印内村(読み)いんないむら

日本歴史地名大系 「印内村」の解説

印内村
いんないむら

[現在地名]福知山市大字印内

からすヶ岳(五三六・五メートル)の東麓に位置し、由良川の平野から距離的に近いが、枝谷の奥にあって、本谷からみえない山懐にある。北は山野口やまのくち村、東は報恩寺ほおじ村、南は峠を越えて川北かわぎた村へ、西は小杖こづえ峠を経て猪崎いざき村に通ずる。何鹿いかるが郡に属す。

横山硯」によれば暦応二年(一三三九)二月下旬、足利尊氏が三光国師を具して、「丹波路さして落給」い、船井郡三之宮さんのみや(現瑞穂町)から大原おおばら(現天田郡三和町)を通り、「天田何鹿の郡さかひ印内村へ落着給ふ処、いと物くらき日暮方、田辺氏にて一宿遊されて、(中略)是より小杖峠案内をさせ、庵我庄の奥山の麓に下り」たという。


印内村
いんないむら

[現在地名]望月町印内

望月もちづき宿から北国脇往還に通ずる望月街道沿い、鹿曲かくま川の河岸段丘上にあり、下流は下之城しものじよう(現北御牧村下之城)、東は直ちに御牧原みまきがはらにかかる。

印内は院内で、北方にあった旧村を、天正年中(一五七三―九二)の兵火で廃寺となった月輪がちりん寺跡に移して成立した村を意味するといい(長野県町村誌)、慶長一五年(一六一〇)田野口組・畑村組・長右衛門組・望月組貫目御帳(竹内文書)に望月組内「三百貫文 印内村」とあるのが初出。

天正一〇年六月以降依田信蕃が佐久を制圧するまで、望月氏の支配下にあり、月輪寺は望月の城光じようこう院、茂田井もたい(現立科町茂田井)無量むりよう寺等とともに望月氏一族の庇護下にあった。


印内村
いんないむら

[現在地名]船橋市印内一―三丁目・印内町・西船にしふな二丁目・同四丁目

山野やまの村の北西に位置し、集落の南を房総往還が通る。栗原くりはら八ヶ郷の内。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。近世の支配領主の変遷は山野村と同様と考えられる。元禄郷帳で高二二五石余。天保郷帳では高二六五石余。享保一〇年(一七二五)の葛飾郡印内村屋敷地押帳(藤田家文書)によれば、田一二町九反余・高九七石余、畑三三町一反余・高一四七石余、屋敷一町五反余・高一四石余、屋敷筆数三七。


印内村
いんないむら

[現在地名]浦川原村印内

保倉ほくら川右岸、東頸城丘陵山裾に位置し、西は山印内新田、東は日向ひなた村。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所窪田扱此外三方分いな井村 下」とあり本納二六石六斗一升八合・縄高三六石七斗二升五合、家三軒・八人。正保国絵図では高七一石余。天和三年郷帳では高一一九石九斗余、うち山高一石五斗一升二合・漆高五斗五升、反別田六町七反余・畑屋敷四町余・山林五町余、漆木五五本。安永九年(一七八〇)の新田検地高は一三石余。


印内村
いんないむら

[現在地名]志賀町印内

代田しなんた村の北、遍照へんじよう岳の山頂から南山麓にかけた地を村域とする。当地に往古五つの寺院があったと伝える(羽咋郡誌)。天正一六年(一五八八)とみられる一一月六日の前田利家印判状(青木文書)に「院内村」とみえ、このとき刀狩が行われた。元和二年(一六一六)の高一一〇石余、苦竹役二五匁、役棟六(「苦竹運上極」雄谷文書)正保郷帳の高も同じで、田四町六反余・畑二町六反余、免三ツ六歩九厘。


印内村
いんないむら

[現在地名]今立町南中みなみなか

水間みずま川を隔てて大谷おおたに村の北東にある。明治初年に中村と改称したが、明治一四年(一八八一)の「郡区町村一覧」より南中村となった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれるが、元禄郷帳で分村、村高一〇六・七六九石。地名は白鳳時代草創という大日だいにち院に由来するという。


印内村
いんないむら

[現在地名]掛川市印内

さか川の右岸にあり、西は馬喰ばくろう村。初め院内と書いた。仁藤にとう村の山伏は山内一豊の代に掛川城の外郭を広げるため当地の荒地を与えられ、慶長五年(一六〇〇)の証文に「新屋敷へ罷出候院内共諸役令免許者也」とある。初めわずか五、六軒であったが、寛永一五年(一六三八)の検地で一村となり、正保二年(一六四五)の免状より印内村と記されたという(以上「掛川誌稿」)


印内村
いんないむら

[現在地名]丹波町字院内いんない

京街道に沿い曾根そね村の西に位置する。村の南方の山地以外は広野が展開している。南はもり村、西は新町しんまち村、北は紅井くれない村。江戸時代は郷帳類に「曾根」を冠して記されるが曾根村の内部に生じた集落であったか。

幕末・明治初頭にかけて院内村と表記するようになったと思われ、旧高旧領取調帳では院内村は柴田七九郎知行五六石余、前田帯刀知行二二六石。


印内村
いんないむら

[現在地名]武生市小松こまつ一―二丁目・中央ちゆうおう一―二丁目

府中町の西に近接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では南仲条みなみなかじよう郡中に村名がみえ、高三二八・〇〇一石とある。正保郷帳以降、丹生北郡に属した。


印内村
いんないむら

[現在地名]根上町大成町たいせいまち

手取川河口南方に位置する。江戸時代は加賀藩領であったが、寛永一六年(一六三九)より万治二年(一六五九)までは越中富山藩領。正保郷帳によると高一〇八石余、田方五町五反余・畑方八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一一三石、免五ツ四歩(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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