト教諸派が平和と正義の実現のために一致協力することを唱えた。同時にアジョルナメント(現代化)とよばれる現代にふさわしい教会改革を行い、枢機卿も伝統的な70名という枠を取り外して85名に増員した。このときに日本、フィリピン、アフリカからも初めて枢機卿が選出された。さらに、翌1963年には回勅「地上に平和を」(パーチェム・イン・テリスPacem in terris)を出し、国際連合を援助して世界の平和を促進することを訴えた。パウルス6世(在位1963~78)もヨハネス23世の精神を引き継ぎ、世界の平和に果たす教会の役割を強く意識してキリスト教諸派の合同や現代世界の教会との対話を説き、新しい教会への脱皮を図った。またそれらを行動に移すため、インドのボンベイ(現ムンバイ)の万国聖体大会、国連総会での平和を訴える演説など、現代世界での平和促進を行った。1978年に教皇となったヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)はポーランド出身で、当時の共産主義国からの初めての教皇として注目を集めた。日本も含む世界中を訪問して世界平和を説き、若者たちとの対話も精力的に行った。海外訪問は104回、訪れた国は129か国に及んだ。2005年4月ヨハネ・パウロ2世が死去、新教皇にドイツ出身のベネディクト16世が選ばれた。
 イタリアとバチカン市国の間では、1984年2月、カトリックをイタリア国教としたラテラン協定を大幅に改め、信仰の自由を認めたコンコルダートに調印し、同年11月には教会財産、課税問題などに関する第二次コンコルダートに調印している。さらに1985年5月にはカトリックをイタリア国教としない新しいコンコルダートが調印された。
 1999年12月~2001年1月には、キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」の行事が催された。また2001年5月には、1054年の東西教会分裂以来初めて教皇がギリシアを訪問するなど、東方正教会との対話と和解への姿勢をみせた。[藤澤房俊]
『橋本昭一著『バチカンの行動原理――近代教皇たちの社会回勅』(1980・コルベ出版社) ▽赤間剛著『バチカンの秘密――世界の今日と明日を知るために』(1985・三一書房) ▽ジョージ・ブル著、関栄次訳『知られざるバチカン』(1988・日本放送出版協会)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

バチカン市国の関連キーワードロッセルバトーレ・ロマーノピオ・クレメンティノ美術館カステル・ガンドルフォサン・ピエトロ大聖堂サン・ピエトロ広場グレゴリアン大学バチカンの復活祭バチカン[市国]オブザーバー国家国連オブザーバーサンタンジェロ城オスロプロセスバチカン図書館ルネサンス様式バチカン博物館ラテラノ協定ローマ[市]バロック様式バルダキーノ水島三一郎