慈雲寺(読み)じうんじ

日本歴史地名大系 「慈雲寺」の解説

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]下諏訪町東町

諏訪大社下社春宮の東隣にあり、丘陵を負い、前面に下諏訪の街及び諏訪湖を一望する。山号は白華山。臨済宗妙心寺派で、本尊は千手観音

開創については、「雪村大和尚行道記」によれば、正安二年(一三〇〇)五月下社大祝金刺満貞が一寧一山を請じて開山とした。創設の当時から鎌倉五山・十刹に次ぐ諸山の列に入った。第三世は雪村友梅で、元徳二年(一三三〇)四月、「偶信州諏訪郡慈雲寺新寺席ヲ虚シウス、郡守金刺氏一了、国師開山ノ場ナルヲ以テ、師至ルヲ喜ビ以テ懇請ス」(同書)とある。

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]茨城町下土師 新地

息栖いきす神社の北隣にある。曹洞宗で法雨山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝によると正平七年(一三五二)南朝落武者の開基という。古くは下土師の小山台しもはじのこやまだいにあったが、貞享二年(一六八五)すべてを焼失。のち本多土佐守の援助を受け、愚融が殿堂を修復。延享五年(一七四八)悟空のとき、祇園ぎおん(現水戸市八幡町)の末寺となった。宝暦六年(一七五六)に大般若経二〇〇巻、同七年には四〇〇巻を宝蔵ほうぞう院一切経印房より買求めたという。

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]由宇町大字由宇 上北

由宇川の北岸上北かみきたにあり、臨済宗天龍寺派。潮音山と号し、本尊は聖観音近世は岩国永興ようこう寺末。古くは慈雲院と号した。

寺伝によれば、山口(現山口市)の大内弘家は信仰心が厚かったが、正安二年(一三〇〇)に没し、法名を慈雲院殿月山円洋居士と称した。その曾孫弘世は先祖を供養するために、諸所の古寺廃寺再興したが、兄のために瑞雲ずいうん(現柳井市)、父のために永興寺、祖父のために乗福じようふく(現山口市)をそれぞれ再興したが、曾祖父弘家のために貞治六年(一三六七)この地にあった真言宗不動院の古跡を修理、法名をもって寺号として、天龍寺(現京都市右京区)第二世普明国師を招いて開山とし、臨済宗に改めた。

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]塩山市中萩原

中萩原なかはぎわら地区の北西部にある。天竜山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は聖観音。暦応年間(一三三八―四二)に夢窓疎石の開創と伝え、創建時は鎌倉建長寺末であった。以後衰微し、寺歴は未詳であるが、慶長年間(一五九六―一六一五)雲山により再興され、京都妙心寺派に転派したという(寺記)江戸時代には黒印寺領七反四畝余を与えられ、末寺心華庵・獅子庵があった(甲斐国志)。天保年間(一八三〇―四四)一〇世白巌は境内に私塾を開いて地域の子弟の教育に努め、中萩原村出身の樋口一葉の父大吉もここに学んだという。明治一七年(一八八四)この私塾は里仁りじん学舎と命名され、同三八年文部省から私立学校の認可を受け里仁学校と改称、第二次世界大戦後まで存続した。

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]松江市和多見町

売布めふ神社の南西に位置する。啓雲山と号し、日蓮宗。本尊は十界曼荼羅。天正二年(一五七四)身延山久遠くおん(現山梨県身延町)一七世の慈雲院日新を開祖として富田とだ(現広瀬町)に創建されたという。堀尾氏による松江開府に際し、当寺三世日勤の代に当地に移転し、堀尾氏家老の一人牧志摩が堂宇を建立した。正徳三年(一七一三)に焼失し、伯州米子感応かんのう寺住職日亮を招請して本堂の再建を図り、享保元年(一七一六)竣成

慈雲寺
じうんじ

[現在地名]大子町町付

八溝やみぞ川の左岸に位置する。真言宗智山派で金剛山千手院と号し、本尊は千手観世音菩薩。寺伝によると仁平二年(一一五二)意教の開山。寺格は檀林に準じ、江戸時代には朱印地のほか徳川光圀から二五石余の除地が与えられたという。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)によると開基は文明五年(一四七三)で、朱印地一〇石余、末寺二一ヵ寺、寺徒七六ヵ寺、檀那一二三を有し、「新編常陸国誌」によれば末寺二四ヵ寺、門徒九ヵ寺、又末寺一四ヵ寺、又門徒三四ヵ寺、曾孫門徒三ヵ寺、地中二ヵ寺を有した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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