広野村
ひろのむら
[現在地名]神山町阿野
現神山町の北東部に位置し、中央を鮎喰川が北東に向かって蛇行する。両岸に山稜が迫り、山腹とわずかな平地に集落と耕地が点在する。東は入田村(現徳島市)、南は鬼籠野村、西は阿川村、北は石井村・上浦村・下浦村(現石井町)、山路村(現鴨島町)など。上浦村へは長谷を経て曲突越の道があった。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「ひろの村」とみえる。正保国絵図では広野村として高一一一石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方四二石余・畠方六八石余、芝山・小はへ山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高四三七石余。享保九年(一七二四)の棟付帳(神山町旧村役場文書)によると高一千三三二石余、家数四九五・人数一千一四六。「阿波志」によると養瀬・須賀・馬地・地野(地野々)・川口(河口)・雨還(雨返)・大地・灘川(名田河)・臼竹(臼嶽)・方子・行者野・長谷・広野・五段地(五反地)・長瀬・田窪・宗長瀬(峯長瀬)・持部・折木・中宗(中峯)・倉目の二一名があった。
広野村
ひろのむら
[現在地名]静岡市広野・広野一―六丁目・青木・用宗一丁目・用宗巴町・港・下川原三丁目・同六丁目・桃園町
青木村の南に位置し、南は駿河湾に面する。村名は手越河原に続く広い野であることに由来するという(修訂駿河国新風土記)。戦国期は長田庄のうち。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)および永禄元年(一五五八)八月一三日の今川氏真朱印状(静岡浅間神社文書)によると、「広野」は長田庄のうちとして五年に一度、青山八幡宮(現藤枝市)の放生会流鏑馬郷役を一貫六〇〇文負担している。同一二年閏五月二日の今川氏真判物(写、記録御用所本古文書)は、三浦義次に父元辰の所領を安堵したもので、なかに広野のうち三浦長門守・平九郎に譲与した田地がみえる。
広野村
ひろのむら
[現在地名]山都町 広野・金子沢・上ノ山・蛇崩・中野・石掘古・岩淵・谷地・七十刈・町尻・広古屋敷・広葎田・三ノ宮・広川口・西原・殿戸・沢田・松ノ前・北松ノ前・田向・石打場下・中石打場・山中・中山など
木曾村の東、阿賀川北側の河岸段丘上にあり、集落は越後街道の脇道の一、陣ヶ峯峠越の道に沿って形成される。旧集落は寛文年中(一六六一―七三)に二町ほど西方から現在地に移転したとされるが(新編会津風土記)、これは陣ヶ峯峠越道の整備に伴うものと思われる。
広野村
ひろのむら
[現在地名]宇治市広野町〈一里山・岩ヶ鼻・大開・小根尾・桐生谷・新成田・茶屋裏・寺山・尖山・中島・成田・西裏・東裏・風呂垣外・丸山・宮谷〉
市域南端に位置する。宇治丘陵西端付近を南北走する奈良街道に沿う街村を中心集落とする。村域は東北は宇治郷に、北は小倉村飛地・伊勢田村に、西は大久保村と林村(現久世郡久御山町)に、南は久世村(現城陽市)に接し、東方の一部は白川村と境している。
広野村は、古くは大久保村域であったと考えられている。慶安二年(一六四九)淀藩主永井尚政が、広野村域の西部にある奈良街道と大和街道の分岐点を中心とする路傍に民家を移して新田集落を形成、大久保新田とよばれ、独立して広野新田村または広野村とよばれるに至った。
広野村
ひろのむら
[現在地名]与板町広野
吉津村の南、黒川右岸の沖積低地に位置し、南東は成沢村(現長岡市)、西は爪生村(現三島町)。天保郷帳には吉津村枝郷と記す。「三島郡誌」は元和四年(一六一八)から長岡藩領と伝えるが、同年および同六年の長岡藩知行目録には記載がない。明暦二年(一六五六)の長岡藩の検地では東西四町余・南北約三〇町。耕地反別は田一三町三反余・畑三七町余・宅地七反余で、他は荒蕪地。村高三六石余。人家二九。用水は古志郡福戸(現長岡市)と共同で菖蒲川に幅九間四尺の草堰を設けて取水し、高野村(現長岡市)を経て引水。用水延長一千一〇〇間、幅九尺・深さ四尺であった(三島郡誌)。
広野村
ひろのむら
[現在地名]上市町広野
野島村の北、上市川中流の台地上に位置する。この地域は広い曠野であったので広野と称したという(越中志徴)。寛永一九年(一六四二)十村江上村平次郎らが開発、村立てされ、横道・四ッ屋・北組・眼目組の小名が散在したという(同書)。また当地香積広野神社の由緒には文禄年間(一五九二―九六)に当村の耕地開墾の際創立とあり、一六世紀から徐々に開墾が始まっていたことがうかがわれる。
広野村
ひろのむら
[現在地名]和知町字広野
出野村の西南、由良川南岸に位置する。西隣の何鹿郡山家村(現綾部市)を通って船井郡内に入った田辺―京街道は、村内で出野村からの道を合わせ大簾川をさかのぼって草尾峠に向かう。河岸付近以外は山地で、広野・草尾・大成・立木の四集落に分れる。東は稲次村、南は草尾峠を越えて水呑村(現瑞穂町)、西は何鹿郡。
広野村
ひろのむら
[現在地名]嵐山町広野・川島
杉山村の東、市野川支流粕川流域の丘陵・低地に位置する。北は勝田村。地名は広大な荒野、未開発の野原・耕地の意とされるが(嵐山町誌)、文政四年(一八二一)の村方古物改口上書写(永島家文書)によると、当地の領主であった高木九之助広正が開基となった地内広正寺の一字、広をとったものともいう。松山領に属した(風土記稿)。
広野村
ひろのむら
[現在地名]白鷹町広野
浅立村の北、最上川右岸に位置し、西方対岸は高玉村、東は畔藤村。慶長年間(一五九六―一六一五)に開削された諏訪堰の通水により、畔藤村地内の荒地(藪地)を開いて成立した新田村で、開発者としては山口掃部説、新野清右衛門説など様々で、開発年度も慶長年間から寛永年間(一六二四―四四)まで諸説ある(白鷹町史)。寛永一四年の検地帳写(新野文書)では高六八一石余、反別は上田二二町三反余・中田五反余・下田三反余、上畑一五町八反余(うち青苧畑三町六反余)・中畑一〇町九反余・下畑一二町九反余、屋敷三町三反余(五〇軒分)、村内には下長井代官寺島喜左衛門の開地(一三石余)や荒砥在番衆の開発地もみられる。
広野村
ひろのむら
[現在地名]今庄町広野
日野川の上流にある山間村。北西下流は橋立村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三尾川内に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方九二石余・畠方五三石余。福井藩領。「越前国名蹟考」は枝村として二屋を記す。広野の上流黒谷山(六三四・四メートル)の北麓にあり、四周を山に囲まれ、東は大河内村に通ずる。ここに夜叉竹の密生する所があり、同書に「夜叉竹 渓間に生する小竹の紫斑点あるものなり、筆軸として公儀へも献せられしなり」とある。昭和五一年(一九七六)広野ダムが竣工して水没した。
広野村
ひろのむら
[現在地名]白川町広野
白山の南西麓、標高約五〇〇メートルの高原にあり、大山白山神社の登山道が村の中を走る。北は宇津尾村、東は若松村、南は和泉村、西は葛牧村。慶長郷帳では高五一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では遠山友政(苗木藩)領で、以後幕末まで同藩領。正保郷帳では田方三一石余・畑方一九石余とある。宝暦七年(一七五七)の広野・若松村御年貢紙割賦帳(西野文書)があり、広野村の一八名、若松村の一二名に紙が割付けられている。
広野村
ひろのむら
[現在地名]三田市広野
下内神村・上井沢村の北、武庫川左岸の河岸段丘に立地する。地内で相野川が武庫川に合流する。武庫川沿いに「右たんば 左清水」の道標が残り、丹波への道が通り、播磨清水寺(現社町)への巡礼道が分岐していた。慶長国絵図に広野村とみえ、高二二〇石余。正保郷帳では高三五〇石余。天保郷帳では高三六五石余。
広野村
ひろのむら
[現在地名]打田町広野
赤尾村の南に位置する小村で、西から南は打田村。慶長検地高目録では村高二一三石余。田中組に属し、元禄二年(一六八九)の田中組指出帳(田中家文書)によると田方二〇七・五三三石(一三町八反余)、畠方五・五三六石(三反余)、家数一九、人数一四二、牛七。延享元年(一七四四)の田中組大指出帳写(桂原家文書)では家数一九(本役一四・半役二・庄屋一・肝煎一・あるき一)、池二(出山池・新池)、岩出(現岩出町)・麻生津(現那賀町)・竹房の渡船代として合せて米二斗三升、麦一斗五升を出すとある。
広野村
ひろのむら
[現在地名]亀岡市畑野町広野
千ヶ畑村の西にあり、北は山を境に船井郡と接し、西は土ヶ畑村へ通じ、南は摂津国能勢郡宿野村(現大阪府豊能郡能勢町)へ通じる。土ヶ畑村から東流してきた大路次川が村内で南方に流路を変える。
天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高六九石、戸数一五、園部藩領。
広野村
ひろのむら
[現在地名]森田村上相野
田圃を隔てて東南は栄田村支村の笹木。
享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、木造通三五ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて五町九反六畝二歩、村高は三四・三四石であった。うち田方は四町三反一畝二五歩で三〇・三二二石、上田から下々田まで設定され、上田を除きほぼ一町余の同面積であり、畑方は上畑がなく中・下・下々畑で屋敷地を含めた合計が一町六反四畝七歩、四・〇一八石とある。
広野村
ひろのむら
[現在地名]大方町浮鞭
元禄郷帳・寛保郷帳・天保郷帳にはみえるが「土佐州郡志」「南路志」には記載されない。両書が記す鞭村の石高からみて、同村に含まれていたようである。天正一八年(一五九〇)の入野七郷内地検帳に「弘ノ村」「弘之ノ村」とみえ、検地面積は一八町余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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