国津神社(読み)くにつじんじや

日本歴史地名大系 「国津神社」の解説

国津神社
くにつじんじや

[現在地名]都祁村大字南之庄

南之庄みなみのしよう集落西端に鎮座祭神大国魂おおくにたま命。旧村社。九頭くず大明神とも称した。東山中ひがしさんちゆうでは各荘に大国魂命を祭祀する国津神社があり、古くから農業神・水神として信仰された。社記によると天禄三年(九七二)伊賀国阿閉郡二位にい峯の国津大明神を河内国高安たかやす郡へ移す途中、大和南殿みなみとの荘の上田で一泊した。翌日神体の白石が動かなくなったので社を造って二位峯と号し、水分つげみくまり神社(現都祁村)眷属となったという。ちなみに当社背後の小山柏峯かしわみねには二十数個の岩石群があり、国津明神鎮座の地といわれ、一〇月一〇日には村人がここにこもり、集まって踊るのが例であった。


国津神社
くつじんじや

[現在地名]湯浅町田

はまおかにあり、祭神大国主おおくにぬし命。旧村社。近世には国主くにし大明神社と称し、久豆呂くずろの宮ともよばれた(続風土記)。「紀伊国神名帳」にみえる「従四位上国主神」は当社のこととされ、「続風土記」は「社地より南五町許に小浜といふ浦あり、旧其浜の巌崛に鎮座ありしを文永七年当村森某此地に移すといふ」と記す。また寛文記を引いて「応神天皇御宇吉野に祭らせ給ひ、其後三十八年を経て国巣人来りて当地に勧請すといふ」と記し、「社伝に」として、天暦二年(九四八)大和国三輪臣の弟阿部橘司に、紀伊国海浜の巌に大穴持おおなもち命が鎮座しているので尋ねて祀るようにという三輪みわ大神の神託があり、尋ねまわっていたところ同年一一月に須佐男すさのお命の託宣があり、浜に伏していた時神が出現、二〇〇年以上も前からここに鎮座していたと告げられたという。


国津神社
くにつじんじや

[現在地名]名張市奈垣

竹垣内たけがいとにあり、奈垣ながき神屋かみや氏神で、旧村社。祭神は大国主神、ほか一〇柱。奈垣・布生ふのう長瀬ながせの各神社には多くの和鏡が所蔵されるが、とりわけ当社には鎌倉から室町・桃山時代と推定されるものが二〇余面所蔵され、そのうちの三面はともに銅製の紐鏡で、径一一・三センチの完形、菊花紋や梅花双雀・流水竹雀の図案は精妙で、氏子による寄進という。棟札八枚のうち七枚はいずれも天正一二年(一五八四)一一月吉日付のもので、一枚ごとに南無国津大明神・天照皇大神宮・南無春日大明神・南無大弁財天・南無八王子・南無熊野権現・南無三十番神が一神ずつ記される。


国津神社
くにつじんじや

[現在地名]桜井市大字箸中

箸中はしなかの中央部、巻向まきむく川北岸に鎮座。旧村社。祭神は国津神。箸中では当社をウブスナ、桜井市三輪みわ檜原ひばら神社を氏神と称する。境内には旧神宮寺の大日だいにち堂があった。宮座に右座と左座とがあり、一月二日と一五日に檜原神社と当社で荘厳講を行う。


国津神社
くにつじんじや

[現在地名]美杉村太郎生 瑞穂

祭神は大国主命ほか九柱。境内社に若宮八幡社・二荒神社がある。文禄年間(一五九二―九六)社殿を再興して以来二一年ごとに遷宮を行い、明治四〇年(一九〇七)村内の九社を合祀した。日神ひかわの山王権現合祀の際、石造十三重塔一基および弥陀三尊種子石碑を移建した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「国津神社」の解説

国津神社

三重県津市にある神社。鎌倉時代後期に建てられた石造りの十三重塔は国の重要文化財に指定されている。

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