川田村(読み)かわだむら

日本歴史地名大系 「川田村」の解説

川田村
かわだむら

[現在地名]郡山町川田

東俣ひがしまた村の南東に位置し、東・西は山地・丘陵で、その間の中央を川田川(甲突川支流)が南流して水田が開けている。山麓に川田上・川田中・川田下の集落が散在している。

〔中世〕

満家みついえ院に含まれ、天福元年(一二三三)一〇月二日の紀道房外二名連署契約状(比志島文書)に満家院のうち「河田村」とみえ、紀道房・僧実範・僧智弘は満家院内比志島ひしじま(現鹿児島市)西俣にしまたなどの知行が大御前(菩薩房、満家院司大蔵永平娘)に認められたが、さらに菩薩房の息栄尊に川田村を付与されるよう兵衛太郎(税所義祐)ら満家院院司を説得すべく協力することを約し、和談の結果義祐も了承している。嘉禎元年(一二三五)大輔房浄尊が川田・比志島両村の権利を主張し稲を刈取ったので栄尊はこれを訴え、翌二年九月一五日、農料として国例に任せて反別三束を栄尊に返付するよう浄尊に命じている。なお両村の通常の農料は日吉上分米五〇束(一〇合枡で計量すると籾七升)であったという(「某袖判書下」同文書)。寛元五年(一二四七)三月一一日、栄尊は菩薩房より当地を含む五ヵ所の名主職を正式に譲与された(「比丘尼菩薩房譲状」同文書)。ただし寛元二年には実質的な支配を任されており、和与の結果、満家院司税所義祐から知行を認められ(同年七月一五日「藤原義祐書状」同文書)、幕府の承認も得ていた(同年一二月一一日「関東御教書」同文書)。しかし地頭代が免除されていた万雑公事地利物を賦課したため、宝治元年(一二四七)九月惣地頭島津忠時に免除を訴え、認められた(「法橋栄尊申状」同文書)。建長五年(一二五三)七月一〇日、栄尊は川田など五ヵ所の惣領職を嫡子祐範(佐範)に譲り(「法橋栄尊譲状」同文書)、三男宮次郎に川田名代官職を、四男乙次郎に川田名内孫江田三反と元明居屋敷を譲与した(「法橋栄尊置文」同文書)


川田村
かわだむら

[現在地名]甲府市川田町、東八代郡石和いさわ市部いちべ窪中島くぼなかじま

桜井さくらい村南東にある。甲州道中をさえぎる笛吹川(現平等川)を挟み、対岸は石和宿。「甲斐国志」によれば、かつては石和郷に属したという。「王代記」永正一一年(一五一四)条に「武田左京大夫信虎御代河田ニ屋形」とあり、武田信虎の守護館が当地に設けられていた。「菊隠録」には中翁義公庵主の条に「甲州山梨県川田居住、三宝弟子孝女等、時永正乙亥来五月下澣初一日、廼先考中翁義公庵主三回忌之辰也」とある。永正乙亥は同一二年。中翁義公は同一〇年五月二七日没した穴山信懸(建忠寺殿中翁道義)のことで(武田家過去帳)、川田に居住するその娘らが父の三回忌を営んだことがわかる。天正一〇年(一五八二)一二月五日、中田(内田か)鉤之助に河田郷七貫文が本給として(「徳川家印判状」内田文書)、翌一一年四月一八日には大泉だいせん寺に河田のうち三貫文の地が本寺領として安堵され(「徳川家康判物写」甲斐史料集成稿)、同年五月一三日の徳川家奉行連署神領証文(八代金蔵氏所蔵文書)には二宮(現御坂町美和神社)の神領として川田の六〇〇文がみえる。


川田村
かわたむら

[現在地名]山科区川田〈いわたにうめたに町・御出おいで町・おか西にしかけうえ清水焼団地きよみずやきだんち町・土仏つちぼとけ百々どど中畑なかばた町・西浦にしうら町・菱尾田ひしおだ前畑まえはた町・御輿塚みこしづか町・南畑みなみばた町・南山みなみやま山田やまだ〉、東山区今熊野いまぐまの梅ヶ谷町

北は上花山かみかさん、東は西野にしの、南は大石おおいし川を隔てて西野山にしのやま、西は阿弥陀あみだヶ峰で今熊野いまくまの(現東山区)の各村と接する。東山ひがしやま山地の東斜面と山麓地帯からなり、東部を南北に醍醐道だいごみちが通じる。


川田村
かわだむら

[現在地名]長野市若穂川田

北は牛島うしじま村・綿内わたうち村と耕地及び赤野田あかんた川で境、東南は保科ほしな川と耕地および大星おおぼし山で小出こいで村・保科村と境、西南は大星山・関崎せきざきの稜線で大室おおむろ村と境、西は千曲川で真島ましま村と境する。集落地は東北に開け、中央を赤野田川が貫流、西部自然堤防上に町川田・関崎、東部保科川の左岸扇状地末端に大門だいもん・塚本、赤野田川沿いに和田(下和田)、そのやや下流に領家りようけの集落がある。

古代、「和名抄」記載の穂科ほしな郷に属し、水田地帯は条里的遺構をとどめるなどから、郷の中心地と推定される。中世初期は保科御厨・長田ながた御厨等伊勢神宮外宮領となり、領家集落も成立したが、いずれの領家かは不明である。


川田村
かわたむら

[現在地名]郡山市三穂田町みほたまち川田かわた・三穂田町川田一―四丁目

笹原ささはら川両岸の沖積平地と低段丘に立地。河田とも記す。縄文時代の東上ひがしうえだい遺跡・白幡しらはた遺跡・いぬ馬場ばば遺跡、弥生時代の正法寺しようぼうじ遺跡がある。字御霊ごれいの丘陵上に小円墳三基があったが未調査のまま消滅した。字ふじに住居跡が確認されている。字日向ひなたに徳治三年(一三〇八)と正和四年(一三一五)三月日の紀年銘をもつ山王さんのう供養塔がある。ほかに現三穂田町富岡みほたまちとみおかさとの文永二年(一二六五)銘の浮彫阿弥陀三尊来迎供養塔と相似の供養塔などが残る。


川田村
かわたむら

[現在地名]守山市川田町、野洲やす郡野洲町竹生たけじよう

小島こじま村の北に位置。河田村とも記した。野洲川南流左岸の川田・北(喜多とも)・田中と野洲川南流と同川北流に挟まれた竹生の集落からなる。野洲川を境に比江ひえ(現野洲郡中主町)市三宅いちみやけ(現野洲町)と対する。川田遺跡(鎌倉時代の富農屋敷跡)がある。貞治五年(一三六六)一二月二二日の足利義詮袖判下文(阿部敏雄氏所蔵文書)に河田郷とみえ、同郷替地として越中国柳河やなんかわ(現富山県西礪波郡福岡町)などが佐々木高満に宛行われている。当地の野洲川には三上みかみ(現野洲町)から簗の設置が認められており、同社九月九日の献鰍祭御贄上・下簗五喉を負担した(正和元年二月五日「三上社家政所置文案」御上神社文書)


川田村
かわだむら

[現在地名]鳥屋町川田

新庄しんじよう村の北にあり、二宮にのみや川右岸沿いに塊状の集落をなす。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高一七八俵余が土方領。うち荒一四俵余、残りの三割五分が百姓得分。同領は貞享元年(一六八四)から幕府領、以後元禄二年(一六八九)から同八年までの鳥居忠英領、同一一年から一三年の水野勝長領の時代を除いて幕府領、享保七年(一七二二)から幕末まで加賀藩預地(七尾市史)。土方領分は正保郷帳では高八九石余、田方五町六反余・畑方二反余、免四ツ八歩。


川田村
かわだむら

[現在地名]阿南町北条きたじよう 川田

天竜川右岸に位置する。北部・東部は天竜川を挟んで田本たもと村・大畑おおばた村(以上現泰阜やすおか村)、南は神子野谷みこのや村・大森平石おおもりひらいし村、西は鴨目かもめ村に接する。河田とも書く。

大永五年(一五二五)関氏の所領となり、天文一三年(一五四四)下条領、天正一五年(一五八七)飯田城代菅沼氏預り所、同一九年京極氏知行所、慶長六年(一六〇一)小笠原氏預り所、元和三年(一六一七)脇坂領、天和元年(一六八一)美濃高須藩松平氏の飛領地となる(長野県町村誌)。村高は、正保四年(一六四七)に一二一石余(信濃国絵図高辻)、天保五年(一八三四)に二二一石余(信濃国郷帳)


川田村
かわだむら

[現在地名]黒羽町川田

余笹よささ(黒川)の東岸段丘上にあり、南西で余笹川が那珂川に合流。東は中之内なかのうち村、西は余笹川を隔てて稲沢いなざわ(現那須町)、南は高館たかたて山を隔てて大輪おおわ村。東と南へ向かう道がある。村域の八―九割を山林が占め、北東より南西に向かい平地となる。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「河田」二七九石六斗がある(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)


川田村
かわだむら

[現在地名]西区福島ふくしま町一―二丁目・南観音みなみかんのん

東は川田川を隔てて広瀬ひろせ村・観音村、西は己斐こい川を隔てて佐伯郡己斐村、北は東西に横切る山陽道を境として沼田ぬまた打越うちこし村に接し、南は広島湾に面する。太田おおた川分流の三角州上の新開地で、低く平らな土地柄である。城下新開組に属した。

「知新集」に「開発の時代しれす、名のこゝろ川そひをひらき、田となしけるより、よへるか」と記す。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では高一〇石余。元禄一四年(一七〇一)川田村新開地詰帳(「新修広島市史」所収)では、二九町余・高三一二石余、「知新集」では四〇五石余、明治三年(一八七〇)の郷村帳(「芸藩志拾遺」所収)では四〇九石余、うち三七石余が除地とあり、すべて新開による著しい増加であった。


川田村
かーたむら

[現在地名]東村川田かわた

平良てーら村の東に位置し、南は平良てーら湾に臨む。集落の西方を福地ふくじ川、東方をフユガッタ川が流れる。平良村と併称され、カータ・テーラとよばれる。間切所属の変遷は平良村と同じ。絵図郷村帳・正保国絵図では名護なぐ間切の川田村とみえる。琉球国高究帳でも名護間切所属で、高頭三三石余、うち田二九石余(うち永代荒地一五石余)・畠四石余。「琉球国由来記」では大宜味いぎみ間切所属で、同間切役人として夫地頭川田大屋子が置かれていた。「球陽」尚敬王二四年(一七三六)条によると、国頭くんじやん間切安波あふあ(現国頭村)から久志くし間切川田村への路程は七里に及び、山林のため往来に難渋するとして、同年両村の間に大鼓でーく村を設置した。


川田村
かわだむら

[現在地名]新城市川田

稲木いなぎ村の西南、もと南設楽みなみしたら郡の最西部にあたり、境川を境として宝飯ほい郡に接する。慶長一一年(一六〇六)から新城水野氏領、正保二年(一六四五)幕府領、慶安元年(一六四八)新城菅沼氏領となり明治に至る。

慶長九年の検地帳では「河田村」と記され、田一四町一反余・一五五石余、畑・屋敷一〇町七反余・一二六石余の計二八一石余となっている。字名には一之坪・横枕・一丁田などの条里関係地名を残すが、現況は痕跡をとどめない。寛永郷帳では二六五石余、耕地は河岸段丘下の豊川に沿う沖積地にあり、段丘上から本宮ほんぐう山に至る広大な斜面は川田原かわだはらとよばれて採草地となっていた。この川田原の上部には三四基以上の川田原古墳群があったが、最上部のものを除き第二次世界大戦後の開拓と工場設置で亡失した。


川田村
かわたむら

[現在地名]柿崎町川田

西は荻谷おぎのたに村、南は下小野しもおの村と境を接する。天正一四年(一五八六)から同二〇年の間の正月二八日の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)に「カワタ村」とみえ、本願寺へ五〇疋(五〇〇文)を懇志として送っている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分斉藤分河田村 中」とみえ、本納一一二石三斗四升八合三勺・縄高一七九石五斗九升五合、家八軒・三一人とある。正保国絵図には村名が記され、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高二九八石七斗余。


川田村
かわたむら

[現在地名]三芳村川田

谷向やむかい村の北西に位置し、平久里へぐり川が流れる。房総往還が通る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録のきた之郡内に知行方分として村名がみえ、高五〇石余(うち田二六石余)。正保郷帳ではへい郡内に河田村とあり、高七三石余、旗本三枝領。


川田村
かわだむら

[現在地名]野木町川田

佐川野さがわの村の東、宮戸みやと川左岸の宇都宮西台地に位置。浸食谷が枝状に入り込み、集落は台地縁辺部に立地。慶安郷帳に村名がみえ、田三〇石余・畑四五石余。寛保元年(一七四一)間々田ままだ宿(現小山市)定助郷となり勤高七六石(「日光街道間々田宿助郷帳」上原幸一文書)。天保(一八三〇―四四)頃の古河藩領村明細帳(茨城県潮田文書)によれば、高三二四石余、うち新田二四八石余。


川田村
かわだむら

[現在地名]君津市俵田たわらだ

俵田村の西、小櫃おびつ川右岸の低地に位置する。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、知行高は不明であるが旗本天野領となった。元禄郷帳では高七九石余、天保郷帳・旧高旧領取調帳では高八二石余。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)には河田村とみえ、久留里藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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