大願寺(読み)だいがんじ

日本歴史地名大系 「大願寺」の解説

大願寺
だいがんじ

[現在地名]宮島町 北大西町

厳島神社の西、御手洗みたらい川を渡ったすぐ右手にあり、亀居山放光院と称する。高野山真言宗で本尊薬師如来。寺伝によれば延暦二一年(八〇二)頃の創建といわれ、弘法大師が唐から帰国の途次、当寺に在住して本尊を刻み真言宗に改めたと伝える。「厳島名所図会」に「当寺の開基歴久遠にして考ふべからず、今は三十一世の祖了海上人を以て中興開祖せり。世々大宮修理を掌として一島の巨刹なりき」とあり、建仁年間(一二〇一―〇四)に了海が中興したと記す。

近年の研究によると、大願寺はもと厳島神社東方の塔の岡とうのおかにあったといわれ、現在地への移転の時期は不明。大願寺が史料にあらわれるのは遅く、大永三年(一五二三)三月吉日付の滝小路彦右衛門屋敷売券(大願寺文書)宛名に寺名がみえるが、二年後の同五年二月一三日付の厳島社神主家奉行人書状(同文書)は、厳島竹垣修理料所を木守某が無沙汰したためその「山里土毛田之大窪名」の地を大願寺が直接知行することを命じており、その当初より大願寺は厳島社の造営修理担当の寺院とされている。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]真野町四日町 松山

国府こうの川川尻の真野湾砂丘上、松林に囲まれた字松山まつやまの一画にある。中世は府中松山ふちゆうまつやまの道場とよばれた時宗寺院で、いまは満松山と称する。もと神奈川県藤沢市清浄光しようじようこう寺末。本尊阿弥陀如来は鎌倉時代の作で県指定文化財。寺伝では貞和三年(一三四七)遊行七世託阿の弟子託岸の開基。当初松山または府中橋本ふちゆうはしもとの道場とよんだ。その頃了阿という修行僧が渡海し、古い菅公の木像をこの松山に置いたといい、現在も天神堂に安置される。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]淀川区東三国一丁目

本門法華宗。孤雲山仏生院と号し、本尊は十界大曼荼羅。「蘆分船」「摂陽群談」などによると推古天皇の時、池中より出現した閻浮檀金の阿弥陀像を祀る一宇を創建したのに始まる。弘仁三年(八一二)長柄ながら橋を再建しようとしたがかなわず、人柱をたててやっと完成した。この人柱となった岩氏(一説に垂水たるみの人という)の菩提を弔うために当寺が再建されたといい、橋本はしもと寺とも称したという。境内地蔵堂に寛仁三年(一〇一九)出土した長柄橋の古材をもって定朝が刻したと伝える笑地蔵を安置し、山門左の五輪塔を岩氏の墓と伝える。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]仙台市新坂町

満勝まんしよう寺の北西。浄土宗で山号増上山、院号三縁院。本尊阿弥陀如来。慶長八年(一六〇三)格外の開山と伝える。諸国修行中の格外は、慶長六年仙台に来てたち町にあった堂で説教勧化をしていたが、帰依する者が多く同堂を太子堂と称するようになった。のち四世良観の時藩祖政宗の帰依が深かったことから、寛永一三年(一六三六)政宗の葬礼式の地とし、霊柩・葬具を焼却した灰塚のあるこの地を拝領、灰塚の南隣に寺を建て大願寺とした。また二代藩主忠宗手植えの松にちなみ院号を松王院とした。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]枕崎市山手町

枕崎市中央部、JR枕崎駅の北東に近接する。鎌数山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。明治九年(一八七六)鹿児島県によって信教の自由令が発布されて真宗禁止が解除されると、京都西本願寺は直ちに開教僧を派遣した。鎌数山乗誓じようせい(現福井県鯖江市)の鎌数謙譲もその一人で、同一〇年鹿児島に入国し、枕崎近在の布教に力を注いだ。西南戦争のあおりを受けて布教活動は難渋したが、同一三年枕崎後の川うしろのかわに説教所(現在の折口町西光寺)を創設。しかし当地方の御影講が三業安心の影響を受けて門徒が分裂するなど混乱したので、同一八年立石たていし(現在の中町)に新たに説教所を開設し、同一九年大願寺を公称。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]岩見沢市大願町

大願おおねがい神社の隣にある。成就山と号し、真宗仏光寺派。本尊は阿弥陀如来。大正二年(一九一三)川向かわむかい(現在地)に岩見沢説教所を創設したことに始まる。開山は福井県から来道した川合清巌である。創建当時の本尊は京都仏光ぶつこう(現下京区)から下付された御掛図であった(寺史)。同七年本堂が建立され寺号公称が認可されたのを機に、木造の本尊を安置したいと本山に申請した。


大願寺
だいがんじ

[現在地名]阪南町下出

男里おのさと川の左岸、字内畑うちはたにある。浄土宗。増縁山業力院と号し、本尊阿弥陀如来。寺蔵の本院歴代誌などは永禄三年(一五六〇)尼僧善心の開創とする。阿弥陀如来から善心に至る浄土法脈図を刻した永禄一二年二月一五日銘の板碑(寺蔵)に「鳥取下手辻道場」とみえ、辻道場として創建されたことが知られる。その後順次寺院として整えられ、寺号を称するようになったのは明暦四年(一六五八)のことという(東鳥取村誌)


大願寺
だいがんじ

[現在地名]大宇陀町大字拾生

拾生ひろう集落西方の丘上に位置する。薩山と号し、真言宗御室派。本尊十一面観音。別名は七福しちふく寺。創建は飛鳥時代と伝えるが、沿革は不詳。本堂は明治二〇年(一八八七)の再建、鐘楼は享保七年(一七二二)の建立である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大願寺の言及

【厳島神社】より

…内侍は舞姫もつとめたが本来巫女で,所領のほか社頭にささげられた散銭散米の収得権を持ち中世末まで権威を保持した。中世末に本宮棚守職の棚守房顕が大内・毛利氏と結んで権勢を持ち,供僧を率い弥山(みせん)を管理した大聖院や社殿の修理造営権を握った大願寺とともに近世まで神社の諸事を統轄した。祭礼は春秋の例祭のほか,旧6月17日夜対岸の地御前(じごぜん)神社(外宮)に渡御する管絃祭,旧7月18日の玉取祭などがある。…

※「大願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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