フランス社会党(読み)フランスしゃかいとう(英語表記)Parti Socialiste

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フランス社会党
フランスしゃかいとう
Parti Socialiste

フランスの政党。 1904年の第2インターナショナル・アムステルダム大会決議に基づき,それまで分裂していた「フランス国社会党」 Parti Socialiste de Franceと「フランス社会党」 Parti Socialiste Françaiseとが統合して翌 05年に結成された。正式の党名は「労働者インターナショナル・フランス支部」 Section Française de l'Internationale Ouvrièreであった。 14年には 103の議席を獲得するにいたったが,20年 12月の党大会において,コミンテルン加盟に賛同する多くの党員が脱党して,フランス共産党を結成した。その後党は L.ブルムの指導下に再建をはかり,急進社会党と結んでカルテル・デ・ゴーシュを形成した。やがて党は人民戦線運動の中核となって行動したが,人民戦線内閣は短命に終った。 46年 11月,第2次世界大戦後最初の総選挙で,ブルムが社会党の単独内閣を,47年同党の P.ラマディエが挙国一致内閣を組織した。次いで 58年に党は第五共和政の発足に貢献したが,アルジェリア問題で分裂し,分裂派は統一社会党 PSUを結成した (1960) 。 67年急進党などと「左翼連合」を結成したが,翌年これを解体し,71年6月共和政会議派などと合同して新たな社会党を結成した。 72年6月以来フランス共産党と「共同政策綱領」を協定し,73年の総選挙,74年5月の大統領選挙にも順調に勢力を拡大したが,77年に入り共産党との間に綱領の理解について食違いを生じ,78年3月の総選挙に左翼勝利を導くにいたらなかった。しかし 81年5月の大統領選挙では社会党の F.M.ミッテランが当選し,念願の政権を獲得した。同年6月の総選挙でも社会党が大躍進した。共産党との連合政権を樹立したが,84年7月のファビウス内閣では社共連合を解消し,社会党の単独政権となった。 86年3月の総選挙では保守連合が勝利して保守のシラク内閣が形成された。保革共存政権 (コアビタシオン) が登場したわけである。しかし 88年5月の大統領選挙ではミッテランが再選された。そこでシラク内閣は総辞職し,社会党の M.ロカールが後継首相に任命された。同年6月の総選挙では社会党が第1党の地位を維持し,ロカールが再び首相に指名された。その後,ロカール内閣の支持率は次第に低下し,91年5月には局面打開のため E.クレッソンがフランス初の女性首相に起用され,組閣したものの,クレッソン内閣は支持率低落に悩む社会党の救世主になれず,92年3月には結党以来最低の支持率を記録した。 93年3月の総選挙では大敗を喫し,94年のヨーロッパ議会選挙でも敗北。 95年5月の大統領選挙には L.ジョスパンが出馬したが共和国連合の J.シラクに敗れた。しかし,97年6月の総選挙では左派連合が勝利し,第1書記のジョスパンが首相に就任,保守のシラク大統領のもとでの保革共存政権が成立した。 98年3月の統一地方選挙でも左派連合が勝利,ジョスパン内閣の地位は強固なものとなった。

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百科事典マイペディアの解説

フランス社会党【フランスしゃかいとう】

1905年ジョレスの指導のもと社会主義諸派が合同して結成。当時の正称は〈インターナショナル・フランス支部(SFIO)〉。しかし,労働者はサンディカリスムにひきつけられていたため,大衆的政党となり得なかった。1920年分裂,左派はフランス共産党を結成。1936年の選挙で第1党となり,党首ブルムを首班とする人民戦線内閣をつくった。第2次大戦後はモレの指導下に中道左派の路線をとり,1950年代半ばまでしばしば連立内閣を組織した。1969年,SFIOから社会党(Parti socialiste。略称PS)に改称。1971年ミッテランの共和制協議会,カトリック左派などが合流し,中道左派から新左翼までを包含。1981年の大統領選でミッテランが当選,1988年再選された。1997年の大統領選ではジョスパンが共和国連合のシラクに敗れたが,1997年総選挙で第1党となった社会党はジョスパン連立内閣を組織した。2002年の大統領選挙では再びジョスパンが社会党の候補となったが現職のシラクに敗れ,2007年の大統領選では,セゴレーヌ・ロワイヤルが国民運動連合のニコラ・サルコジに敗れた。その間党勢は必ずしも退潮傾向にあったわけではなく,2010年3月の地方選では,国民運動連合などの右派・保守層の得票を大きく上回る勢いを見せた。2012年5月の大統領選で,フランソワ・オランドが現職のサルコジを破って当選,17年ぶりに社会党出身の大統領が誕生した。大統領選に続いて行われた国民議会選でも単独過半数を制し,社会党を中心とする左派が,国民議会から地方議会まで政治的多数派を形成することとなった。
→関連項目カシャンゲード第四共和政デュベルジェフランスブリアン

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世界大百科事典 第2版の解説

フランスしゃかいとう【フランス社会党 Parti socialiste français】

フランスの社会主義政党。略称PS(ペーエス)。1905年4月,ゲード派,可能派,アルマン派,ジョレス派などフランス社会主義の諸潮流が第二インターナショナルの指示にもとづいて統一し,社会党(正称は労働者インターナショナル・フランス支部Section française de l’internationale ouvrière,略称SFIO)をつくった。マルクス主義の原則を受け入れ,〈階級闘争および革命の党〉と宣言して,大戦前夜には100名の下院議員を擁する政党に発展したが,第1次世界大戦開戦直前,党を統合してきたジョレスが暗殺され,戦争勃発とともに党はブルジョア諸党と神聖同盟をつくって戦争に協力し,ゲード,サンバ,トーマが戦時内閣に入閣した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フランス社会党
ふらんすしゃかいとう
Parti Socialiste Franaisフランス語

1969年に発足したフランスの中道左派政党。略称はPS。その前身は、1905年に共産主義者や社会民主主義者を集めて発足したSFIO(Section Franaise de l'Internationale Ouvrire、労働者インターナショナルフランス支部)にある。SFIOからは1920年に党内左派の共産主義派が分離し、新たにフランス共産党が発足した。そのためSFIOは戦後期を含め、綱領では革命志向を残しつつも、実際には中産階級に支持される中道左派政党として連立政権与党の一角を占めていた。
 しかし、与党としてのSFIOは1950年代のアルジェリア危機に対して首相ギ・モレGuy Mollet(1905―1975)を含めて無策に終わり、ドゴールに政権の座を譲り渡し、歴史的な敗退を余儀なくされた。1958年に第五共和政となった新たな憲法体制のもと、左派勢力は分裂していたが、1965年の大統領選挙での選挙連合をきっかけに、統一が模索される。ドゴールの退陣した後の1969年には新社会党(NPS:Nouveau Parti Socialiste)が発足し、さらに1971年のエピネー大会で、旧SFIO派を含む形で発足したのがフランス社会党(PS)であった。[吉田 徹]

ミッテラン時代の社会党

1970年代は、社会党躍進の時代にあたる。エピネー大会で左派勢力の大同団結を成し遂げて第一書記に選出されたミッテランは、その後共産党との共通公約や選挙協力などによって、党勢拡大に成功した。1970年代後半には、共産党にかわり、保守・中道の与党勢力に対する野党第一党の地位を確立することになる。この時代には地方議会選でも大勝し、多くの市町村で社会党の政治家が誕生した。
 党首ミッテランは1974年の大統領選で中道のバレリー・ジスカール・デスタンを前に敗退したものの、ふたたび両者の対決となった1981年の大統領選で勝利、続く下院選でも地すべり的勝利を収め、社会党は約四半世紀の長い野党生活から抜け出すことになった。ミッテランと社共政権は「フランスの社会主義」を掲げ、死刑廃止や地方分権、放送の自由化など革新的な政策を実現したものの、インフレと失業率上昇の景気後退により、国有化をはじめとする大きな政府路線を撤回、経済政策では社会主義路線を撤回することになる。このため1986年の下院選ではジャック・シラク率いるRPR(Rassemblement Pour la Rpublique、共和国連合)に敗退し、大統領と首相の党派が異なる保革共存(コアビタシオン)となって、社会党は野党に転落する。その後、ミッテランが1988年に大統領に再選され、解散総選挙で社会党はふたたび与党となった。しかし小数派政権として安定を欠き、党幹部同士の路線闘争も続いたため、1993年の下院選ではふたたび野党へと転じた。[吉田 徹]

1995~2012年

社会党が共産党や緑の党などとともに、与党に返り咲くのは、大統領シラクのもとで行われた1997年の解散総選挙によってであった。コアビタシオンのもとで首相となった社会党のジョスパンLionel Jospin(1937― )は、そのまま2002年の大統領選に挑むものの、左派票の分裂によって極右政治家ジャン・マリ・ルペンJean-Marie Le Pen(1928― )に決選投票進出のすきを与えてしまった。2007年の大統領選でも初の女性候補ロワイヤルSgolne Royal(1953― )がUMP(Union pour un Mouvement Populaire、国民運動連合)のサルコジ候補に負け、三度続けて大統領選で敗北する憂き目にあう。[吉田 徹]

オランド大統領の時代

2012年の大統領選では、公開予備選で選ばれた社会党のオランド候補が現職大統領サルコジを降(くだ)し、ミッテランが大統領再選を果たした1988年から約四半世紀を経て、社会党の大統領が誕生した。もっとも、公約ではきわめて左派的路線を色濃くして支持を集めたものの、ユーロ危機の影響から過去最高の失業率を経験したこともあって、大統領オランドおよびエローJean-Marc Ayrault(1950― )内閣は、記録的な低支持率にあえぐことになった。さらに2016年のシャルリー・エブド襲撃事件やパリ同時多発テロ、中東からの難民流入危機などにみまわれ、オランドは求心力を急速に失い、2017年の大統領選への不出馬を決めることになった。2016年の公開予備選で一般有権者の票で選ばれたのは内閣で教育担当相を務めたブノワ・アモンBenot Hamon(1967― )であったが、大統領選では6.4%と、社会党候補者として歴史的な敗北を喫した。[吉田 徹]

2017年以降

社会党の候補にかわって2017年の大統領選で左派票を集めたのは、オランドのもとで経済相を務めていたマクロン候補、共産党と協力し、かつて社会党に在籍していた極左のメランションJean-Luc Mlenchon(1951― )候補であった。大統領となったマクロンは社会党政治家を含む形で超党派内閣を発足させ、その結果社会党は壊滅状態に追いやられている。
 社会党は綱領や政策では急進的な方針を掲げて選挙を勝ち抜くものの、政権与党になると現実主義路線をとらざるを得なくなり、支持者が離反するという経験を繰り返してきた。その矛盾に耐えられず、組織的に空中分解してしまったのが2017年の大統領選であった。ふたたび1970年代のように勢力を再結集することができるかが注目される。[吉田 徹]
『吉田徹著『ミッテラン社会党の転換』(2008・法政大学出版局)』

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