翻訳|Jordan
基本情報
正式名称=ヨルダン・ハーシム王国al-Mamlaka al-Urdunnīya al-Hāshimīya, Hashemite Kingdom of Jordan
面積=8万9342km2
人口(2010)=611万人
首都=アンマーン`Ammān(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=ヨルダン・ディーナールJordanian Dīnār
アジアの西端部地中海寄りに位置する小さな国で,北はシリア,北東はイラク,南と東はサウジアラビア,西はイスラエルと死海に囲まれている。アラビア語ではウルドゥンal-Urdunn。
歴史的には大シリア(歴史的シリア)の一部をなす。南に海への出口アカバ港があり,約17kmのサンゴ礁の海岸線がある。地勢は西部山地,ヨルダン渓谷,東部砂漠に大別され,国土の80%以上が砂漠または半砂漠である。西部山地には標高600~1000m級の二つの山脈がヨルダン川に平行に走っており,その谷間は世界で最も低い大地溝帯を形成し,海面下200~300mの低地,ヨルダン渓谷となる。首都アンマーンはヨルダン渓谷東部の山地にあり,標高約900~1000mの丘陵地帯を縫って市街が広がっている。この山地帯は内陸に向かって緩やかになり東部砂漠に続く。ヨルダン渓谷は亜熱帯性気候で夏は40℃の猛暑となる。アンマーン地方は温暖で平均雨量は約280mm,冬期には降雪をみることもある。砂漠地帯では雨はほとんど降らず,夏は熱風が吹くこともあり,少数の遊牧民が暮らしている。
ヨルダンの人口はそのうち約半数がヨルダン国籍のパレスティナ人である。人種的には大部分がアラブであるが,古来地中海系諸人種と混血している。19世紀にソ連のカフカス地方から移住して来たイスラム教徒のチェルケスもいる。宗教はスンナ派のイスラムが90%以上を占めるが,ドルーズ派もいる。キリスト教徒は各派合わせても7%にすぎず,ほとんどが都市居住者である。イラン系のバハーイー教徒も少数いる。
現在のヨルダン・ハーシム王国は第1次世界大戦によって誕生の契機を与えられた国の一つである(それ以前の歴史については〈シリア〉の項目を参照されたい)。1916年6月イスラムの聖都メッカのシャリーフであったハーシム家のフサインはオスマン帝国に対抗して〈アラブ反乱〉を起こし,アカバを占領,トランス・ヨルダン,シリアへ向かう足がかりを確保した。18年10月フサインの息子ファイサル1世に率いられたアラブ軍はイギリス軍とともにダマスクスに入城し,シリア(大シリア)は400年にわたるオスマン帝国の支配から解放された。しかしイギリス,フランスはサイクス=ピコ協定によってこの地を二分し,パレスティナはイギリスの,レバノン,シリアはフランスの委任統治領となった。そして前年の1917年に出された〈バルフォア宣言〉によりパレスティナにユダヤ人の郷土を建設する動きが活発となって,アラブの苦難とパレスティナの悲劇の歴史が開始されることになった。当時ヒジャーズ王を名のっていたフサインの第2子アブド・アッラーフ・ブン・フサインは21年3月アンマーンへ進撃した。同年3月末,イギリスはパレスティナを二分し,ヨルダン川東岸地域をアブド・アッラーフの領土とすることに同意し,23年5月15日イギリスの委任統治領トランス・ヨルダン首長国Emirate of Trans-Jordanが成立した。25年それまでヒジャーズ王国の領土であった南部のマアーンとアカバ地方を併合し,現在のヨルダンの礎となった。28年2月イギリス・ヨルダン同盟条約が締結され,30年にはイギリス軍将校グラブ・パシャの指揮の下に,ベドウィン部隊の砂漠監視軍(デザート・パトロール)が組織された。
46年3月イギリスは委任統治権を廃棄し,イギリスの駐留権を認めさせる代りに軍事上・財政上の援助をトランス・ヨルダンに与えることにした。この結果,同年5月25日トランス・ヨルダン首長国はトランス・ヨルダン王国となり,イギリスからの独立を宣言した。しかし48年のイスラエル建国とそれに伴う第1次中東戦争に伴ってヨルダンは35万人のパレスティナ難民を抱えこむなど数多くの難問に直面することになる。49年6月国名をヨルダン・ハーシム王国と改称,50年4月ヨルダン川西岸地域(東エルサレムを含む)を統合し,新たに約50万人のパレスティナ人がヨルダン国民となった。51年7月20日アブド・アッラーフ国王はエルサレムのアクサー・モスクの入口で暗殺され,長子タラールが即位した。まもなくタラール国王は病身のため退位,52年8月タラール国王の長子,弱冠17歳のフサインḤusayn b.Talāl(フセインとも。在位1952-99)が即位した。
ヨルダンは55年12月に国連に加盟,国内の反西欧勢力をなだめるために翌56年3月イギリス軍将校グラブ・パシャを解任,軍は完全に国王の指揮下に置かれることになった。57年イギリス・ヨルダン同盟条約が廃棄される。64年にはアラブ首脳会議に参加し,意欲的に外交活動を展開した。
しかし67年4月に始まった第3次中東戦争はヨルダンに多大な損害をもたらし,ヨルダン川西岸地域と聖都エルサレムをイスラエルに占領されてしまい,新たに15万人の難民を抱えこんだ。イスラエルとパレスティナ・ゲリラとの抗争が激化し,戦火は繰り返しヨルダン領内に及んだ。ゲリラの勢力も増大し,69年2月アラファートがPLO議長に就任して以来,これがヨルダン国内のもう一つの国家としての地位を占めるようになり,70年ヨルダン正規軍との戦闘が全土に広がり,政府は翌年7月ゲリラ組織をヨルダンから追放した(黒い九月事件)。このためヨルダンはアラブ世界の激しい反発を招き,孤立した。
フサイン国王は73年,ヨルダン川西岸地域を中心とするパレスティナ自治国をつくり,ヨルダンと連合させるという〈アラブ連合王国〉構想を発表,アラブ諸国からのさらに激しい反発を買い〈アラブの孤児〉となった。しかし73年10月の第4次中東戦争を契機としてアラブ各国と次々に国交を回復,PLOをパレスティナ人の唯一合法的な代表として承認し,中東和平への積極姿勢を示した。
78年キャンプ・デービッド合意を拒否,80年9月イラン・イラク戦争が起きるといち早くイラク支持を表明し,独自の積極路線を取った。このためシリアとの関係が悪化,その後もヨルダン川西岸地域ではイスラエルの入植政策が進行し,各地で住民とイスラエル当局との衝突が起きた。
87年12月からはヨルダン川西岸地域でパレスティナ住民がイスラエルの占領地政策に抗議して一斉蜂起(インティファーダ)を始め,ヨルダン国内のパレスティナ人にも大きな影響を与えたため,88年7月,フサイン国王は西岸分離政策を発表して,ヨルダン川西岸地域に対するヨルダンの主権放棄を宣言した。これによってパレスティナ国家の樹立が宣言され,アラファート議長を代表とするパレスティナ暫定自治政府が発足した。ヨルダンはただちにこれを承認し,89年初めにはアンマーンのPLO事務所のパレスティナ大使館への昇格を認めた。90年8月のイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸危機では,イスラエルを支援するアメリカに対する国民の不満を背景にして,イラク寄りの姿勢を堅持し,多国籍軍の駐留には一貫して反対した。このため国際社会におけるヨルダンの立場は悪化し,経済的にも多大な損失をこうむったが,国内的にはかえって国民の信頼が増し,国王支持が強化された。
1946年の独立以来,ヨルダンは数次の経済開発計画を打ち出し,国内的には首都圏の整備,幹線道路建設などかなりの成果をあげている。しかし,アラブの国としては珍しく石油資源が発見されていない非産油国である。ヨルダン経済の特徴は,(1)アラブ・イスラエル紛争のアラブ側の最前線国の一つであり,政治的要因に激しく影響される体質をもっていること,(2)そのため国家財政の外国依存度がきわめて高いこと,である。そのため,近年のアラブ産油国の経済不振に加えて,湾岸危機の際にイラク寄りの姿勢を表明したために産油国からの援助が停止され,出稼労働者の帰国が増加した。湾岸戦争後はGDP実質成長率はマイナス5.6%まで落ち込んだが,その後は出稼労働者(ほとんどがパレスティナ系)の帰還によって貯蓄率が増加し,住宅建設需要が伸びたために建築ブームが起こり,91年後半から経済は回復に向かった。長期的構造的な問題は解決されておらず,国際収支の恒常的赤字,累積債務など今後の課題は多いものの,国民の教育水準は比較的高く,医療,医薬品,肥料,コンピューターソフトなどの部門ではアラブ圏では最高の技術水準を維持している。
ヨルダンのおもな産業はリン,カリなどの鉱業と化学肥料生産,近年盛んになった医薬品製造業だけである。貿易収支は第1次・第2次産業の比率が低いために恒常的な赤字をかかえており,95年には19億2500万ドルの赤字が報告されている。しかし,観光収入や外国からの借款・援助などによる埋合せによって,経常収支の赤字は1994年に4億ドル,95年には2億4100万ドルと徐々に減少している。対外債務残高も1994年は68億ドル,95年は推定で60億ドルと高く,これまで債権国による支払い繰延べや債務削減で対処してきた。しかし貿易収支の構造的な赤字と対外債務の累積という2点を除いては,規制緩和,国営企業の民営化などの自由化路線の推進,インフレ抑制の成果など,IMF・世界銀行から評価される面もある(数値はヨルダン中央銀行統計月報および1996年度ODA白書)。
ヨルダンは東西文明の十字路といわれる地域にありながら,現在のハーシム王国が成立するまで単一の政体を採ったことがなかった。したがって悠久の歴史の中にあって独自の伝統をはぐくんできた遊牧民の精神が社会のいたるところに生きている。ヨルダンの社会は部族中心の血縁社会であり,誇り高く,礼節を重んじ,宗教や宗派の壁を超えた隣人互助の精神が生きている。1952年弱冠17歳で即位したフサイン国王は預言者ムハンマドから数えて39代目の末裔であり,複雑な中東の政治地図の中で個性的かつ卓越した政治力を発揮し,ヨルダンは現在,中東では最も治安のよい国の一つとなっている。
イスラム国ではあるが一般的には開放的な国柄で,日常の飲酒,喫煙は自由である。若い女性の服装は流行の先端をいっているが,過度のミニスカートなどは見られない。近年,イスラム復興主義運動の高まりとともに,しだいに伝統的な服装が勧められるようになり,肌を露出するものは避けられる傾向にある。街には欧米からの輸入品があふれ,白い石灰岩の石造りの住居は先進国なみに電化され,パレスティナ難民キャンプのバラックにもテレビのアンテナが林立する。ヨルダン王室も国王,王妃,王弟ハサン皇太子夫妻をはじめ王族がそろって社会事業に参加し,国民の親近感を高めている。
ヨルダン人は子弟の教育に熱心で,女子大学生数も上昇し,現在ヨルダン大学(1962創設)では1/3以上が女子学生である。また5万人近い学生が海外留学中である。1976年開設の国内第2のヤルムーク大学は日本の丹下健三の設計で超近代的なキャンパスを持つ。国内には貴重な歴史的遺跡が散在し,その多くは未調査のまま眠っている。
→シリア[歴史]
執筆者:塩尻 和子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(大迫秀樹 フリー編集者/2015年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
アラビア半島北西部の王国。首都はアンマン。キャラヴァン・ルートにあたる地域で古来商業的に栄えたが,オスマン帝国支配下では明確な政治的境界はなかった。第一次世界大戦後この地域を支配したイギリスは,1923年ヨルダン川を境に二分し,東部をトランスヨルダンとした。46年に独立し,49年国名をヨルダン・ハーシム王国とした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...