成就院(読み)じようじゆいん

日本歴史地名大系 「成就院」の解説

成就院
じようじゆいん

[現在地名]岡崎市吹矢町

菅生すごう川南岸の河畔に立地。瑠璃山と号し、曹洞宗寒厳派。もと滝の万松たきのばんしよう寺末。本尊一光三尊阿弥陀如来。万松寺の開基でもある竜沢永源の開基である。文明九年(一四七七)の創建というが、成就院縁起(成就院蔵)や「三州滝村慈応山万松寺開闢之次第」などに、寛正年中(一四六〇―六六)ともある。右縁起などによれば、古くは冷泉寺と号し、浄瑠璃姫の旧跡で尼寺であったという。兼高長者の娘浄瑠璃が義経との再会に絶望して菅生川に身を投げたあと、侍女冷泉(十五夜ともいう)が姫の菩提を弔うため結んだ庵室と伝える。冷泉は一光三尊如来善光ぜんこう寺分身像を本尊としたが、その後堂宇も破壊し旧跡のみ残った。


成就院
じようじゆいん

[現在地名]池田町大字広津 平出

来鳳山と号し、曹洞宗に属し、聖観音坐像を本尊とする。寺地は東南に展望の開けた山腹に位置し、三方に山を背負う。

成就院の寺伝によれば、天文年間(一五三二―五五)日岐ひき城城主丸山肥後守盛慶によって中興され、大沢だいたく寺末寺となったといわれているが、その創建は少なくとも中世後期の初頭まではさかのぼるものとみられ、仁科氏がさい川筋に進出するようになってから、一族である丸山氏を配して氏寺としたものと考えられる。


成就院
じようじゆいん

[現在地名]鎌倉市極楽寺一丁目

極楽寺坂ごくらくじざか切通の真上にある。真言宗大覚寺派、普明山法立寺と号する。本尊は不動明王立像。もと手広青蓮てびろしようれん寺末。元文六年(一七四一)の「成就院略志」によると、承久元年(一二一九)一一月二一日、空海が護摩をたいた霊跡に北条泰時が創建したと伝え、皇国地誌は辰斎の開創という。「風土記稿」によれば元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の鎌倉攻めで兵火に遭い、一時西にしやつへ移ったが元禄年中(一六八八―一七〇四)に祐尊が旧地にもどして再興したという。


成就院
じようじゆいん

[現在地名]高野町高野山

釈迦文しやかもん院の南、旧修禅しゆぜん院の跡地に昭和五年(一九三〇)に移建再興された。本尊地蔵菩薩。古くは行人方の一院で、蓮華れんげ谷にあった。文化一〇年(一八一三)高野山細見絵図は、東流する流れの南側、知識ちしき院東隣に描く。開基は不詳であるが、文明五年(一四七三)の諸院家帳にも院名がみえ、「続風土記」には「中興覚和阿遮梨は神府聡利にして一時の優匠たり、後覚能といふものあり、都率内院に生せん事を祈られしか、終焉の時香気室内に盈ちしといふ」とある。


成就院
じようじゆいん

もと清水寺の勧進坊で、現在の本坊。大同二年(八〇七)の創建と伝え、本願ほんがん寺と号し、永正七年(一五一〇)後柏原天皇の勅願寺となった。寛永六年(一六二九)類焼、東福門院の命で再建。清水寺境内朝倉あさくら堂再建の際出土した石棺内の観音菩薩像を本尊とし、後水尾上皇参拝もあった(坊目誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「成就院」の解説

成就院

(神奈川県鎌倉市)
かながわの花の名所100選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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