日本大百科全書(ニッポニカ) 「慧遠(隋時代の僧)」の意味・わかりやすい解説
慧遠(隋時代の僧)
えおん
(523―592)
中国、南北朝から隋(ずい)にかけての地論宗南道(じろんしゅうなんどう)派の学僧。俗姓は李(り)氏。上党の高都(山西省沢州)の出身。13歳で出家、のち東魏(ぎ)の都の鄴(ぎょう)に行き、法上(ほうじょう)(495―580)に就いて『十地経論(じゅうじきょうろん)』を中心とした教学を修めた。その後故郷の沢州で研究講説していたが、北周の武帝の破仏にあい、その際、武帝に対してひとり慧遠のみが、三宝を破壊することは地獄に落ちる仕業であるといさめた。隋の文帝(楊堅(ようけん))は慧遠のために長安に浄影寺(じょうようじ)を建て、以来そこで講説し、示寂したので浄影寺慧遠と称する。沢州に住したころから多くの弟子があり、智顗(ちぎ)や吉蔵(きちぞう)とともに隋の三大法師とよばれる。著作も多く現存し、『大乗義章(だいじょうぎしょう)』26巻はその主著である。
[吉津宜英 2017年1月19日]
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