マルタ(国)(読み)まるた(英語表記)Malta

翻訳|Malta

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マルタ(国)」の意味・わかりやすい解説

マルタ(国)
まるた
Malta

イタリアとリビアの間の地中海に浮かぶ島からなる共和国。正称マルタ共和国Repubblika Ta' Malta。主島マルタをはじめ、ゴゾGozo、コミノComino、コミノットCominotto、フィルフラFilflaの5島よりなる。後二者は無人島。マルタ島は面積246平方キロメートル、5島の総面積は316平方キロメートルで、淡路(あわじ)島(593平方キロメートル)の約半分である。人口37万8518(1998推計)。首都はバレッタ(人口7100、1998)であるが、大きさとしては4番目で、最大の都市はスリエマSliema(人口1万2308、1998)。いずれもマルタ島にある。

田辺 裕・柴田匡平]

自然

沈降によって形成された平坦(へいたん)な地形である。マルタ島の最高点は標高240メートル程度。マルタ島は南東部が高く、西に向かって緩傾斜をなしている。北部と南東部高地との間に明瞭(めいりょう)な断層線がみられる。地質は高地部がサンゴ性の石灰岩、低地部がグロビゲリナ(浮遊性有孔虫の一種)性の石灰岩を主とする。地味(ちみ)はあまり豊かではない。東部の海岸線は複雑に入り組んでおり、バレッタの市街が発達する陸地の突出部を挟むグランド・ハーバーとマルサムセット・ハーバーは天然の良港をなす。気候は温暖小雨で、年平均気温は18℃。一般に風が強く、湿度が高い。土壌が薄く、降水が少ないため、野生の植物はあまりみられない。

[田辺 裕・柴田匡平]

政治

1814年パリ条約以来、地中海の要衝(ようしょう)としてイギリス統治下にあったが、第二次世界大戦後はしだいに自治体制に移行し、1964年9月21日にイギリス連邦の加盟国として独立し、1979年3月にイギリス軍は完全撤収した。独立後は労働党と国民党の二大政党間で争いが続いている。両党の勢力はほぼ拮抗(きっこう)しているが、1971年から1987年までは労働党が政権を握り、非同盟中立路線と社会主義を推進した。これに対し、国民党は親西欧路線をとり、両党の支持者間には激しい対立がみられた。1987年5月の総選挙では16年ぶりに国民党政権が復活し、EU(ヨーロッパ連合)への加盟交渉とNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)との協力関係を進めた。しかし1996年末には労働党が政権を奪還し、ふたたびNATOから距離をとり、EU加盟にも消極的になった。政体は大統領(5年任期)を国家元首とし、行政の首長は首相である。大統領が首相を指名する。衆議院一院制で、定数は65。議員は比例代表制の普通選挙により選出され、任期は5年。地方行政体はない。イギリス連邦のほか、ヨーロッパ安全保障協力機構(旧ヨーロッパ安全保障協力会議)、国連IMF(国際通貨基金)の加盟国。対EU関係では1998年にふたたび加盟交渉に入り、2004年に加盟した。軍隊は1850人。

[田辺 裕・柴田匡平]

経済

イギリス軍の撤収に伴って基地依存の経済から脱却すべく、軍用ドックの用途転換をはじめ、軽工業や観光業への移行が推進された。1984年竣工(しゅんこう)のドックはサウジアラビアとアブ・ダビの資金援助、中国の技術援助によった。軽工業の中心は繊維製品や皮製品などだが、1980~1990年代はEUの域内保護政策で輸出は伸び悩んだ。観光業は1960年代から開発されて順調に伸びたものの、1980年代に至り一時落ち込んだ。1980年には約73万人であった観光客が政情不安の激しかった1984年には約48万人となった。しかし、1991年には89万人台に回復した。農産物はトマトなど一部の加工食品を輸出するが、穀類肉類は輸入に頼る。ブドウの栽培も行われている。主要貿易相手国はイタリア、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカなどである。

[田辺 裕・柴田匡平]

住民

人種はマルタ系が96%、イギリス系2%、イタリア系が2%未満。公用語はマルタ語と英語であるが、イタリア語も通用する。住民のほとんどはカトリックの信者で、学校教育に果たす教会の役割も無視できない。度量衡は長くイギリス式のヤード・ポンド法であったが、メートル法に移行した。

[田辺 裕・柴田匡平]

歴史

新石器時代から人の住んでいたマルタは、歴史時代に入ると、フェニキア、カルタゴ、ギリシアの影響を受け、紀元前218年にローマによって征服された。これ以後16世紀に至るまで、マルタの歴史はシチリアに結び付くことになった。ただし、9世紀後半から11世紀末まで続いたイスラム勢力の支配は、人口の少ないマルタの場合、シチリアよりも大きな影響を残し、アラビア語系のマルタ語が形成された。

 マルタが歴史上ユニークな位置を占めるようになったのは、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世が、ロードス島を追われたヨハネ騎士団の本拠地として、この島を提供してからである。マルタは、カトリック側の対トルコ・イスラムの最前線となり、ヨーロッパ各地から集まった騎士の軍事活動の拠点となった。トルコ側の攻撃も再三行われたが、とくに1565年スレイマン2世の武将ムスタファ・パシャによる4か月余の「大攻囲」は有名である。マルタ騎士団の支配は2世紀余にわたって続いたが、1798年エジプト遠征途上のナポレオンがこの島を占領し、騎士団はローマに逃れた。マルタの戦略的重要性に着目したイギリスは、1800年にネルソンによって島を占領し、パリ条約(1814)で領土とした。その後、マルタはイギリスの地中海軍の根拠地となったが、1964年に独立し、同年、国連に加盟した。

[清水廣一郎]

『田辺裕監修『世界の地理 11 イタリア・ギリシア』(1997・朝倉書店)』


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