平林村
ひらばやしむら
[現在地名]増穂町平林
舂米村の西にあって南は小室村など、西は奈良田村(現早川町)など、北は上市之瀬村(現櫛形町)・安通村(現芦安町)など。東を除く三方はいずれも二〇〇〇メートル級の山に囲まれ、村域も七、八〇〇メートル以上の山地である。面積も広大で、現増穂町全体の四割を超える。現在平林の各集落に至る道は舂米から利根川の流路に沿って登る県道平林―青柳線だが、かつては利根川に架かる御幸橋から左の南山に登り、中腹をたどって深沢に至る道があった。集落のある一帯は櫛形山南東山腹の断層崖下、利根川の谷頭盆地をなし、栃窪・楮畠・南平・久保平・馬取沢・上久保・上向川・下向川・矢ノ下・狭間・前田新居・岩下新梨の一二の小集落からなっていた。享保二〇年(一七三五)の村明細帳(神田正恵家文書)では栃久保(栃窪)・忍沢・池平を枝郷としてあげている。慶長七年(一六〇二)の検地帳(県立図書館蔵)によると、反別は田方一町二反余・畑方二九町余、屋敷一千七六四坪・屋敷数二二。ほかに番匠一・「大切」二が書上げられており、この三軒分の屋敷地は三〇六坪。慶長古高帳によると高一三七石余、幕府領。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]佐久町大字平林
千曲川右岸の低い段丘上(七五〇メートル)に位置し、東は関東山系末端の山地が迫り、西は千曲川との間に平坦地が開けて主要な耕地となっている。南方は台地性の山地で、その中央部は東西方向の谷地をなし、枝郷曾原が所在し、谷の出口に岩水(現臼田町飛地)がある。
東は山地で、余地村、入沢村(現臼田町)と、西は耕地をもって高野町村に、また千曲川をもって宿岩村に境し、北は入沢村に接する。
佐久甲州脇往還は平坦地を千曲川に沿って南北に通じ、台地上は入沢・平林・曾原・余地を結ぶ新海神社の神幸道が通じ、古い交通路である。神幸道が平林から曾原に越える五領坂の頂上から東へ約一五〇メートル、曾原の集落を一望におさめる段丘上(八二〇メートル)に入山二〇号古墳がある。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]喜多方市関柴町平林
姥堂川を隔てて京出村の北にあり、北は関柴村、東は下柴村。婆柳・地理(地利)・信濃・長於佐・新屋敷の端村があり、熊倉組に属した。また古くは原・羽賀屋敷という二つの端村もあったが、文化年中(一八〇四―一八)には廃村となっていた。村を開いたときに平地に大きな林があったのが村名の由来という(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に平林とみえ、高一千六三五石余。慶安元年(一六四八)それまで当村の端村であった京出が分れて一村となった(新編会津風土記)。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]長野市松代町豊栄
北には皆神山を背負い、東は桑根井村、南は関屋村で、西は西条村の枝村欠に囲まれた村。
平林の初見は平林西仏譲状案(平林文書)にあり建長二年(一二五〇)平林西仏は弟故頼宗の旧妻尼行阿と、英多庄の内八郎丸名平林屋敷内桑井
仗屋敷をめぐり相続争論し勝訴して、西仏はこれを頼宗の子頼敏に譲ったとある。また建長四年の将軍家政所下文案(同文書)によれば、鎌倉幕府は平林頼敏に右の屋敷を安堵した。
<資料は省略されています>
平林の桑井
仗屋敷は、代々領主の平林氏が相続していたと考えられる。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]野沢温泉村大字平林
坪山村の北にあって東谷筋道の主要な駅で、千曲川が著しく屈曲し、対岸下境との間に渡し場があった。耕地も比較的広く地味も肥え、中世から志久見郷の一拠点である。
文永九年(一二七二)八月一八日市河重房の後妻尼寂阿(袈裟)の市河盛房(薬王)への所領譲状に「ゆつりわたすやくわうに、しく見のしもてうひらはやし、たいたいのほんもんそ、中の・しく見のくしてゆつる、たのさまたけあるへからす」(「尼寂阿譲状」市河文書)とみえる。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]長野市大字平林
長野村善光寺の東方、東は西和田村と水路で境し、西は高田村・三輪村と沖沢川の中流をもって境し、南は西和田と堰で境し、北は
目村と境する。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「三百四拾八石六斗壱升五合 平林村」とある。嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録に「玉垣三間 宇木・小居・平林」とあるように中世から始まった郷村で、諏訪御符礼之古書(守矢文書)の文明三年(一四七一)の条に、
<資料は省略されています>
とあるように、諏訪社上社頭役の所役郷であった。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]長野市信更町山平林
岩倉山の北、犀川の沿岸下平集落から東方山麓をめぐり、南方上尾集落を包み犀川に至る地域である。
鎌倉末期から、広くこの地方一帯を山布施郷と称した。戦国時代平林正直は上尾に築城して移り住し、以来平林氏領。慶長三年(一五九八)上杉景勝とともに平林氏が会津に移ったのち海津城主の領知に属し、元和八年(一六二二)松代領となる。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]蒲生町平林
現町域の東端、布引丘陵の南麓に位置し、東は蓮華寺村(現日野町)、南は綺田村。元和三年(一六一七)彦根藩領となり、文久二年(一八六二)上知となった。寛永石高帳では高三七七石余。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数二〇二。用水は野出村(現日野町)地先で佐久良川から取水する大井を綺田村と分水で利用した。浄土宗法森寺は元禄五年(一六九二)の書上(同寺蔵)によると古くは大日如来を祀る小堂であったが寛永七年(一六三〇)寺号を許されたという。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]北淡町野島平林
江崎村の南西にあり、北西は海に面する。海岸沿いを西浦街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、高四三石余。天保郷帳では高七九石余。反別戸数取調書によると反別七町七反余、高一三六石余はすべて蔵入地、家数二六・人数七五。近世後期には机組に属した。明治一〇年(一八七七)江崎村と合併して箙村となる。産土神貴船神社(通称寄神)は雷神・風神・水神を祀る。ほかに地域中央に観音堂、丸山の頂上に愛宕社、北畠に阿弥陀堂などがある。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]豊栄市平林
現市域の南端にあり、東は堀田村、駒林村(現北蒲原郡京ヶ瀬村)、北は山飯野村。近世初期から存在したと思われるが、一貫して郷帳類には村名がでない。慶安元年(一六四八)の開発という伝承がある。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一〇・人数八九とある。享保一九年(一七三四)には新発田領岡方五三ヵ村のうちの一村で、同時期の新江方心得書之事(豊栄年表資料)によれば新江用水が通り、「平林より金淵へ往来橋辺床巾弐間 高森村迄」と記され、明和四年(一七六七)の所々橋々覚書帳(同資料)では法柳新田橋(現京ヶ瀬村)から平林往来橋まで四八〇間「此間底樋 分水三ケ所有」とある。
平林村
ひらばやしむら
日野山の北麓にあり、西谷村と荒谷村との間に突出した丘陵の先端に位置する。中世の西谷庄内の一村で、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でも、西谷庄に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時土岐頼殷領となるが、享保六年(一七二一)以降鯖江藩領。
享保六年平林村明細書写(河端家蔵)によれば、田方一九町三段余で三二四石余、畠方九段余で一四石余。家数四四(うち本百姓二四・水呑二〇)・人数一七一(うち男一〇六・女六五)。馬五疋。道場一ヵ所は三門徒宗で無住。また「当村用水之儀ハ日野山谷川筋井堰六箇所御座候、内弐箇所御領内荒谷村より引取申候、(中略)此川筋荒川ニ而洪水仕候節ハ堰流崩申候、又当村御田地之儀ハ石砂ニ而御座候ニ付、日数廿日計も打続旱申候へハ旱損仕候」と記す。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]八尾町平林
百山村の南にある。元禄一一年(一六九八)の古田新田高村付改帳(前田家文書)に村名がみえ、明暦四年(一六五八)から延宝期(一六七三―八一)までに成立しており、高二三石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に村名がみえ、高二九石余。寛政二年(一七九〇)の新田高三四石余・平均免一ツ五分八厘余(高物成品々手鏡)。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]鳥海村平林
笹子川の上流、左岸の段丘上にある小村で、回りは下笹子村となっている。
元禄一〇年(一六九七)の国御絵図三枚之内生駒主殿知行所羽州由理郡矢島到米下村之図(県立秋田図書館蔵)に「笹子之内平林村新田」一二六石とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡之内知行高帳(秋田県庁蔵)には村名がなく、この間に成立したものであろう。宝暦八年(一七五八)の御領分覚書(山懐の村)に本田九八石三斗八升八合、新田二石四斗八升一合とあり、家数一六軒、人数九六人で、小名主の下に組頭二名がいた。
平林村
ひらばやしむら
[現在地名]北条市平林
粟井川の中流北岸にある山村。小川谷・麓・客の村々に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の風早郡の項に「平林村」とみえ、村高は六七石九斗三升五合、うち田方五七石四斗二升八合、畑方一〇石五斗七合とある。中世は河野氏およびその一族南氏の勢力下にあった。天正一〇年(一五八二)横山城主南通方が水論のため樫木の鼻で謀殺されたが、村内の樫木の鼻溝は客村から受ける水路で、これが争点となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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