〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
「帝王編年記」大宝三年(七〇三)条に「今年、佐伯姫足子入道尼、名善心、造高市郡南法華寺字壺坂寺是也」、「拾芥抄」に「大宝三年、南都僧道基創立」とある。また建暦元年(一二一一)貞慶(解脱)が撰述した南法花寺古老伝(写本、壺阪寺蔵)に
とあり、大宝三年弁基によって建立されたとするが問題が残る。寺地から白鳳期の瓦が出土するので、奈良時代前期の建立とみられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
奈良県高市郡高取町にある真言宗豊山派の寺。正式名称は壺阪山平等王院南法華(みなみほつけ)寺。壺阪観音,あるいは南法華寺ともいい,江戸時代までは〈坂〉の字を用いた。千手観音を本尊とし,西国三十三所第6番の札所で,眼病に霊験があるといわれ,お里・沢市の《壺坂霊験記》は有名である。創建についてはつまびらかでないが,境内より白鳳期の古瓦が出土し,貞慶の《南法花寺古老伝》には703年(大宝3)に僧弁基の建立とか,弁基と尼善心の2人の共建と伝えている。847年(承和14)長谷寺とともに定額寺に列せられ,灯分稲が施入された。清和上皇は大和国霊山巡礼の際に当寺にも参詣するなど,霊験の山寺として貴族の崇敬をあつめた。1007年(寛弘4)藤原道長は金峰山参詣の途中当寺に宿泊し,《枕草子》は〈寺は壺坂,笠置,法輪〉とその名をあげている。96年(永長1)本堂(八角円堂),礼堂,五大堂,弥勒堂,宝蔵などが焼失し,1207年(承元1)にも再度焼亡した。鎌倉時代初期に興福寺別当覚憲は寺観の整備に尽くしたため壺坂僧正と称せられ,興福寺との関係が深まり,中世には一乗院の末寺となり,周辺には壺坂荘が成立した。1441年(嘉吉1)の《興福寺官務牒疏》には僧坊30宇と伝え,法相・真言二宗兼学の寺であったと《大乗院寺社雑事記》は述べている。室町時代には越智氏との関係が深く,同氏の滅亡と並行して寺勢は衰微した。江戸時代に至り,徳川家康は50石の朱印地を寄せるとともに,高取城主本多氏の庇護を受け,諸堂が修理された。現在,本堂,礼堂(重要文化財),阿弥陀堂,三重塔(1491,重要文化財),仁王門などがあり,第2次大戦後境内に盲人のための養老院や図書館が設けられ,1983年にはインドの大理石による巨大な観音立像が安置された。寺宝に絹本著色一字金輪曼荼羅や鳳凰文甎(いずれも重要文化財)などがある。
執筆者:堀池 春峰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良県高市(たかいち)郡高取(たかとり)町壺坂にある寺。正しくは壺阪山南法華寺(みなみほっけじ)といい、真言(しんごん)宗豊山(ぶざん)派に属する。本尊は十一面千手観音(せんじゅかんのん)。西国(さいごく)三十三所第六番札所で、俗に壺阪観音ともいう。創建については諸説あり、養老(ようろう)年間(717~724)に元興(がんごう)寺の僧弁基を開基とする説のほか、道基、尼善心の開創説もある。もとは法相(ほっそう)宗であったが、10世紀ころ興福寺より真興(しんこう)がきて壺坂流の事相(じそう)を教導してから真言宗になった。江戸時代の寺領は四十五石。本尊は古くから眼病に霊験(れいげん)あらたかなことで知られ、『壺坂霊験記』のお里・沢市(さわいち)の話によって広く伝えられた。室町時代建立の三重塔、礼堂(らいどう)は国の重要文化財。ほかに阿弥陀(あみだ)堂、因幡(いなば)堂(観音堂)などがあり、裏の山中には五百羅漢(らかん)の石仏群がある。寺宝の絹本着色一字金輪曼荼羅(こんりんまんだら)、鳳凰文甎(ほうおうもんせん)は国の重要文化財。なお、境内には盲人養老施設、点字図書館など目の不自由な人のための諸施設がある。
[祖父江章子]
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