中央アジア史(読み)ちゅうおうあじあし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「中央アジア史」の意味・わかりやすい解説

中央アジア史
ちゅうおうあじあし

地域と環境

アジア大陸の中央部、天山(てんざん)山脈とシルダリヤを結ぶ線の以南の、草原、オアシス、山岳、渓谷、砂漠の交錯する乾燥性気候の地域で、南はイラン、チベット高原、東は中国に接する広大な地域を中央アジアとよぶ。中心部にパミール高原があり、これを中心として東西の二大部分に分かれる。東はパミール、天山山脈、崑崙(こんろん)山脈で囲まれるタリム盆地で、その中央空間はタクリマカン(タクラマカン)砂漠をなし、砂漠の北辺をタリム川が東流してロプノールに注ぐ。歴史上は西域(せいいき)、東トルキスタンとよばれる。パミール高原の西方は西トルキスタンとよばれ、パミールを河源としてアラル海に注ぐシルダリヤ、アムダリヤの両河川間のキジルクム、カラクムの砂漠地帯をなす。アムダリヤ支流のザラフシャン(ゼラフシャン)渓谷、シルダリヤ上流のナリン渓谷、アムダリヤ下流のホラズム三角州では農耕が営まれる。中央アジアの気候は乾燥性気候で、夏は酷暑、冬は厳寒であって、年降水量はきわめて少ない。標高3000~7000メートル級の天山、パミール、崑崙山脈の雪解け水と地下水の利用によって、これらの山麓(さんろく)や渓谷、三角州地区で人工灌漑(かんがい)によるオアシス農耕が発展した。このオアシス農耕は紀元前数世紀から成立しており、オアシス集落からしだいに古代都市国家群が発生した(オアシス都市国家)。また、砂漠周辺の草原、オアシス地区内、高山の中腹、渓谷では、遊牧民によるヒツジ、ヤギなどの牧畜が行われるが、中央アジア史の担い手はオアシス農耕民であった。オアシス住民は狭小な環境による生産不足を解決するため、生計を商業に依存するようになり、中継貿易に従事して経済生活の向上を図り、とくに遊牧民と連係して遠隔地商業による土産や、遠国の珍奇な物産の交易に従事し、これに伴って文明、文化の交流にも寄与した。天山山脈の北方草原にはトルコ・モンゴル系の遊牧民国家がしばしば勃興(ぼっこう)し、中央アジアを征服したり、その住民と協調したりして、中央アジアを経由する東西交渉の発展に寄与した。以上が中央アジア史の基本的構造である。

[佐口 透]

歴史

イラン系・仏教系文化時代

西トルキスタンはイランのアケメネス朝ペルシア(前558~前330)の時代から文献上に知られ、シルダリヤ流域にはスキタイ系のサカ人が遊牧し、東方イラン系住民がアムダリヤ下流域のホラズムや、中流域のソグディアナ、上流南岸のバクトリア地方でオアシス社会を営んでいた。ついで、アケメネス朝を倒したアレクサンドロス大王は西トルキスタンに遠征し、その結果、ギリシア文化が移植され、バクトリア王国が成立した(前3世紀)。やがて、北方からスキタイ系のトハラ人が南下してバクトリアを占領し、この地のギリシア人は追われて北インドに入り、後のガンダーラ仏像芸術をおこした。他方、秦(しん)の始皇帝が中国を統一(前221)したころ、北アジア草原で遊牧国家を建てた匈奴(きょうど)は天山方面に進出し、タリム盆地にいた月氏(げっし)民族を攻め、月氏(大月氏)はソグディアナ地方へ移動し、トハラ人の建てた大夏国(バクトリア)を征服した。秦を滅ぼして中国を統一した漢の第7代皇帝武帝は匈奴に対抗するため、張騫(ちょうけん)を派遣して西方を探検視察させ、ついでフェルガナ盆地の大宛(だいえん)国に遠征した(前104~前102)。その結果、タリム盆地の商業を独占しようとして、匈奴としばしば交戦し、西域都護を置いて防衛した。タリム盆地は西域とよばれ、東からカラシャール、クチャ、ホータン、ヤルカンドカシュガルなどのオアシス都市が中国人に知られ、ロプノール地区の楼蘭(ろうらん)は、漢の軍事、商業の前進基地となり、甘粛(かんしゅく)西境の敦煌(とんこう)と絹貿易路(シルク・ロード)が結ばれた。この貿易路はソグディアナ、バクトリア、イランを結び、さらに地中海東岸、ローマ帝国へ至り、また、アフガニスタン、北インド、シルダリヤ以北の草原地帯とも交通路を開いた。トハラ人はヒンドゥー・クシ山脈の周辺にクシャン朝を建て、その君主カニシカは仏教を保護し(2世紀後半)、インドからの仏教北伝の基地となった。

 中国では三国、南北朝の国内分裂期に政治力は西域から後退したが、交通、貿易関係は続いた。6世紀に北アジアに勃興(ぼっこう)した突厥(とっけつ)の帝国はそうそうに東西に分裂。天山山中に拠(よ)った西突厥は中央アジア諸国を威圧し、ビザンティン(東ローマ)帝国とも手を結んで東西貿易の利益をねらった。突厥の勃興よりやや遅れて、中国を統一した唐は西域に進出し、西突厥を滅ぼし、ササン朝ペルシアとも接触し、東西交通路を確保しようとした。7世紀にはアラブのイスラム勢力はササン朝を滅ぼし、8世紀に西トルキスタンを支配し、751年にイスラム軍はタラス河畔で唐軍を敗退させた(タラス川の戦い)。唐の西域経営は吐蕃(とばん)(チベット)の北進によって乱されることが多く、ウイグルの勢力が天山地方へ浸透してから、唐とタリム盆地との直接交通は断たれがちで、9世紀末には唐勢力は西域より後退し、タリム盆地ではウイグルがビシュバリク(北庭)、トゥルファン(高昌(こうしょう))を中心として、クチャ、カシュガル、ホータンへ勢力を伸ばした。

[佐口 透]

トルコ・イスラム時代

イスラム勢力が西トルキスタンを支配し、唐が西域から後退し始めたころ、北アジアのトルコ諸民族がウイグル帝国の崩壊と相前後して中央アジアへ移動してきた。シルダリヤ上流域からカシュガルへかけて建国したトルコ系のカラ・ハン朝(10~11世紀)はイラン系のサーマーン朝を倒し、西トルキスタン各地に進出し、その民族集団はトルコ人として初めてイスラム化した。11世紀から12世紀にかけてカラ・ハン朝にかわってトルコ系のセルジューク朝が出て、西トルキスタンをほぼ支配し、イランにまたがる帝国を建て、西トルキスタンはトルコ・イスラム化した。東トルキスタンでは、天山北麓(ほくろく)のビシュバリクと南麓のトゥルファンを中心に根拠を置いたウイグル人は、遊牧民生活より農耕民に転じ、隊商貿易に活躍し、王国を営んだので、在来のイラン系の住民はしだいに圧倒され、トルコ人に同化され、タリム盆地の大半はトルコ化していった。しかし、高昌のウイグル人は仏教を信奉し、仏教壁画芸術を発展させ、ウイグル語訳の仏典も刊行された。10世紀に東モンゴリアに興った契丹(きったん)は中国北辺へ進出して遼(りょう)朝を建てた。ウイグル王国は遼と通交したが、独立の王国として東西交通上の重要な地位を維持した。1125年に遼が滅んだのち、その王族の耶律大石(やりつたいせき)は民族集団を率いて天山北方草原を西方へ移動し、シルダリヤ上流域にカラ・キタイ(西遼(せいりょう))王国を建て、セルジューク朝、ホラズム朝と争った。カラ・キタイはイスラム地帯のなかで中国的、仏教的文化を保持し、13世紀初頭にかけて東トルキスタンの政治に干渉し、ウイグル王国はカラ・キタイに貢納を支払った。

 13世紀初頭になると、北アジアでモンゴルが勃興し、その首長テムジン(チンギス・ハン)に破れたナイマン王国のクチュルクという王がカラ・キタイの王位を奪ったが、このカラ・キタイもモンゴルに滅ぼされた(1218)。チンギス・ハンは1209年にウイグル王国を服属させ、ついでタリム盆地を支配下に収め、1219年、西トルキスタンに侵入してホラズム王国を滅ぼし、サマルカンド、ブハラ、ヘラート諸都市を攻略した。その結果、中央アジアはチンギス・ハンの第2子チャガタイの統治下に置かれ、チャガタイ・ハン国が成立した。しかし、ウイグル地方を含む東西トルキスタンの定住地帯はモンゴルの大ハンの代官(総督、徴税官)によって管理され、チャガタイ・ハン家の支配は天山山中のイリ渓谷から西トルキスタンのザラフシャン川流域に至る草原地帯に限定された。13、14世紀、モンゴル帝国の支配下に置かれた中央アジアの社会生活には大きな変動はなく、東西交通も開かれていた。ただし、モンゴル帝室内の紛争の余波として起こったハイドゥ・ハンと元(げん)朝フビライ・ハンとの40年間にわたる戦争状態によって、トゥルファン盆地のウイグル王領は戦火にさらされ、13世紀末にはウイグル王家は甘粛地方へ移住した。14世紀初頭からチャガタイ・ハン家も分裂し、一部のハン、王侯は西トルキスタンの都市地区に定住し、トルコ・イスラム化の道をたどり、アミール(首領)の称号をもつモンゴル豪族たちが実権を握ったので、チャガタイ・ハン家の西部王家は衰微の一途をたどった。他方、天山のイリ渓谷を本拠地とした東部ハン家はチンギス・ハンの伝統と遊牧生活を守り、しだいに西部ハン家と対立し、独立の勢力をなすに至った。

 このようにチャガタイ・ハン国が分裂している間に、西トルキスタンのモンゴル豪族出身のティームールが武力で権力を握り、チャガタイ・ハン家にかわって、1370年にサマルカンドを都として王位についた。彼はイランを含む西アジア一帯を平定し、天山に拠(よ)る東チャガタイ・ハン家にも軍隊を派遣して平定しようとしたが、結局、タリム盆地への進出はできなかった。ティームールの死後、帝権は微弱になったが、ティームールの子孫はその後、約1世紀にわたってティームール帝国を統治し、この間、サマルカンドには壮麗なイスラム寺院(モスク)が建てられ、文芸、学術、商工業も盛んとなって、ティームール朝文化が栄えた。

 他方、タリム盆地では、天山西部とカシュガル地方を中心に東チャガタイ・ハン家とその民族集団はモグール国家(モグーリスタン国家)として発展し、ティームール朝やオイラート遊牧民と対立しつつ、しだいにトルコ・イスラム化し、その勢力は東方のトゥルファン盆地へ拡大した。このように、15、16世紀の中央アジアは、政治的には東西に分立しつつ、イスラム社会として発展していった。

[佐口 透]

近世

モンゴル帝国の北西部を支配していたキプチャク・ハン国が15世紀中に解体する過程にあって、そのトルコ化したモンゴルは新たにウズベクとよばれ、16世紀初め、キプチャク草原からシルダリヤを渡って南下し、ティームール朝を攻めて滅ぼし(1500)、ウズベク人のシャイバーニーShaybānī Khān(1451―1510)がサマルカンドを都として国家(シャイバーニー朝)を建て、その一族は以降、西トルキスタンの支配者となった。ウズベク人の一部はその間に農耕化するものや都市民となるものもあった。ウズベク人から分離した別の集団はカザフ人とよばれ、いまのカザフ草原で遊牧生活を送り、シルダリヤの北岸へも侵入した。17世紀の初め、シャイバーニー朝が滅び、これにかわってウズベク人の王家がブハラ・ハン国を建て、別の一派はヒバ・ハン国を建て、18世紀初めにフェルガナ地方にコーカンド・ハン国ができた。これが19世紀末まで続いたウズベク人の中央アジア三ハン国である。これらのハン国は、イスラム教シーア派に属するイランのサファビー朝と対立し、また、西シベリアから南下するロシアとも接触した。国際商業も発展し、ウズベク人のイスラム国家として発展したが、文化自体は停滞的であった。他方、16世紀以降のタリム盆地ではモグール国家の後裔(こうえい)は定住化してカシュガル・ハン国を建て、一族は互いに権力闘争に没頭した。また、イスラムの宗教貴族ホージャ家が権威をもって政治に関与し、北方からはオイラート、ジュンガル遊牧民勢力がタリム盆地に侵入するようになった。

 18世紀の中ごろ、中国の清(しん)朝は、北アジア、中央アジアにおいて勢威を振るっていたジュンガル王国の内紛と弱体化に乗じてこれを討ち、1758年に完全に滅ぼし、さらにタリム盆地を平定してトルコ系定住民(いまの維吾爾(ウイグル))を服属させ(1760)、この地方を新疆(しんきょう)とよんで清朝の藩部とした。他方、帝政ロシアも1860~1870年代に西トルキスタンの三ハン国を征服して属領ないし植民地とした。このようにして中央アジアは東西二つの専制帝国の統治下に置かれた。1862年に甘粛から新疆にかけてヤクブ・ベクとイスラム教徒の反乱が起こり、清朝は1877年にこれを平定し、この地方を新疆省として中国領に編入した(1882)。

 19世紀末にかけて、ロシア本国から多数のロシア人(とくに農民)が、カザフ草原とトルキスタンに移住・植民し、西トルキスタンの住民らとともに木綿業、織物業に従事し、土地民の生活向上に寄与した。これにより、ロシアの言語、文化、学校教育制度もこの地域に伝播(でんぱ)していった。また、サマルカンド、ブハラなどのイスラム文化はロシアからとくに迫害されることなく、この地域のイスラム制度は現在まで存続している。

 19世紀末に、中央アジア住民によるロシアに対する反乱が起こった(1894)。また、ロシア本国の革命運動家(学生や労働者)が中央アジアに追放されたり、逃亡してきたりした。彼らが1905~1906年にロシアに革命運動を広めたため、1917年3月(ロシア暦2月)に勃発(ぼっぱつ)した二月革命によって帝政ロシアは滅びた。この革命は中央アジアに波及し、同年の十月革命によりソビエト権力が樹立され、レーニンがソビエト政権を成立させたのに伴い、レーニンを指導者としたボリシェビキはタシケントにおいても政治権力を握った。その民族政策によってソビエト領中央アジアにウズベク、タジク、キルギス、トルクメン、カザフの各共和国が成立し、ソビエト連邦構成国となり、しだいにソビエト・ロシア化と近代化が進んだ。清朝の新疆省は、辛亥(しんがい)革命ののち中華民国の一省となったが、中央政府からの独立性が続いた。しかし、1949年に中華人民共和国が成立したのち、新疆省は新疆ウイグル自治区となり(1955)、ウルムチ市が省都となった。ウイグル(人口約600万人)を筆頭にカザフ、漢族、回族などの少数民族がいる。1960~1970年代には中ソ対立に端を発する新疆・ソ連国境紛争があり、ウイグルの動揺がみられた。国境紛争は黒竜江と中央アジア・新疆ウイグル自治区の中ソ国境に拡大したが、1969年両国首相の国境会談が行われ、その後1996年国境地帯での武力不行使などを定めた協定に調印した。

[佐口 透]

現代

1991年ソ連共産党が崩壊し、ついでソ連邦の解体が進み、在来の各民族共和国はソ連邦にかわって設けられた独立国家共同体(CIS)に加入することになった。このとき、中央アジアのソ連邦構成共和国はそれぞれカザフスタン(首都アスタナ)、ウズベキスタン(同タシケント)、トルクメニスタン(同アシガバート)、キルギス(同ビシュケク)、タジキスタン(同ドゥシャンベ)の五つの独立国となった。各共和国は、共産党独裁の政体を廃止し、複数政党を組織して大統領制をしいた。対外的には初めて欧米諸国との友好関係の発展を図り、とくに貿易関係の開拓を図った。タジキスタンを除くほかの4共和国は、主としてトルコ系民族で、互いに連帯感をもち、またトルコ共和国のトルコ人と親近感をもっている。一方、タジキスタンはイラン系民族でほかの4共和国とはかなり異質的であるが、これら5共和国はすでにイスラム教徒として共通性をもっており、西アジアと並んでアジアのイスラム地帯となっている。

 ソ連の解体ののち、各共和国は政治的には独立を維持したが、経済的には苦しい状況にあり、ロシア共和国に依存せざるをえなかった。5共和国は独立国ではあるが、旧ソ連共産党の遺制から完全には脱却していない。また、中央アジア諸国間、とくにタジキスタン系統のイスラム原理主義者や武装集団が各国の政情を攪乱(かくらん)している例が少なくない。

[佐口 透]

『佐口透著『ロシアとアジア草原』(1966・吉川弘文館)』『護雅夫・佐口透・榎一雄他編『東西文明の交流1~5』(1970・平凡社)』『護雅夫著『中央アジア史――シルクロードに興亡した国々』(1981・旺文社)』『江上波夫編『世界各国史16・中央アジア史』(1987・山川出版社)』『『ロシア連邦アトラス』(1997・日ソ)』『梅村坦著『内陸アジア史の展開』(1997・山川出版社)』『宮田律著『中央アジア資源戦略――石油・天然ガスをめぐる「地経学」』(1999・時事通信社)』『間野英二著『中央アジアの歴史』(講談社現代新書)』『小川和男著『ロシア経済事情』(岩波新書)』


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