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大正デモクラシー たいしょうデモクラシー

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大正デモクラシー
たいしょうデモクラシー

護憲運動,普選運動などを含む大正期の政治現象をいうが,大正デモクラシーが政治学上成立したのは,信夫清三郎『大正デモクラシー史』 (全3巻) 刊行の 1950年代後半である。大正デモクラシーを (1) 政党勢力,政党政治の発展という側面からとらえる視点と,(2) 民衆運動,民衆闘争の展開過程から把握する視点とに大別できる。

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デジタル大辞泉の解説

たいしょう‐デモクラシー〔タイシヤウ‐〕【大正デモクラシー】

大正期に顕著となった民主主義的思潮。都市中間層の政治的自覚を背景に、明治以来の藩閥・官僚政治に反対して護憲運動普通選挙運動が展開され、吉野作造民本主義自由主義社会主義の思想が高揚した。

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百科事典マイペディアの解説

大正デモクラシー【たいしょうデモクラシー】

大正期の民主主義的改革を要求する運動。1913年の第1次護憲運動に始まり,元老,貴族院,枢密院,軍部等の特権階級の権限を弱め普通選挙法の制定,議会政治・政党政治の確立,民衆の政治参加の拡大をめざした。
→関連項目石橋湛山改造自由教育新人会太陽中央公論日本松尾尊【よし】民本主義吉野作造黎明会

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世界大百科事典 第2版の解説

たいしょうデモクラシー【大正デモクラシー】

大正時代の特徴をなす,政治,社会,文化の各方面にあらわれた民主主義的・自由主義的傾向をいう。日露戦争以後のアジアにおける国際的緊張関係の緩和,第1次世界大戦後のベルサイユ体制の成立による国際協調気運の発展を外部環境とし,資本主義の急速な発展にともない成長した都市中間層・無産階級の政治的・市民的自由への自覚を内発要因として,この傾向は形成された。政治面では普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に基礎をおく議会中心政治,外交面では武断的な侵略や植民地支配の停止,社会面では団結権,ストライキ権など社会権の承認,半封建的地主小作関係の廃絶,被差別部落民の解放,男女同権,文化面では国家主義に対抗する自由教育大学の自治,美術団体の文部省支配からの独立等々,さまざまの課題を掲げた自主的集団による運動が展開され,民主主義へ,自由主義への時代思潮をつくりだした。

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大辞林 第三版の解説

たいしょうデモクラシー【大正デモクラシー】

大正期に興った自由主義・民主主義的な風潮、およびその運動。世界的なデモクラシーの発展とロシア革命を背景に、護憲運動や普通選挙運動をはじめとして、労働運動・社会主義運動などが高揚した。思想的には吉野作造の民本主義、美濃部達吉の天皇機関説などの民主主義・自由主義的傾向のほか社会主義的思想もまじえ、多岐にわたっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大正デモクラシー
たいしょうでもくらしー

日露戦後から大正末年までの間、政治、社会、文化の各方面に顕著に現れた民主主義的、自由主義的傾向をいう。中心部分を占めるのは明治憲法体制に対抗する政治的自由獲得運動である。[松尾尊兌]

第一期

1905年(明治38)の日露戦争非講和運動より1912~13年(大正1~2)の第一次護憲運動まで。非講和運動は藩閥政治打破の要求を含み、「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆運動であり、この点より大正デモクラシーの起点とすることができる。「外には帝国主義」の色彩は、1907年より09年にかけて展開された軍備拡張反対、悪税廃止を要求する商業会議所中心の運動を通して弱められた。2個師団増設問題を契機とする第一次護憲運動は、長州閥の桂(かつら)太郎内閣を倒したが、これは民衆運動が政府を倒した最初の例であり、政党の基礎をもたぬ政府は、天皇の詔勅の権威をもってしても維持できぬことを示した点で画期的な意味をもつ。これら諸運動の中核となったのは、日露戦争後の資本主義の発展が生み出した非特権資本家層と都市中間層であり、普通選挙、軍備縮小、満州放棄を唱えた『東洋経済新報』は、その政治意識をもっとも先鋭に代表するものであった。また美濃部達吉(みのべたつきち)の天皇機関説は、天皇の神格的絶対性を否定し、衆議院の国家機関における優越性と、政党内閣制の合憲性を主張することにより、護憲運動の要求に、憲法解釈上の合法性を与えた。この時期には市民的自由要求の声も盛り上がり、婦人解放の第一声たる平塚らいてうらの青鞜(せいとう)社、封建的な束縛に対する自我の解放をテーマとする自然主義や白樺(しらかば)派の文学運動に形象化された。[松尾尊兌]

第二期

第一次護憲運動より1918年(大正7)の米騒動まで。第一次世界大戦の開始による大戦景気は、非特権資本家層の反動化をよび、護憲運動により危機に陥った体制は窮地を脱した。しかし増大する都市中間層を基盤に、デモクラシー運動の根は広がり、各地に普選を中心スローガンとする自主的な市民政社が生まれた。最大の発行部数を誇る『大阪朝日新聞』および知識人に人気のある『中央公論』を先頭に、ジャーナリズムはデモクラシー的風潮を鼓吹した。その風潮は、吉野作造(さくぞう)の民本主義に理念化されている。吉野は、主権在民を意味する「民主主義」を憲法上許容できぬとしながらも、主権運用の目的を民衆の利福の実現に置き、かつその運用を民衆の意思決定にゆだねるという「民本主義」を憲政の基本理念として設定し、これに基づく具体的政策として、内には普選と政党内閣制の採用、外には武断的侵略政策の放棄を説いた。民本主義は鈴木文治(ぶんじ)により労働運動に適用され、労働組合を媒介とする労資協調主義を唱える友愛会の結成となり、この組織は大戦中に急速に発展した。[松尾尊兌]

第三期

米騒動より1924年(大正13)の第二次護憲運動まで。内には米騒動、外にはロシア革命以来のヨーロッパにおける革命的諸運動、およびILO(国際労働機関)の影響を受け、勤労民衆の政治的自覚がにわかに高まり、普選運動が全国的大衆運動として展開された。それとともに友愛会の後身日本労働総同盟を先頭とする労働組合運動、日本農民組合を主力とする農民運動、全国水平社の部落解放運動、新婦人協会などによる婦人参政権運動など民衆の実力により、言論・集会・結社の自由が実質的に拡大された。勤労民衆の要求は政治的自由より社会的自由へと拡大され、社会主義が急速に影響力を増大した。しかし社会主義のなかでも、政治行動を否定するアナルコ・サンジカリズムが支配的であったため、先進的労働者は普選運動から離脱した。平和に対する要望も広く民衆の間に強まり、シベリア出兵は国民的支持を欠いて敗北に終わり、ワシントン会議による軍備縮小は民衆に歓迎された。五・四、三・一の両民族運動のためもあって、露骨な中国侵略は手控えられ、朝鮮の武断的同化政策も修正された。最初の政党内閣たる原敬(たかし)政友会内閣の成立(1918)以来、発言権を強化した政党勢力は、デモクラシー運動の発展に適合すべき政治体制の修正をめぐって政争を繰り広げた。関東大震災と虎(とら)の門(もん)事件はにわかに支配層に革命近しの恐れを抱かせ、これを防止し、安定した支配体制を維持するための方策として、普選の採用、政党内閣制の樹立を望む憲政会・革新倶楽部(くらぶ)・政友会の護憲三派による第二次護憲運動がおこり、旧体制の保持を望む藩閥、官僚勢力および政友本党とを向こうに回しての選挙戦に勝利を得た。[松尾尊兌]

結末

護憲三派を基礎として成立した加藤高明(たかあき)内閣以来、1932年(昭和7)の五・一五事件による犬養毅(いぬかいつよし)内閣の総辞職まで、政友・民政(憲政会の後身)の二大政党が交代で内閣を組織する政党政治の時代が展開する。日露戦前、山県有朋(やまがたありとも)を頂点とする藩閥官僚勢力が体制内で占めた地位を政党が奪取したのである。普選法成立(1925)の結果、日露戦前100万人に満たなかった有権者は1200万人を超え、本土人口の20%に達した。治安警察法第17条廃止(1926)および小作調停法(1924)、労働争議調停法(1926)の制定により、労働者・農民の団結権と争議権が形式的にせよ公認され、無制限の労働者搾取は緩和され、半封建的な高額小作料も20~30%減額された。労働者・農民の無産勢力は中央、地方の議会に進出し、婦人に地方議会の選挙権を与える婦人公民権法案も1930年には衆議院を通過した。国内民主化の進行と、ベルサイユ・ワシントン体制と称される第一次世界大戦後の、アメリカ主導による新国際秩序の圧力のもと、協調外交をうたう幣原(しではら)外交が日本外交の主流を占め、軍備も、第一次大戦中(1915)からの21個師団が、1926年には17個師団へと、日露戦争直後の水準に後退した。[松尾尊兌]

課題

これらの成果も明治憲法体制を一新することはできなかった。憲法改正はもとより、枢密院・貴族院・参謀本部・軍令部など、議会中心主義を脅かす諸機構の権限縮小に手をつけるに至らなかった。既成政党勢力は他方では治安維持法(1925)を制定して無産勢力の政治的自由に新たな拘束を加え、また、労働組合法などの労働者保護法や、農民の耕作権を保障する小作法の制定を怠った。このため、世界大恐慌の襲来(1930)、大陸における日本権益を脅かす中国民族運動の発展という新事態に直面し、政党政治は無産勢力の要望を入れつつ局面を打開する方策をとりえず、一度は傘下に収めた中間層を含む民衆の信頼を喪失し、満州事変勃発(ぼっぱつ)以後軍部ファシズムの興隆に道を譲ることになった。しかし、大正デモクラシーを推進した民衆組織と思想は戦時下といえども潜在勢力を保持し、戦後、占領軍の非軍事化政策のもとに展開された戦後民主主義を支える基盤となった。[松尾尊兌]
『信夫清三郎著『大正デモクラシー史』(1954・日本評論社) ▽松尾尊兌著『大正デモクラシーの研究』(1966・青木書店) ▽金原左門著『大正デモクラシーの社会的形成』(1967・青木書店) ▽鹿野政直著『大正デモクラシーの底流』(1973・日本放送出版協会) ▽宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(1973・東京大学出版会) ▽三谷太一郎著『大正デモクラシー論』(1974・中央公論社) ▽松尾尊兌著『大正デモクラシー』(1974・岩波書店)』

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世界大百科事典内の大正デモクラシーの言及

【民主主義】より

…もちろん,明治憲法下においても,権力の運用を民主的に行うことは可能であった。吉野作造の《憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず》(《中央公論》1916年1月号)を契機とした民本主義論争に象徴される大正デモクラシーは,明治国家が許容する範囲内ではもっとも民主的な政治のシステムであった。そして,民本主義が力説したのは,〈民衆による〉ではなく,〈民衆のために〉政治権力を運用することであった。…

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