三豊(市)(読み)みとよ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三豊(市)」の意味・わかりやすい解説

三豊(市)
みとよ

香川県西部に位置する市。2006年(平成18)、三豊郡高瀬町(たかせちょう)、山本町(やまもとちょう)、三野町(みのちょう)、豊中町(とよなかちょう)、詫間町(たくまちょう)、仁尾町(におちょう)、財田町(さいたちょう)が合併して市制施行、三豊市となる。これにより三豊郡は消滅した。南西は観音寺(かんおんじ)市、東は大麻(おおさ)山や琴平(ことひら)山(象頭(ぞうず)山)などを境に善通寺(ぜんつうじ)市、仲多度(なかたど)郡多度津(たどつ)町、琴平町、まんのう町、南は讃岐山脈で徳島県に接する。北西部は瀬戸内海に突き出た三崎半島で、その南西側は燧灘(ひうちなだ)、北側は備讃瀬戸に面し、詫間湾の北方に粟(あわ)島・志々(しし)島が浮かぶ。市域の北東部を高瀬川が北西に、南部を財田川が西に流れ、中央部に三豊平野が広がる。東部から南部は山地、丘陵地で、山麓部には溜池が多い。西寄りをJR予讃(よさん)線、南東部をJR土讃線が通り、国道は11号、32号、377号が通じる。高松自動車道の三豊鳥坂(とっさか)、さぬき豊中の両インターチェンジがある。瀬戸内海国立公園の指定域。

 三崎半島に県下最大級の縄文貝塚である南草木遺跡(みなみくさきいせき)、仁尾港沖の小蔦(こつた)島に小蔦島貝塚、詫間町大浜(おおはま)に弥生時代中期の高地性集落紫雲出山遺跡(しうんでやまいせき)(いずれも県指定史跡)などがある。仁尾湊は古くは仁尾浦(におのうら)といい、室町期には多数の船が存在したようで、1441年(嘉吉1)嘉吉の乱の際には兵船が徴発された。1445年(文安2)の『兵庫北関入船納帳』では「丹穂」とみえ、塩・赤米などの輸送船を出している。江戸時代には西讃の物資集積港として栄え、「千石船みたけりゃ仁尾に行け」といわれたという。近世後期は塩田の開拓に伴い、塩の輸送も盛んとなった。一帯は古くから水不足に悩まされ、江戸時代前期には西島八兵衛(1596―1680/1682)により多数の溜池が築造されている。1750年(寛延3)には現市域の三野郡笠岡(かさおか)村の大西権兵衛(1703―1750)に率いられた六万余の農民が蜂起する、讃岐国最大の百姓一揆が起こった。なお、市域には生里(なまり)、箱(はこ)、紫雲出山など、浦島太郎伝説に由来するという地名が多くある。

 詫間湾、三野津湾には良港が多く、漁業のほか輸入木材が水揚げされ、また湾岸に造船、化学工場が立地する。ほかに鋳物工業、冷凍食品工業や製紙工業も発達。平野部は水田地帯であったが、最近ではブロッコリーなどの野菜や果樹、キク、マーガレットなどの花卉(かき)栽培などが増加。とくに種タマネギ栽培は知られる。南部、東部の丘陵地ではブドウ、ミカンなどの果樹、高瀬地区では茶などが栽培され、「フルーツ王国みとよ」のキャッチ・フレーズで農産品の販売促進に力を入れている。二ノ宮窯跡(国指定史跡)、四国八十八か所第67番札所の大興(だいこう)寺、第70番札所本山(もとやま)寺、第71番札所弥谷(いやだに)寺がある。本山寺の本堂(観音堂)は国宝、仁王門は国指定重要文化財。俗に高瀬大坊(たかせだいぼう)とよばれる本門寺の秋の大坊市は名物行事である。生里の弓射行事(生里のモモテ)は国指定重要無形民俗文化財。面積222.70平方キロメートル、人口6万1857(2020)。

[編集部]


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