元田永孚(読み)モトダナガザネ

デジタル大辞泉 「元田永孚」の意味・読み・例文・類語

もとだ‐ながざね【元田永孚】

[1818~1891]漢学者肥後の人。号、東野。明治維新後、宮内省に出仕して明治天皇侍講を務め、枢密顧問官となり、教育勅語の草案作成に尽力した。著「幼学綱要」など。

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精選版 日本国語大辞典 「元田永孚」の意味・読み・例文・類語

もとだ‐ながざね【元田永孚】

  1. 漢学者、教育家。熊本の人。字は子中。号は東野。別号東皐。明治天皇の侍講となり、宮中顧問官、枢密顧問官などを歴任儒教主義の立場から「教育勅語」の草案の起草にも参画。「幼学綱要」を編纂。文政元~明治二四年(一八一八‐九一

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朝日日本歴史人物事典 「元田永孚」の解説

元田永孚

没年:明治24.1.22(1891)
生年:文政1.10.1(1818.10.30)
幕末・明治前期の儒学者,明治天皇の側近。名は永孚,字は子中,初め伝之丞のち八右衛門と称す。号は東野また茶陽,東皐,猿岳樵翁。熊本藩士元田三左衛門の長男に生まれる。母は津川氏。文政11(1828)年より藩校時習館に入り,天保8(1837)年はじめて寮長横井小楠と相識り学問の指導を受ける。14年長岡監物,横井小楠,下津休也,荻昌国と純粋朱子学(=実学)を志し『近思録』会読を始めた。以後永孚は小楠の強い思想的影響を受け,自らはその祖述者を以て任じていた。安政5(1858)年家督を継ぐ。文久2(1862)年末京都留守居となり諸藩士と応接,また以後も藩にあって幕末維新期の藩政に尽力した。明治3(1870)年5月細川護久が藩知事となり,実学党による藩政改革で侍読となる。 翌4年藩命で上京。6月宮内省出任,侍読(のち侍講)となり明治天皇に『論語』を進講。以後儒教的徳治主義の理想による天皇の君徳輔導と天皇親政の実行をめざし,三条実美や岩倉具視に建言し,また士族反乱や自由民権運動に対し,人心収攬の急務を論じ,10年宮中に設置された侍補に就任,11年大久保利通暗殺を機に,佐々木高行,吉井友実,土方久元らと薩長参議政治批判の立場から「天皇親政」運動を展開。12年侍補廃止後も侍講として宮中に留まり,明治14年政変には谷干城らの中正党を支持するなどした。また12年「教学大旨」を起草し,維新後の教育のあり方をめぐり伊藤博文論争,13年『国憲大綱』において国教主義的国憲論の立場をとった。その国教主義は憲法制定からは排除されたが,のちに23年教育勅語の起草に井上毅と協力し,帝国憲法と教育勅語による体制構築に結実し得たと評せよう。対外問題では特に条約改正問題に関心を持ち,内地雑居や外国人裁判官任用に反対し,20,22年の井上,大隈両外相の改正に強く反対した。その間19年宮中顧問官,21年枢密顧問官となり,一貫して天皇の信任のもと側近に侍した。24年1月風邪で病勢つのり,特旨により男爵を授けられた。<著作>「還暦之記」「古稀之記」(『元田永孚文書』1巻)<参考文献>海後宗臣『元田永孚』,沼田哲・元田竹彦『元田永孚関係文書』

(沼田哲)

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改訂新版 世界大百科事典 「元田永孚」の意味・わかりやすい解説

元田永孚 (もとだながざね)
生没年:1818-91(文政1-明治24)

明治天皇側近の儒学者。号は東野。名は〈えいふ〉ともいう。熊本藩に生まれ,藩校時習館に学ぶ。横井小楠の影響をうけ実学派に参加。維新後の1871年(明治4)大久保利通らの推挙により宮内省に入り,侍読,のち侍講,侍補となって死去までの20年間,天皇への進講をつづけ,帝王学の教授にあたった。78-79年他の侍補とともに天皇親政の実をあげるべく運動を起こし,伊藤博文ら内閣側と衝突したが,運動は失敗に終わり侍補制度は廃止,宮中・府中の別が確立された。明治14年の政変(1881)の際には薩長藩閥勢力と大隈重信派の双方に対する批判活動を展開した。一方,天皇の命をうけて《教学大旨》(1879),《幼学綱要》(1882)を執筆・編纂し,天皇中心の教育を構想。欧米流の教育政策を転換させて,仁義忠孝を中心とした儒教道徳の復活をはかろうとした。晩年,教育勅語の起草作業に加わり,天皇制教育の基本理念の確立に大きく寄与した。宮中顧問官,枢密顧問官を務め,男爵となった。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「元田永孚」の意味・わかりやすい解説

元田永孚【もとだながざね】

幕末から明治の儒学者。号は東野(とうや)。肥後(ひご)熊本藩士の家に生まれ,藩校時習館(じしゅうかん)に学ぶ。1871年宮内省に出仕。侍講をつとめ明治天皇の信任を得た。天皇の命をうけて《幼学綱要(ようがくこうよう)》《教学聖旨(きょうがくせいし)》を編纂(へんさん)・起草,政府の欧米流教育政策を変換させて儒教主義的国民教化に努力。1888年枢密顧問官。晩年は教育勅語の草案を作成して天皇制国家の思想的基礎を固めた。
→関連項目佐佐木高行

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「元田永孚」の解説

元田 永孚
モトダ ナガザネ


肩書
枢密顧問官

別名
字=子中 号=東野 茶陽 東皐 猿岳憔翁

生年月日
文政1年10月1日(1818年)

出生地
肥後国(熊本県)

経歴
11歳の時、藩校時習館に入る。20歳で居寮生となった。その時の居寮長は横井小楠。明治4年5月宮内省に出仕し、8年侍講に任命され、以来20余年明治天皇の側近として儒学を講じた。19年宮中顧問官、21年枢密顧問官を歴任。24年男爵。儒教主義による国民教化、天皇中心の確立に尽力し、「教学大道」「幼学綱要」を執筆。ほかに「還暦之記」「古稀之記」(「元田永孚文書」)がある。23年には教育勅語の草案を作成した。

没年月日
明治24年1月21日

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元田永孚」の意味・わかりやすい解説

元田永孚
もとだながざね
(1818―1891)

明治天皇の侍講・侍補、側近奉仕者として活躍。熊本藩出身。藩校時習館に学び横井小楠(しょうなん)の教示を受ける。現実への適用を課題とする実学としての朱子学に学問的立脚点を置く。京都留守居、側用人(そばようにん)兼奉行、藩知事の侍読などを務める。1871年(明治4)藩命により上京、宣教使、少参事。同年5月宮内省出仕、侍講となり以後明治天皇の君徳輔導に尽力。立憲制に対しては天皇の徳治を、教育政策では開明派の知的啓蒙に対して仁義忠孝の徳育を主張。1888年枢密顧問官となる。1879年には「教学聖旨」を起草、また教育勅語の草案作成に参画し、1882年には『幼学綱要』を刊行、明治公教育の理念形成を主導。

[森川輝紀]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元田永孚」の意味・わかりやすい解説

元田永孚
もとだながざね

[生]文政1(1818).10.1. 熊本
[没]1891.1.21. 東京
幕末~明治の漢学者,教育家。儒教的皇国思想に基づいて教学政策に参画した代表的人物。肥後藩士の家に生れ,藩校時習館に学び,横井小楠らの影響を受ける。藩政に参画後退いて自宅に五楽園を開き後進の育成に努めた。 1871年大久保利通の推挙により明治天皇の侍読となり,75年侍講,86年宮中顧問官,87年枢密顧問官。 79年から『幼学綱要』の編纂にあたり,また 90年教育勅語の草案起草に際し尽力した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元田永孚」の解説

元田永孚
もとだながざね

1818.10.1~91.1.22

幕末~明治期の儒学者。熊本藩士の家に生まれる。藩校時習館に学び横井小楠(しょうなん)を知る。京都留守居・高瀬町奉行などを勤め,明治維新後は1871年(明治4)宮内省に出仕。侍講・宮中顧問官・枢密顧問官などとして明治天皇に近侍した。「幼学綱要」の編纂,「教育勅語」起草への参画などを通じて,儒教主義・国教主義の立場を貫いた。死に臨み特旨によって男爵を授けられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「元田永孚」の解説

元田永孚 もとだ-ながざね

1818-1891 江戸後期-明治時代の儒者。
文政元年10月1日生まれ。肥後熊本藩士で,横井小楠(しょうなん)らの実学党に属した。明治4年宮内省に出仕。明治天皇の侍講,のち宮中顧問官,枢密顧問官となる。国民教化をめざし,修身書「幼学綱要」の編集,教育勅語の起草にあたった。明治24年1月22日死去。74歳。字(あざな)は子中。通称は八右衛門。号は東野(とうや)。

元田永孚 もとだ-えいふ

もとだ-ながざね

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旺文社日本史事典 三訂版 「元田永孚」の解説

元田永孚
もとだながざね

1818〜91
明治時代の儒学者
熊本藩出身。藩校時習館に学び,横井小楠の感化をうける。1871年宮内省に出仕,侍講として明治天皇の教育にあたった。この間,『幼学綱要』を編集,教育勅語を起草し,儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。

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世界大百科事典(旧版)内の元田永孚の言及

【教育勅語】より

…儒教主義の復活である。これを促進した天皇の侍講元田永孚が勅命によって編纂した《幼学綱要》(1882)は,全国の学校に修身書として下付された。一方,鹿鳴館の舞踏会に代表されるような,条約改正のための欧化主義が華族や官僚上層部にひろがっていた。…

【教学聖旨】より

…1879年8月,天皇の名で出された教学の根本方針。元田永孚が起草。洋風を競い智識才芸の末にはしる傾向を戒め,仁義忠孝の精神の育成を中心にすえた徳育が教育の基本であるとした。…

【幼学綱要】より

…明治天皇の勅令により侍講元田永孚(ながざね)によって編纂され1882年刊行された修身書。一時《童蒙修身綱要》とも称した。…

※「元田永孚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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