フランスの作曲家、指揮者。中部フランス、ロアール県のモンブリゾンに生まれる。パリ音楽院でメシアンに和声を、作曲家オネゲルの夫人に対位法を、レイボウィッツに十二音技法を学ぶ。1946~1956年、ルノー・バロー劇団の音楽監督を務め、1954年には同劇団の協力を得てパリに現代音楽連続演奏会「ドメーヌ・ミュジカルDomaine Musical」を組織してその運営と指揮にあたり、1955年初演の『主なき槌(つち)(ル・マルトー・サン・メートル)』Le Marteau sans maîtreで作曲家としての地位を確保する。ノーノ、シュトックハウゼンとともに、ダルムシュタット夏期音楽講座の中心人物として、非常に大きな影響力を残す。その作風は、ウェーベルンのセリー技法を拡大したトータル・セリエリズムの技法に基づく、きわめて繊細で感覚的な書法を特徴とする。
代表作に『ストリュクチュール』Structures(第1集1951、第2集1956~1961)、『エクラ』Éclats(1964)、『プリ・スロン・プリ』Pli Selon Pli(最終稿1969)などがある。1970年代後半から1991年にかけては、パリのポンピドー・センターの音楽研究所IRCAM(イルカム)初代所長を務めた。研究所の巨大なコンピュータを用いた作品『レポン』Répons(1981~1986)は、生(なま)のオーケストラ音をリアルタイムで電子的に加工してスピーカーを通して聴くという試みで、1980年代のコンピュータ音楽の代表といわれている。1960年代以来、ブーレーズはフランス現代音楽の事実上のリーダーを務めた。また指揮者としてもきわめて高名であった。1967年(昭和42)以来、数度来日した。
[細川周平 2016年1月19日]
『店村新次訳『意志と偶然』(1977・法政大学出版局)』▽『船山隆・笠羽映子訳『ブーレーズ音楽論――従弟の覚書』(1982・晶文社)』▽『笠羽映子・野平一郎訳『参照点』(1989・書肆風の薔薇)』▽『笠羽映子訳『現代音楽を考える』(1996・青土社)』▽『笠羽映子訳『標柱音楽思考の道しるべ』(2002・青土社)』▽『フェーリックス・シュミット著、高辻知義訳『音楽家の肖像――作曲家と演奏家の工房から』(1987・音楽之友社)』▽『磯田健一郎著『近代・現代フランス音楽入門』(1991・音楽之友社)』▽『ミケル・デュフレンヌ著、桟優訳『眼と耳――見えるものと聞こえるものの現象学』(1995・みすず書房)』▽『吉田秀和著『吉田秀和全集5 指揮者について』新装復刊版(1999・白水社)』▽『Dominique Jameux, Susan Bradshaw:Pierre Boulez(1990, Harvard University Press)』▽『Jean Vermeil, Camille Naish:Conversations with Boulez;Thoughts on Conducting(1996, Amadeus Press)』
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フランスの作曲家,指揮者。ロアール県の技師の家庭に生まれ,早くからピアノを学び,聖歌隊の隊員として音楽に親しむ。1943年パリ音楽院に入学,メシアンに作曲を師事し,ドビュッシー,ストラビンスキー,シェーンベルクなどの作曲技法を習得した。1946年,《フルートとピアノのためのソナチネ》《ピアノ・ソナタ第1番》《婚礼の顔》を発表し,新鋭作曲家として注目を集めると同時に,J.L.バロー劇団の音楽監督として指揮活動も開始した。以後作曲家としては,セリー・アンテグラル,さらに,偶然性を批判的に取り入れた〈管理された偶然性〉の,精緻をきわめた数理的な作曲技法によって,《ル・マルトー・サン・メートルLe marteau sans maître(主なき槌)》(1954)や《プリ・スロン・プリPli selon Pli--マラルメの肖像》(1960)などの傑作を書きあげ,指揮者としては,BBC交響楽団,ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団など世界の超一流のオーケストラの常任指揮者を務めた。1975年にIRCAM(音楽・音響の探求と調整の研究所)を創設し,所長に就任して,現代音楽の新しい可能性を追求している。音楽理論家としても活動し,コレージュ・ド・フランスで講義をし,《徒弟の覚書》(1966),《参照点》(1981)などの著書を執筆した。
→偶然性の音楽 →ミュジック・セリエル
執筆者:船山 隆
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…十二音技法も部分的に使われているが,全体としては無調の作風によって作曲され,歌と語りの中間のシュプレヒシュティンメSprechstimmeが,きわめて効果的に使われている。表現主義のオペラの傑作と評価され,P.ブーレーズは,〈《ウォツェック》でオペラというジャンルは死滅した〉と論じている。【船山 隆】。…
…C.ウォルフ,M.フェルドマン,E.ブラウンらのケージ一派の作曲家は,サティの音楽,ダダ,シュルレアリスム,禅,易学などから多くの影響を受けながら,〈インデターミナンシー(不確定性)〉〈ハプニング〉〈イベント〉などと称される生きた音楽行為を重視する音楽活動を展開した。ケージ一派の音楽とその思想は,54年10月にドナウエッシンゲン音楽祭でヨーロッパに紹介され,ブーレーズやシュトックハウゼンに衝撃を与えた。ブーレーズは57年のダルムシュタット国際夏期講習会で,〈アレア(ラテン語で賭け,さいころの意)〉と題した論文を発表し,作曲や演奏の次元で部分的に偶然性を利用する〈管理された偶然性〉が重要であることを主張した。…
…これは電子オルガンやコンピューターのキーボード,ジョイスティックなどのインターフェースの操作によりリアルタイムで音響に変化を与えることができるシステムであった。これは一方ではシンセサイザー,サンプラーの開発やMIDIとパーソナルコンピューターの誕生と共に,(3)の形のコンピューターミュージックを可能にし,他方ブーレーズを初代所長として1970年代初頭にパリに開設された研究所IRCAMでは,パワフルなコンピューター4Xを用いて,DSPのさまざまなテクニックが探求されるようになる。ブーレーズはリアルタイムで器楽演奏の音を増幅したり,空間的に配分したりするこのテクニックを用いる《レポン》(1981)を作曲した。…
…1950年代以降ストラビンスキーが採用した十二音技法はクルシェネクの方法によるものが多い。また大戦後ブーレーズが主張した音列の移置形の新しい作り方も,基本的にはクルシェネクの方法と同じである。 十二音技法は第2次世界大戦後世界的に広まり,多くの作品を生み出したが,ブーレーズはセリーの思考を音高以外の要素(音価,音強,音色)にまで適用したミュジック・セリエルに発展させた。…
…同楽派のためにポーランド出身のレイボビッツが,精力的な教育宣伝活動を展開した。2人に師事した青年たちのうちにブーレーズがいて,しだいに頭角を現す。彼はメシアンの探求と十二音音楽の方法論とを結合した上で,バレーズの〈組織された音響〉からも示唆を受け,音楽の諸構成要素を全面的に組織化(セリー化)する試みに向かった。…
※「ブーレーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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