大藪村(読み)おおやぶむら

日本歴史地名大系 「大藪村」の解説

大藪村
おおやぶむら

[現在地名]南区久世くぜ大藪町

中久世・下久世村の東に位置。北は上久世村、南は東土川村、東は築山つきやま村。中世は、西岡にしのおか一一ヵ郷の一で、また牛瀬うしがせ(現西京区)・上久世・下久世・三鈷さんご(現西京区)領とともに下五ヵ郷(庄)を構成した。

暦応三年(一三四〇)一一月、上久世庄公文沙弥道法が領家東寺に進上した上久世庄絵図(教王護国寺文書)に「本久世 大ヤフ」とある。この絵図によると、大藪庄(本久世庄)は東に「東久世 カ□チ」、北に東寺領上久世庄を配する小規模な京郊荘園であった。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]養父町大薮おおやぶ

養父市場やぶいちば村の北西、円山まるやま川の右岸に位置する。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入部した小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)出石藩主小出吉英が和泉岸和田藩主に就任すると岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩主に再封されると、同藩領に復した。寛文六年(一六六六)吉英の遺領を襲封した小出吉重は弟英信に二千石を分知、当村はこのとき旗本小出英信家領となり、同家領で幕末に至った(「小出氏系譜」山田家文書、慶長一八年「小出吉英所領目録」金井文書、「寛文朱印留」、宝暦七年但馬国高一紙など)。前掲小出吉英所領目録では高二四七石余。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]輪之内町大藪

現町域の東端部に位置し、東は長良川を隔てて堀津ほつつ(現羽島市)、西は楡俣にれまた新田、北は楡俣村、南は大榑おおぐれ川を隔ててかつ(現海津郡平田町)に接し、長良川には大藪渡があった。正中元年(一三二四)二月二五日の沙弥信悟寄進状(宝生院文書)に「長岡庄河東西方大藪切口畠事」とみえ、新開地の五反三一五歩の地が京都北野社天満宮に寄進されている。切口畠とは切所に堆積した土砂が畠を作った名残であろうか。貞和六年(一三五〇)一月五日の僧良敬寄進状(同文書)においても長岡ながおか庄内の「河東大藪郷包次名」とみえるが、現在の当地は長良川西岸にあり、同年以降に河道の変化があったとも考えられるが、大藪郷を現羽島市小藪こやぶとする説もある。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]多治見市大藪町・姫町ひめちよう

東を姫川が北流し、南東は大針おおはり村。今渡いまわたり街道が南北に通る。慶長郷帳などでは大針村、下切しもぎり村・いま(現可児市)と合せて姫四ヵ村と称し、美濃国奉行岡田善同領。元禄郷帳に大藪村とみえ六五二石余、幕府領。松雑木竹御林三・二町七反余がある(臼井本元禄郷帳)。文化一二年(一八一五)村明細帳によれば田三三町九反余・畑六町二反余、家数七三(うち高持四六・水呑二七)・人数二八六、馬五。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]大木町大藪

田中たなか村の東に位置し、東は高橋たかはし村、南は山門やまと吉開よしがい(現三橋町)、北は奥牟田おくむた村。豊後別路が通る。天正一一年(一五八三)一一月、大藪刑部少輔・藤原盛吉が施主となって、当地の長福ちようふく(現廃寺)の本尊薬師如来を納める厨子を作った。その厨子銘文に「三妻郡蒲池郷大藪之村大井山長福寺」とある(福岡県三潴郡古文書集)。文禄四年(一五九五)の知行方目録では高三九五石余。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]美浜町大藪

金山かなやま村の南に立地。北西は久々子くぐし湖に面し、丹後街道が通る。中世は耳西みみにし郷に属した。大永二年(一五二二)の上瀬宮毎年祭礼御神事次第(宇波西神社文書)には宇波西うわせ神社(現三方町)の例祭に氏子の各村から献上される膳の内容が記録されるが、その中に「大やふ村」とみえる。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「五十文 大やふ村」とある。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]大川村大藪

小北川こきたがわ村の南にあり、東を吉野川が北東流する。本川ほんがわ郷の一村で、宝永三年(一七〇六)の「本川郷風土記」(南路志)によれば東西七町南北一五町で、「惣体土地黒、在所南向南下之所也」と記す。

当地の大藪紀伊守らは慶長二年(一五九七)の朝鮮の役に従軍したが、戦死した小麦畝こむぎうねの三太郎の所有地の相続が帰国後問題となり、結局紀伊守はその耕作権を獲得している(年不詳九月二九日付「長宗我部盛親書状」蠧簡集)


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]彦根市大薮町おおやぶちよう

長曾根ながそね村の善利せり川対岸に位置。西は琵琶湖に面し南西は犬上いぬかみ川を挟んで八坂はつさか村。永正一五年(一五一八)三月、「おうやふ」は一貫文を堅田居初家に納めているが(居初文書)、これは網漁に対する課役とみられる。天正一九年(一五九一)四月の御蔵入目録(林文書)によると、大藪村の小物成「拾六石 よし米」と「四石 かハ米」が豊臣秀吉の代官石田三成の管理下に置かれた。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]椎葉村大河内おおかわうち 大藪

大桑木おがのき村の東の山腹に位置し、一ッ瀬川の支流大藪川上流に立地する。大河内掛一六ヵ村の一つで、大河内組に属する。村内には小村としてひそゑ村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として大藪とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑三反余(高四斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)大河内村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)によれば「小鹿倉山」以下四山に焼畑一四五枚・七町一反余があり、その取米一石六斗余・取銀九六匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高八石二斗余。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]かつらぎ町大藪

丁野町ちようのまち村の西、大和街道沿いにある。仁安三年(一一六八)一二月一日の大山行貞田畠充文(続宝簡集)に「金剛峯寺御庄内板やかき内大やふ村」とみえ、欠年の官省符下方并河南二村在家帳(又続宝簡集)に在家一二宇とあり、高野山領官省符かんしようふ庄下方に属した。高野山文書の鎌倉時代から室町時代にかけての田券に大藪村の小字として湯屋前・室前・東長田・西長田・名手・井王垣内・院田・波佐間田・八田窪・江河田・長田・長畠・藤平田・畑寺・板屋垣内・粟田垣内などがみえる。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]水俣市石坂川いしざかがわ

水俣川上流、石坂川が水俣川に合流する付近の石坂川左岸にあり、東の石坂川対岸は石坂川村、北東に荒平あらひら村、水俣川下流は葛渡くずわたり村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳には葛渡村の小村として「大やふ村」の名がみえ、屋敷数三、男一一・女四、牛一・馬二が記される。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]八木町字大藪・字折戸おりど

北は大堰おおい川を境に北広瀬きたひろせ村に対し、東は南広瀬村、南は八木村、西は八木島やぎしま村。平坦部にある村で、古くは大堰川の河道ないしその縁辺部であったと考えられる。園部藩領。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は一一〇石であるが、天保郷帳では二三三石余と倍増。


大藪村
おおやぶむら

[現在地名]玉野市大藪

後閑ごかん村の西に位置し、南は瀬戸内海に面する。慶長七年(一六〇二)村内六一石余が下方覚兵衛に宛行われている(「小早川秀詮朱印状」黄薇古簡集)。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では塩浜運上銀子八八匁余とある。寛永備前国絵図では高一二二石余、享保六年(一七二一)の家数二三・人数一七七、田畠九町三反余、うち塩浜二反(備陽記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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