ヨルダン(読み)よるだん

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ヨルダン(国)
よるだん
Hashemite Kingdom of Jordan英語
al-Mamlakat al-Urdunyat al-Hshimyaアラビア語

西アジア、アラビア半島北西部にある国。正称はヨルダン・ハシェミット(ハーシム)王国。国名は、アンティ・レバノン山脈に源を発し死海へ注ぐヨルダン川に由来する。歴史的には大シリアの一部をなし、パレスチナ(ペリシテ人の国)とよばれた。北はシリア、北東はイラク、南東はサウジアラビア、西はイスラエルと死海、そしてヨルダン川西岸地区に囲まれる。面積8万9342平方キロメートル、人口553万7000(2006推計)。首都はアンマン。海への出口は南のアカバ湾があり、約40キロメートルのサンゴ礁の海岸線がある。複雑な中東の政治情勢のなかで小国ながらパレスチナ問題解決の鍵(かぎ)を握る国として、国際政治の舞台で重要な役割を担っている。[塩尻和子]

自然

地勢は、西部山地、ヨルダン渓谷、東部砂漠に大別される。国土の80%以上が不毛の砂漠または半砂漠である。西部山地には600~1000メートル級の二つの山脈が走り、その谷間は南北に世界でもっとも低い大地溝帯を形成し、平均して海面下300メートルのヨルダン渓谷となる。首都アンマンはヨルダン渓谷東部の山岳地帯、モアブ山地の標高762メートルの丘陵地帯にある。ヨルダン川西岸はユダヤ・サマリア山地とよばれ湿暖な地中海性気候で、冬の雨期には900ミリメートルに達する降雨があり、肥沃(ひよく)で農耕に適している。ヨルダン渓谷は幅5~10キロメートル、長さ約100キロメートルの細い緑地で、亜熱帯性気候を呈し、夏は40℃の酷暑となるが、高温多湿の気候を生かして農耕や果樹栽培が行われている。国土の大半を占める東部砂漠は乾燥し、降水量は年間50ミリメートル以下である。アンマン地方は温暖な高原性気候で年降水量270.3ミリメートル、年平均気温は17.2℃、8月の平均気温25.3℃、1月は7.7℃、冬は雨期となり積雪もみられる。[塩尻和子]

歴史

ヨルダンは世界史上の要所でありながら、20世紀になるまで一つの独立国となることはなかった。『旧約聖書』によれば、紀元前2000年ごろアブラハムが一族を率いてメソポタミアからカナーンの地、すなわちヨルダンへ入ったといわれる。前300年ごろ、アレクサンドロス大王の後継者の一人、プトレマイオス・フィラデフスがアンマンに自らの名を冠した都市フィラデルフィアを建設、前2世紀ごろにはゲラサ(ジェラシュ)に都市が建設され、紀元後614年ペルシアに征服されるまで隊商都市として栄えた。南西部のペトラでは前6世紀ごろからナバテア人の国家が堅固な岩山都市を中心として勢力を誇ったが、紀元後105年ローマに征服され、隊商路が陸路から紅海へ移った3世紀ごろには衰退した。636年ダマスカスを都としたアラブのウマイヤ朝に征服され、アラビア半島とシリアを結ぶ要地となった。しかしアッバース朝が興り、836年都がバグダードに移されると急速にさびれ、1517年にはオスマン帝国のダマスカス州の一部とされて、長い間忘れられた地となっていた。現在のヨルダン・ハーシム王国は第一次世界大戦を契機として誕生した。
 1917年6月、メッカの太守であったハーシム家のフセイン・ブン・アリーは「アラブの反乱」を起こしアカバを占領、トランスヨルダン(ヨルダン川東岸地域)、シリアへ向かう拠点を確保してヒジャーズ王を宣言した。1918年、彼はダマスカスに入城、息子ファイサルを王として、400年にわたったオスマン帝国の支配を終わらせた。しかし、イギリス、フランスはサイクス‐ピコ秘密協定によってシリアとパレスチナを2分割し、ファイサルはフランス軍によってシリアを追われた。1921年、フセインの第2子アブダッラーがアンマンへ進撃したため、イギリスはパレスチナを二分し、トランスヨルダンをアブダッラーの領土とすることに同意した。そして1923年5月イギリスの委任統治下にトランスヨルダン首長国が成立した。この過程で「パレスチナ」という地名がヨルダン川西岸地域に限定されることになった。1925年ヒジャーズ王国の領土であった南部のマアンとアカバ地域を併合し、現在のヨルダンの基礎が成立。1946年3月イギリスは委任統治権を廃棄し、イギリス軍の駐留権を認めさせるとともに軍事上、財政上の援助を約束した。同年5月25日ヨルダン・ハーシム王国と改称、正式に独立国家となった。以後この日は独立記念日となっている。
 1948年のイスラエル建国に伴ってヨルダンは数多くの難問を抱え込むことになった。1950年ヨルダン川西岸を含むヨルダン全域に総選挙が行われ、その結果アブダッラー王の下にヨルダン川西岸地域を統合することが決定され、パレスチナのアラブ人約50万人が新たにヨルダン国民となった。しかし、国王の親英政策はパレスチナ人の反感を買い、1951年国王アブダッラーはエルサレムで暗殺された。王位は長男のタラールに継がれたが病身のためまもなく退位、1953年タラールの長男フセインが弱冠18歳で即位した。1955年には国連に加盟、ヨルダン川両岸住民の影響を受けてしだいに独自の路線をとるようになった。国内の反西欧勢力をなだめるため、30年間ヨルダン軍の育成に尽くしてきたイギリス人将校を罷免し、1957年にはイギリス・ヨルダン同盟条約を廃棄、以後財政援助はアメリカに肩代りされた。
 1967年に始まった第三次中東戦争はヨルダンに多大な損害をもたらし、ヨルダン川西岸地域と聖都エルサレムがイスラエルに占領され、国内には15万人の難民を抱えることになった。さらに、ヨルダン領内のパレスチナ・ゲリラとイスラエルの戦闘が激化し、ゲリラの勢力が増大した。このため1971年ゲリラ組織を国外に追放したが、これがアラブ諸国の反発を買うことになった。しかしフセイン国王は「ヨルダン・パレスチナ連合国家」構想を発表するとともに活発な訪問外交を展開してアラブ世界での孤立からの脱却を図り、1973年の第四次中東戦争を機として周辺諸国との関係が改善された。[塩尻和子]

政治

国王を国家元首とする立憲君主制であるが、国王の権限が強く事実上の親政である。憲法は1946年に制定されたが、1952年、1974年、1976年、1984年と四度修正された。1991年6月、憲法を補足し民主化を推進するために「国民憲章」が採択された。議会は上院、下院の二院制である。上院は国王の任命制で定数55名、任期は4年である。下院は直接選挙で選出され、定数は110名、任期は4年である。1967年4月の総選挙以来、下院選挙は実施されず、何度も任期を延長して機能してきたが、1988年に解散され、選挙制度も改められた。新制度によって1989年11月に下院総選挙が実施された。1992年8月には政党法が成立し、1993年11月に37年ぶりに複数政党制による総選挙が行われた。2001年には、1999年に即位したアブドラ国王Abdullah Bin Al-Hussein(1962― )が選挙法を改訂し、選挙区と議席配分が見直された。2003年6月の下院選挙では、新たに設けられた女性議席制度によって6人の女性議員が生まれた。
 行政権は国王に属し、国務大臣を通じて行使する。司法権は独立し、裁判官は国王が任命する。
 対外的にはイスラエルと長い国境線で接し、ヨルダン川西岸地域をイスラエルに占領され、国内には総人口の60~65%に達するパレスチナ人を抱える国として中東和平問題では重要な立場にある。1982年、イスラエルのレバノン進攻に伴うパレスチナ・ゲリラのレバノン追放という事態に際して、当時の国王フセインの「連合国家」構想はふたたび注目を集めた。フセインは同年9月に発表されたアメリカのレーガン提案を高く評価する姿勢をとり、これを基礎としてPLO(パレスチナ解放機構)との交渉を行ったが、1983年4月決裂した。1987年12月からはヨルダン川西岸地域でパレスチナ住民がイスラエルの占領地政策に抗議して一斉蜂起(ほうき)(インティファーダ)を始めた。これがヨルダン国内のパレスチナ人にも多大な影響を与えたため、1988年7月、ヨルダンは西岸分離政策を発表して、ヨルダン川西岸地域に対する政治的、法的な支配を放棄した。これによってPLOとの関係が改善され、PLO議長アラファトはヨルダン川西岸とガザを領域とするパレスチナ国家の樹立を宣言、ヨルダンはただちにこれを承認し、1989年はじめにはアンマンのPLO事務所のパレスチナ大使館への昇格を認めた。
 1990年8月のイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸危機では、イスラエルを支援するアメリカに対する国民の不満を背景にして、イラク寄りの姿勢を堅持し、多国籍軍の駐留には一貫して反対した。このイラク支持とみられる姿勢によって国際社会におけるヨルダンの立場は悪化し、経済的にも多大な損失を被ったが、国内的には、それによってかえって国民の信頼が増し、国王支持が強化された。フセイン国王は1994年7月にワシントンにおいてイスラエルの首相ラビンと「ワシントン宣言」に署名。また10月にはアラブ諸国のなかではエジプトに次いで2番目にイスラエルとの平和条約に署名し、11月には正式に国交が樹立された。
 ヨルダン、イスラエル、パレスチナの3者の間で政治的、経済的な友好関係を築く現実的な政策が進展しつつあったが、1995年11月にイスラエルの首相ラビンが暗殺され、強硬派のネタニヤフが政権を握ると、占領地におけるユダヤ人入植地の建設がいっそう推進されるようになり、イスラエルとパレスチナ暫定自治政府との摩擦も増加してきた。パレスチナの最終的な地位をめぐって「ヨルダン・パレスチナ連合」構想がイスラエル側から提案されるなど、フセイン国王の「連合国家」案が改めて注目されるようになり、ヨルダンは微妙な対応を迫られることになった。
 その後、イスラエルのヨルダン川西岸への入植再開により中東和平問題は難行するが、1998年10月、アメリカの大統領クリントンの仲介により、イスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府のアラファトがアメリカのメリーランド州ワイ・リバー・コンファレンス・センターでの交渉で合意(ワイ合意)を得て停滞から前進へと踏み出した。これには当時癌(がん)のためアメリカで療養中であったヨルダンのフセイン国王が病気をおして双方に歩みよりを説いたことが大きな推進力となった。
 1999年1月、アメリカでの癌の治療を終えて帰国したフセイン国王は、国王代理を務める弟のハッサン皇太子にかえて長男のアブドラを皇太子・国王代行に任命した。同年2月7日フセインは63歳で死去、同日アブドラ(37歳)が即位し、新皇太子に異母弟のハムザ(18歳)を指名した。新国王は前国王フセインの中東和平路線を引き継ぐものとみられるが、国内では前皇太子ハッサンの影響も無視できない。なおハムザは2004年に解任され、2009年にアブドラ国王の長男フセインが新皇太子となった。
 ヨルダンの軍事力は近隣諸国に比べて量的にも質的にも劣勢にある。従来、国防支出の半分は海外からの財政支援によっていたが、1990年8月に勃発(ぼっぱつ)した湾岸危機に際してイラク寄りの姿勢を取り続けたために、サウジアラビアをはじめとするアラブ産油国からの経済援助が停止され、ヨルダン軍の整備にとって大きな支障となった。また、2001年9月のアメリカ同時多発テロ、2003年のイラク戦争の影響は、ヨルダンの観光業や経済全般に大きな打撃を与えた。中東和平の行方とも相まって地政学上のヨルダンの立場は重要さを増している。2007年の国防予算は15億9000万ドル。兵役は志願制で、総兵力は10万0500で、そのほかに治安部隊、民兵組織がある。[塩尻和子]

経済・産業

1946年の独立以来、ヨルダンは数次の経済開発計画を打ち出し、国内的には首都圏の整備、幹線道路建設などかなりの成果をあげているが、これといった資源のない非産油国であるうえに、政治的要因に激しく影響される脆弱(ぜいじゃく)な体質をもっている。1967年の第三次中東戦争で肥沃(ひよく)なヨルダン川西岸地域を失うとともに、多数のパレスチナ難民を国内に抱えることになり、1970~1971年のパレスチナ・ゲリラとの内戦は国内経済を麻痺(まひ)状態に陥れた。
 また経済の対外依存度が高く、国家財政の多くを外国の援助とアラブ産油国への出稼ぎ労働者の送金に頼っている。しかし、近年アラブ産油国の経済不振に加えて、湾岸危機の際にイラク寄りとみなされたために産油国からの援助は停止され、出稼ぎ労働者の帰国が増加した。湾岸戦争後は国内総生産(GDP)実質成長率はマイナス5.6%まで落ち込んだが、その後は出稼ぎ労働者(ほとんどがパレスチナ系)の帰還によって貯蓄率が増加し、住宅建設需要が伸びたために建築ブームが起こり、1991年後半から経済は回復に向かった。しかし長期的構造的な問題は解決されておらず、国際収支の恒常的赤字、累積債務など今後の課題は多い。2007年のGDPは158億3000万ドル、実質成長率は6.0%に達している。国民の教育水準は比較的高く、医療、医薬品、肥料、コンピュータ・ソフトなどの部門ではアラブ圏では最高の技術水準を維持している。
 主要産業は農業であるが、農業人口は約10%しかなく、経済に占める割合は年ごとに減少している。1967年にヨルダン川西岸地域がイスラエルに占領されたのちは、ヨルダン渓谷を中心に灌漑(かんがい)が進められているが、小麦、大麦などの主食穀物は輸入依存度が高まっている。おもな農産物は小麦、大麦などの穀類、トマト、ナス、キュウリなどの野菜、オリーブ、柑橘(かんきつ)類、バナナなどである。鉱工業の分野では燐(りん)鉱石、カリ肥料、石油精製、セメント工業などがある。燐鉱石はヨルダン第一の輸出品であるが、国際価格の変動、生産工程のむだの多さなどによって生産量は安定していない。1982年後半より死海のカリ塩採取工場と、アカバの肥料工場(おもにリン酸アンモニウム)が生産を開始した。国内至る所に貴重な遺跡がみられるヨルダンでは、観光も重要な外貨獲得源であり、それに伴うサービス業部門の国民総生産(GNP)比率が高くなっている。
 貿易収支は第一次・第二次産業の比率が低いために恒常的な赤字を抱えている。しかし、観光収入や外国からの借款・援助などによる埋め合わせによって、経常収支の赤字は1994年に4億ドル、1995年には2億4100万ドルと徐々に減少してきた。対外債務残高は1994年は68億ドル、2008年には51億4000万ドルと高く、これまで債権国による支払い繰り延べや債務削減で対処してきた。しかし貿易収支の構造的な赤字と対外債務の累積という2点を除いては、規制緩和、国営企業の民営化などの自由化路線の推進、インフレ抑制の成果など、IMF(国際通貨基金)や世界銀行から評価される面もある。2000年4月には世界貿易機関(WTO)に加盟した。また、同年10月にはアメリカと自由貿易協定(FTA)を締結、2004年2月にはヨーロッパ連合(EU)とFTAを締結している。
 2008年の輸出額は78億ドル、輸入額は168億ドルと大幅な輸入超過である。おもな輸出品目は衣料品、野菜、燐鉱石、化学肥料、医薬品、おもな輸入品目は原油、機械類、自動車、電気製品である。[塩尻和子]

社会

ヨルダン人の大部分は人種的にはアラブ人であり、学者の間ではカナーン人の末裔(まつえい)とする説もある。古来この一帯に住み着いていた地中海系諸民族、ギリシア人、エジプト人、ペルシア人、ヨーロッパ人、アフリカ人などとの混血が顕著であり、純粋なアラブ人は東部砂漠の遊牧民にみられるのみである。19世紀にカフカス地方から移住したイスラム教徒のシルカシア人も居住するが、それぞれがよくヨルダン社会に適応している。公用語はアラビア語、日常はレバノン・シリア方言に近い口語が話される。都市部では英語が通じる。人口の半数以上がパレスチナ系であるが、約193万人(2008末)が難民として登録されている。そのうち約33万7600人が国内に10か所ある難民キャンプで生活を続け、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の援助を受けている。また、70万人近いといわれるイラク難民が流入している。
 1人当りの国民総所得(GNI)は2007年には2850ドルであるが、生活水準は中程度で安定している。教育意識は高く、その水準も着実に向上している。義務教育は6歳から10年間。宗教系の私立学校も多い。大学はヨルダン大学など10校の国立大学とペトラ大学、アンマン大学など11校の私立大学がある。宗教はスンニー派のイスラム教が支配的であり、総人口の90%以上を占めるが、ドルーズ派も少数だが存在する。キリスト教徒はギリシア正教、カトリックを中心に人口の約7%を占めるにすぎず、ほとんどが都市居住者である。医療は、王立メディカル・センター、ヨルダン大学病院などを中心に近代的設備が整備されており、医師も欧米の大学出身者が多く医療水準は高い。[塩尻和子]

国民性・文化

ヨルダンは現在のハーシム王国成立以前は遊牧民の地であった。預言者ムハンマドの家系の一つであるとはいえ、メッカの太守であったハーシム家がイギリスの対アラブ政策の一環として、いわば人工的にヨルダンの地に置かれた王国である。全国的に空前の建築ラッシュが続いており、主要都市には次々と新しい高層住宅、大型ホテル、幹線道路が整備され、街には欧米からの輸入品があふれ、若い女性の服装は流行の先端を競っている。各家庭も欧米なみに電化され、パレスチナ難民キャンプのバラックにもテレビアンテナが林立している。
 しかし表面上の西欧化の下には伝統的な遊牧民の精神が根強く生き続けている。誇り高く礼節を重んじる伝統は、狭い地域社会のなかに網の目のように張り巡らされている親族関係のなかに残されている。またイスラム教やキリスト教といった宗教の壁を超えた隣人互助の精神や厳格なまでの長幼の序がよく守られている。生活用式の急激な西欧化のなかで年ごとにイスラム法の遵守が奨励され、ラマダーン月の公然とした飲食は外国人といえども禁じられている。都市部ではキリスト教の宗教行事も盛んであり、イスラム教徒も互いにそれぞれの祭りに招き合う姿がみられる。
 国民は子弟の教育には熱心であり、欧米へ留学する者も多い。女性は都市の上流階級でも早婚傾向(17~18歳)にあるが、結婚後大学へ通う例が多く、女子学生数は急増している。内政の安定に伴って伝統工芸も復活し、パレスチナやベドウィンの手工芸が社会事業団体の後援で行われている。国内の至る所に散在する貴重な考古学的遺跡や遺物の保存や発掘、研究、博物館の整備などはまだ不十分である。[塩尻和子]

日本との関係

ヨルダンは中東諸国のなかでももっとも親日的な国である。2008年(平成20)では、日本はヨルダンから燐(りん)鉱石、カリ肥料などを輸入し、輸入額は1億9000万ドル、日本からの輸出は機械機器、輸送機械などで5億5000万ドルである。日本政府はヨルダンの政治的、経済的な安定が中東地域の平和にとって重要であり、またヨルダン政府も中東和平プロセスの当時国として多大な努力と貢献を行っていることなどの理由から、積極的な経済協力を推進してきた。日本からの援助は2008年度までの実質累積で有償資金協力が2044億2500万円、無償資金協力は590億9400万円に上り、政府開発援助(ODA)実績はアメリカ、ドイツとともに上位を占めている。1997年にはヨルダンとの初の合弁事業として、日本・ヨルダン肥料株式会社がアカバで操業を始め、ヨルダンの燐鉱石、カリなどを原料に化成肥料を製造し、その全量を日本へ輸送している。ヨルダンは民間投資による経済開発を目ざしており、税制上の優遇措置を適用して外国からの投資を募っているところであり、今後ますます日本との関係強化が期待されている。[塩尻和子]
『塩尻和子著『ヨルダン……野の花の国で』(1993・未来社) ▽吉川卓郎著『イスラーム政治と国民国家――エジプト・ヨルダンにおけるムスリム同胞団の戦略』(2007・ナカニシヤ出版)』

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