改訂新版 世界大百科事典 「フランス社会党」の意味・わかりやすい解説
フランス社会党 (フランスしゃかいとう)
Parti socialiste français
フランスの社会主義政党。略称PS(ペーエス)。1905年4月,ゲード派,可能派,アルマン派,ジョレス派などフランス社会主義の諸潮流が第二インターナショナルの指示にもとづいて統一し,社会党(正称は労働者インターナショナル・フランス支部Section française de l'internationale ouvrière,略称SFIO)をつくった。マルクス主義の原則を受け入れ,〈階級闘争および革命の党〉と宣言して,大戦前夜には100名の下院議員を擁する政党に発展したが,第1次世界大戦開戦直前,党を統合してきたジョレスが暗殺され,戦争勃発とともに党はブルジョア諸党と神聖同盟をつくって戦争に協力し,ゲード,サンバ,トーマが戦時内閣に入閣した。しかし戦争末期には協力派への批判が強まり,20年末のトゥール大会では第三インターナショナルへの加盟を決定し,のちに共産党と称した。加盟に反対する少数派はブルムらにひきいられて別に執行部をつくり,社会党の名称を保持した。当初2万にすぎなかった党勢は順調に回復し,32年には党員13万7000,下院の議席129をもつ大政党となった。それとともに党の基盤はホワイトカラー,知識人,下層中産階級に移り,共産党と対立して,急進社会党と閣外で協力した。しかし34年,共産党の戦術転換にともなって社共両党の統一戦線が成立し,それは急進社会党をも含めた人民戦線運動に発展した。36年4~5月の総選挙で社会党は第1党となり,党首ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立,人民戦線綱領の実現につとめた。40年夏,敗戦によって党は分裂した。社会党議員の多数はペタン元帥への全権付与に賛成したが,37名の議員は反対投票を行った。抗戦を主張していたブルムはビシー政府に逮捕され,多くの党員はいち早く対独地下抵抗運動に参加した。解放後初の総選挙では人民共和運動,共産党に次いで第3党となり,第四共和国憲法の成立に大きな役割を演じたが,しだいに反共色をつよめ,47年5月ラマディエは閣内から共産党を追放した。三党政治の崩壊後社会党はいわゆる第三勢力の主要構成要素として第四共和国の政府に多数の首相,閣僚を送ったが,党首ギ・モレの内閣はスエズ出兵の汚点を残し,党の影響力は漸次低下した。59年,モレはアルジェでの反乱を背景に登場したド・ゴール政府に国務相として入閣,第五共和国憲法の作成に協力したが,反対派は離党して独立社会党をつくった。69年社会党(SFIO)は社会党Parti socialisteに改組し,指導部からモレをしりぞけて脱皮をはかったが,ド・ゴール辞任にともなう大統領選挙で惨敗を喫し,71年ミッテランの共和制度会議と合同してミッテランを第一書記に選出した。この新しい社会党Parti socialisteは72年,政府綱領を発表,つづいて共産党と左翼連合の共同綱領を作成するなど党の刷新につとめ,73年の地方選挙以来得票率で共産党を抜く勢いを示した。74年の大統領選挙で左翼統一候補として立候補し惜敗したミッテランは,81年5月の大統領選挙では勝利を収め,社会党を中心に共産党を含んだ政権が誕生した。
執筆者:山極 潔
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報