イギリスの経済学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A.C.ピグー,J.M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。スミス,リカードからイギリス経済学の正統を引くJ.S.ミルの《経済学原理》(1848)は,1871年にミル自身による最後の改訂版として出版されたが,そのころマルクスの《資本論》(1868),ジェボンズの《経済学の理論》(1871),メンガーの《国民経済学原理》(1871)など新しい動向を象徴する著作が現れるようになっていた。それは時代の変化とともに権威を失いつつあった古典学派(古典派経済学)に対する反乱の時代であった。その影響は経済学のさまざまな分野に及んだが,価値の理論の分野では,リカードのあいまいさに対するジェボンズの反発から生じた論争が,商品の価値の決定において生産費と需要の演じる役割をめぐって闘わされた。マーシャルは,価値が供給と需要の均衡する点において決定されるという命題を基盤として,経済の世界のあらゆる要素を相互的に位置づけることによって,この論争に終止符を打った。すなわち生産物の価値の決定においては,古典学派の強調した生産費を供給側の要素として,またジェボンズの強調した効用を需要側の要素として位置づけた。マーシャルはこうして,古典学派が需要の諸力よりも供給の諸力を強調したのは彼らの正しい直観に従ったものであると主張した。経済学では,一つの時代を支配した学説は時代遅れとして簡単に片づけられない真理を含んでいるものである。このような古典学派の復活を意味するマーシャルの経済学は新古典派経済学(狭義)と呼ばれる。
彼の研究分野は価値の一般理論のみならず,さまざまな特殊研究の分野にもわたっており,とりわけ貨幣理論は彼の得意とする領域であった。その領域での研究は,後にケインズが進む道を整えた。しかし,彼の研究のこの部分はケンブリッジ大学での講義を通じて口頭で伝えられたため,十分には伝わらなかった。それらが《産業と貿易》(1919),《貨幣,信用,商業》(1923)として公刊されたのは彼の晩年であったため,外の世界に対する影響力は損なわれていたのである。日本においては主著《経済学原理》は1928年に翻訳・出版されている。
執筆者:白井 孝昌
アメリカの裁判官。バージニア州出身。ジョン・アダムズ大統領のもとで国務長官(1800-01)を務めたのち,アダムズにより第4代の合衆国最高裁判所首席裁判官に任命され,1801年から35年までその地位にあった。その説得力ある議論によって他の裁判官に大きな影響を与え,発足まもない最高裁判所の進路を決定した。マーシャルは連邦派(フェデラリスツ)の立場に立っており,それが憲法の解釈に色濃く反映する。すなわち,彼は,マーベリー対マディソン事件(1803)で,当時の諸説のうち最も広範囲かつ強力な形で違憲立法審査権を樹立した。憲法の解釈については,文言に拘束される厳格解釈を退け,これを自由に解釈する立場をとる。そして,連邦の権限の範囲に関する条文を拡張解釈するのみならず,連邦には憲法には明示されていないが論理上黙示的に認められる権限があるとして,連邦の地位を強化した。連邦法銀行national bankの設立を合憲としたのも,この黙示的権能の理論doctrine of implied powersによるものである。基本権の面では,ロック的な既得権の理論に従い,有産者の権利を保護した。とくに,合衆国憲法中の〈州は……契約上の債権債務関係obligation of contractsを害する法律を制定……してはならない〉との条項(contract clause)を拡張解釈して,既得権を侵害する(とマーシャルが考えた)数多くの州法を違憲とした。
執筆者:田中 英夫
アメリカの軍人,政治家。第2次大戦時の戦争指導に卓越した手腕を発揮した陸軍参謀長(1939-45)であり,また戦後国際的責任の拡大したアメリカの外交指導を担った国務長官(1947-49)。第1次大戦時にはヨーロッパ派遣軍の参謀として対独反攻作戦に加わり,戦間期にはJ.J.パーシング陸軍参謀長の副官を務めた。1939年に陸軍参謀長に任ぜられ,陸軍の規模と編成を一新する改革を遂行して,地球的危機に対応する戦時体制を整えた。陸軍内の行政,統合参謀本部(JCS)の指導,F.D.ローズベルト,H.S.トルーマン両大統領への助言と政軍関係の調整,米英間の軍事協力,グローバルな戦略・作戦の決定と実施等に顕著な貢献をなし,〈勝利のオーガナイザー〉と称えられた。戦後は,国共関係の調整という実りのない工作のため中国へ赴いた(マーシャル・ミッション)あと,47年には国務長官に就任した。外交機関の参謀部にあたる政策企画部を創設して国務省を効率的な組織に再生させんと試みたり,またマーシャル・プランにより欧州復興を助けて,増大するアメリカの国際的役割を方向づけようとした。
執筆者:五百旗頭 真
現代イギリス社会学,社会政策論の代表的研究者。ロンドン生れ。ケンブリッジのトリニティ・カレッジで歴史学を専攻し,ケンブリッジ大学のフェローとなる。1925年から56年まで,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに奉職して,その間,1944年から50年まで社会科学部長,その他多くの要職を歴任した。56年から60年までパリのユネスコの社会科学部長,1959年から62年まで国際社会学会会長と,その活動は広範多岐にわたっている。彼の社会学の主要な関心は社会階層論であり,この方面での業績は,《市民権と社会階級Citizenship and Social Class》(1950),《岐路に立つ社会学Sociology at the Crossroad》(1947,63)としてまとめられている。社会政策論では,イギリスの社会政策分野の古典ともいうべき《20世紀英国における社会政策Social Policy in the Twentieth Century》(1965,67,70,75),そして晩年の《福祉に対する権利Right to Welfare》(1981)が主要著書である。
執筆者:社本 修
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(内海孝)
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1880~1959
アメリカの軍人,政治家。第二次世界大戦中の陸軍参謀総長。戦後大統領特使として中国の国共内戦の調停に従事したが,成功しなかった。帰国後国務長官(在任1947~49)として冷戦初期の封じ込め政策を遂行した。朝鮮戦争勃発後,元職業軍人としては例外的に国防長官に就任した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…A.マーシャルは,産業の規模が拡大することによりその産業内の企業の生産効率が高まることを外部経済と呼び,企業の規模が拡大することによりその企業自身の生産効率が高まることを内部経済internal economiesと呼んだ。後者は企業の生産技術における規模に関する収穫逓増に対応する。…
…この財の価格の変化割合と,それによる数量の変化割合の関係を記述・測定するのが価格弾力性という概念である。A.クールノーやJ.S.ミルの著作の中にも同種の考えはみられるが,需要量の%変化(⊿q/q)を価格の%変化(⊿p/p)で除したものを〈弾力性elasticity〉と最初に名づけたのはA.マーシャルである。ある財の需要の価格弾力性は,その財に対するよい代替財が存在するとき大きくなるため,一般には一企業の直面する需要の価格弾力性は,産業全体のそれより大きい。…
…価値は価格にとって内面的inherentもしくは内在的intrinsicであるとされたのである。このいわゆる真実価値real valueの根拠を定めるのが,A.スミスからA.マーシャルにいたる古典派および新古典派の価値論における一つの重要な仕事であった。注意しなければならないのは,このような価値と価格との密接な連関のために,両者がしばしば混同されるということである。…
…彼は学派を形成せず孤立した存在であったといわれるが,その問題意識はある意味でF.Y.エッジワースの《数理心理学》(1881)にひきつがれ,現代の一般均衡理論につながっている。 古典派経済学以後のイギリスの経済学を支配したのは,《経済学原理》(1890)の著者A.マーシャルに始まるケンブリッジ学派であった。マーシャルは,古典派経済学を否定するのではなく一般化するかたちで,効用と費用,需要と供給ははさみの二つの刃のように重要であると論じた。…
…A.マーシャルを創設者とするケンブリッジ大学中心の経済学の流れをケンブリッジ学派または(狭義の)新古典派経済学あるいは新古典学派,新古典派とよぶ。しかし普通,新古典派というときは,この学派のほかにローザンヌ学派,オーストリア学派をも含めた限界分析を基礎とする均衡理論を総称することが多い。…
…この一般均衡理論の創設者の貢献は,彼に先だって複占市場の均衡を分析したA.クールノーのそれとともに,均衡分析の歴史の中で不朽の光を放つものである。 一般均衡理論の簡略型ともいうべき部分均衡理論は,ケンブリッジ学派のA.マーシャルによって多くの問題に有効に援用された。彼は,たんに需要曲線と供給曲線を用いての今日標準的となった分析を有効に活用しただけでなく,安定条件についての独自の分析を行い,時間の長短によって均衡を区別するなど,後の発展のためにも多くの用具を提供した。…
…A.マーシャルにより,〈消費者がそれなしですますよりはむしろ支払おうとする金額と,彼が実際に支払う金額との差額〉と定義されている経済学上の概念。消費者余剰は,需要曲線の図を用いれば次のように表される。…
…元来はA.スミス,D.リカード,J.S.ミルらのイギリス古典派経済学に対して,限界革命以降のA.マーシャルを中心とするA.C.ピグー,D.H.ロバートソンらのケンブリッジ学派の経済学を指す。 古典派(古典学派ともいう)と新古典派(新古典学派ともいう)との基本的な相違は,前者が商品の交換価値(〈価値〉の項参照)はもっぱらその生産に投下された労働価値によって決まるとしたのに対して,後者は価値の由来を生産費とならんで需要側の限界効用に求める点にある。…
… このように与件の変化の前と後との二つの均衡点を比較することにより,与件の変化の経済的影響について分析するのが比較静学の方法である。部分均衡理論の枠組みの中で比較静学の方法を援用することにより多くの興味深い結論を導いた経済学者としては,ケンブリッジ学派のA.マーシャルの名が知られている。彼の手法は後にJ.R.ヒックスやP.A.サミュエルソンらにより一般均衡理論の枠組みにおいても援用可能な形に拡張されるに至った。…
…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…
…古くはバドラシーラと呼ばれたが,アレクサンドロス大王遠征時代にはすでにタッカシーラないしタクシーラ(タッカ族の町)と言い,ギリシア語やラテン語でタクシラと写された。19世紀にA.カニンガムが調査し,1912‐34年にJ.マーシャルが大規模に発掘してその歴史や文化を明らかにした。当地は,北はカシミール,北西はガンダーラを経て中央アジアや西アジアに通じ,南東はガンジス流域,南はインダス川からアラビア海沿岸に通じる四通八達の地。…
…モエンジョ・ダーロとも呼ばれる。1922年にバネルジーR.D.Banerjiがハラッパーと同じ遺物を発見したことにより注目され,22‐27年にはJ.マーシャルが,27‐31年にはE.H.マッケイが大規模に発掘し,遺跡の性格を明らかにした。50,65年にも小規模な発掘があったが,地下水位が異常に高く,自然層はおろか,地表下5m以下の遺構状態は全く不明であり,この都市の歴史のごく一部しか判明していない。…
…インダス川流域を中心に前2300‐前2000年ごろ最盛期をむかえたインドの古代文明。1920年ハラッパーがサハニD.R.Sahaniにより,ついでモヘンジョ・ダロがバネルジーR.D.Banerjiにより発見され,22‐27年にマーシャルJ.Marshallが,27‐31年にマッケーE.J.H.Mackayがモヘンジョ・ダロを,また33‐34年にバッツM.S.Vatsがハラッパーを発掘した。
[王宮・王墓を欠く文明]
遺跡分布の最大限は,東はデリー付近,西はアラビア海沿岸のイラン国境付近,南はボンベイの北200km,北はシムラ丘陵南端に及び,オクサス河岸にも1ヵ所ある。…
※「マーシャル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
カスタマー(顧客)とハラスメント(嫌がらせ)を組み合わせた造語「カスタマーハラスメント」の略称。顧客や取引先が過剰な要求をしたり、商品やサービスに不当な言いがかりを付けたりする悪質な行為を指す。従業...
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
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5/20 小学館の図鑑NEO[新版]昆虫を追加