乳腺から発生する,いわゆる乳房の癌(ちなみに癌のことを英語でcancer,ドイツ語でKrebsといい,いずれも動物のカニを意味する語句を用いるのは,癌に冒された乳房の外観が,カニがへばりついているように見えることに由来するという)。乳癌はヒトだけでなく,哺乳類にみられる。ヒトの乳癌は白人に多く,黄色人,黒人には少ない。ちなみに,1981年に癌で死亡した女性のうち,乳癌の占める位置はアメリカでは1位であったが,日本では胃癌,肺癌,子宮癌,肝癌に次いで5位であった。しかし日本でも,最近乳癌にかかる割合は増加してきている(97年には子宮癌を抜いて第4位になった)。これは,食事,喫煙率,環境状況が欧米並みになってきていること,社会に進出する女性が増加して結婚年齢が上がってきていること,1人当りの出産数が少なくなっていること,などに起因するといわれている。乳癌が発生しやすいとされるのは,都市部に住んでいる勤めをもった独身または出産したことのない女性で,初潮が12歳以下であったり,閉経が50歳以上である場合である。とくに家系に乳癌の人がいたり,以前に子宮体癌や他側の乳癌であった女性は乳癌になりやすいといわれている。
好発年齢は40歳代から60歳代であるが,20歳代にも発生する。初期の症状は,乳房の無痛性のしこりで,多くは固く,まわりとの境界が明らかでない。なかにはしこりが柔らかかったり,まったく触れずにX線検査で初めて見つかるものや,乳首から分泌物があるだけのものもあり,特殊な形として乳首のただれるパジェット病(後述)などもある。少し時期が進むと,しこりの近くの皮膚や乳首がひきつれて陥凹したり,腋窩(えきか)のリンパ節がはれてきたり,皮膚の盛り上がり,発赤,むくみ,疼痛などが出現したりする。さらに進むと,皮膚が破れて潰瘍となり,鎖骨の上方のリンパ節がはれ,腕のむくみ,骨,肺,肝臓などへの転移が起こってくる。
乳癌のしこりと紛らわしい良性の疾患に,乳腺炎,乳腺繊維腺腫,乳腺症などがある。これらは乳房のはる感じや疼痛を伴っていることが多い。最終的に癌と鑑別するには,X線検査や超音波診断によらなければならない。また,乳首から血性の分泌物が出ても癌とは限らず,良性の乳頭腫であることもあり,この場合は分泌物の細胞診が必要となる。
治療法はおもに手術によって癌を切除するもので,ごく早い時期であれば乳腺だけを切除すればよいが,大部分のものは,乳房の皮膚,脂肪組織,内側にある胸筋,腋窩のリンパ節をいっしょに切除しなければならない。手術以外の治療法としては,放射線療法,制癌剤,ホルモン剤,免疫賦活剤の投与などがあるが,手術と併用されることが多い。
どの癌についてもいえることであるが,乳癌も早期発見・早期治療により完全に治癒させることが可能である。とくに乳癌の多くは進行が緩やかで,初発症状が発見しやすい体表のしこりであるので,早期に診断がつきやすい。現在乳癌の自己検診法が盛んに推奨されている。これは,検査する側の肩の下に薄い布団を当てがい,手掌を頭の下に置いて胸筋の緊張が解ける体位とし,反対側の手の人差指,中指,薬指の3本の指をそろえて乳房の外側から内側へすべらせて,しこりの有無をみる方法である。この自己検診法は,毎月月経が終わった直後に行うのがよい。
特殊な形の乳癌の一つにパジェット病(ページェット病)Paget's diseaseがある。これは乳頭部の乳管から起こる癌で,乳頭に境界鮮明な湿疹様の変化をきたすが,湿疹の治療には反応しない。なかにはしこりを伴うものもあり,確定診断には一部を切除して病理学的に検査する必要がある。他の乳癌よりも予後がよい。
特殊な形の乳癌として,まれではあるが男性乳癌もある。女性乳癌100例に対して1例程度の割合で存在するといわれ,症状や治療法は女性の場合とまったく同じである。しかし男性は女性に比べて脂肪組織がないため,早期に胸筋や血管内に癌が浸潤しやすく,発見も遅れがちなので,予後不良であることが多い。
ビットナーJ.J.Bittnerは1936年,マウスの母乳中に乳癌を起こす因子として乳因子を発見した。これが乳癌ウイルスで,RNAウイルスのレトロウイルス科に属するものであることが,後に明らかになった。マウスやラットでは,この乳癌ウイルスが母乳を通じて次代に伝達され,これに遺伝因子,ホルモンの作用などが関連して,乳癌が発生することが証明されている。ただし,ヒトの乳癌発生のメカニズムについては,ウイルスの関与も含めて,明らかではない。
執筆者:小野 美貴子
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… 癌は,ギリシア語でkarkinos,英語でcancer,ドイツ語でKrebsといい,いずれもカニが原義である。乳癌は頻度が多く,また外からよく見える。癌が大きく増殖し,リンパ管を通じて周囲に広がり,また血管が怒張しているありさまが,あたかもカニがへばりついたように見えたため,この言葉が用いられるようになったといわれる。…
…まれには,どこに生じたか原発巣不明の癌が骨に転移を生じ,骨の症状のみが出現し,原発性の骨腫瘍と間違われることもある。 骨に転移を生じやすい癌の筆頭は乳癌で,まれには治療後10年を経過して骨に転移を生じることもある。癌の骨転移の症状は転移部位の疼痛が主であるが,そのほか腫張,病的骨折,脊椎転移による脊髄麻痺などがある。…
※「乳癌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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