園寺(読み)ぎおんじ

日本歴史地名大系 「園寺」の解説

園寺
ぎおんじ

[現在地名]横手市金沢字寺の沢

国道一三号から東へ八〇〇メートルほど入った谷間にあり、背後の山頂に金沢柵かねざわのさく跡がある。

曹洞宗で万年山と号す。本尊聖観音古来天台宗(月の出羽路)または真言宗(横手郷土史資料)であった。享保一四年(一七二九)頃の「六郡三十三観音巡礼記」に、一三番札所として「仙北郡金沢村万年山祇園寺 古書に、金洗沢鍛冶屋布金洗の観音と有。正観音 大仏師定長作」「義家公の御直垂・御袈裟有りしとなん、今は六郷の永泉寺に有り」と記され、一一世紀頃の大仏師定朝作と伝える金銅聖観音像を現在所蔵している。もとは柵本丸の東直下にある金洗かねあらい沢にあったが(月の出羽路)天文弘治(一五三二―五八)頃、当寺の住僧と考えられる金乗坊が横手佐渡守とともに小野寺四郎丸(輝道)に滅ぼされた時、当寺も焼亡廃絶したのを、元和元年(一六一五)没の真翁授性が現在地に再興したと伝える(横手郷土史資料)


園寺
ぎおんじ

[現在地名]水戸市八幡町

北に那珂川を望む台地上、約一五〇メートルの参道の北に南面して本堂・書院兼庫裏がある。総門は旧水戸城の柵町さくまち御門と伝えられていたが、数年前に移築のため解体された。寿昌山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来

開山は明僧心越、開基徳川光圀。心越は延宝五年(一六七七)来日、天和三年(一六八三)光圀の招請で水戸の天徳てんとく寺に住し、元禄八年(一六九五)の死去までこの寺で過ごした。正徳二年(一七一二)四世大寂界仙のとき、従来の岱宗山天徳寺の名を寿昌山祇園寺と改め、曹洞宗寿星派の本山となり、知行一〇〇石を与えられた。


園寺
ぎおんじ

[現在地名]高梁市巨勢町

祇園山(五五〇メートル)の山頂付近にある。真言宗善通寺派、補陀落山感神院と号し、本尊千手観音、脇立不動明王・多聞天王。備中巡礼の第六番札所。旧社記によれば弘仁三年(八一二)空海の開山で、花山院御幸の際、当寺清浄坊が行在所となり伽藍が修築されたが、建武年間(一三三四―三八)に兵火で焼失し退転したという。現在の本堂(観音堂)は延宝六年(一六七八)松山藩主水谷勝宗による再建と伝え、境内に県指定重要文化財の石造宝塔がある。花崗岩製で総高約三・六メートル、延文二年(一三五七)五月の刻銘が認められる。


園寺
ぎおんじ

[現在地名]緑区有松町有松 往還北

大雄山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと鳴海なるみ村にあり瑞泉ずいせん寺の末寺円道えんどう寺といった。宝永三年(一七〇六)猿堂えんどう寺と改号し、宝暦五年(一七五五)祇園寺と改めて現在の地に移築された。


園寺
ぎおんじ

[現在地名]佐世保市針尾中町

小鯛こだいにある。針尾山と号し、天台宗。本尊は如意輪観音。承応元年(一六五二)平戸藩主松浦鎮信が領内鎮護の祈祷寺として現在地の小鯛に創建、平戸の樹光じゆこう(現廃寺)の一円岳老を開山としたという。初代平戸藩主松浦隆信の位牌があり、その香華所であったともいわれる。江戸時代は祇園社(現戸御崎神社)の別当で、元禄年間(一六八八―一七〇四)は天台僧の了海が別当職を勤めており(鰐口銘)、また祇園社守護針尾山と記される板木が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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