扶余(大韓民国)(読み)ふよ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「扶余(大韓民国)」の意味・わかりやすい解説

扶余(大韓民国)
ふよ / プヨ

韓国(大韓民国)、忠清南道を蛇行する錦江(きんこう)下流の平野部にある扶余郡(面積624.48平方キロメートル、人口8万3571、2000)の邑(ゆう)(町)。人口2万7109(2000)。百済(くだら)の故都として知られる。百済は高句麗(こうくり)の南下に押されて、都を漢城(ソウル付近の京畿(けいき)道広州)から熊津(ゆうしん)(忠清南道公州)に移した(475)が、聖明王16年(538)に錦江をすこし下ったこの扶余(当時の泗沘(しひ)あるいは所夫里(そふり))にふたたび遷都して、国号も南扶余と改めた。以後、扶余は、百済が唐と新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされる660年まで約130年間、国都として文化が花開いたが、百済が滅びるや、唐の将軍劉仁願(りゅうじんがん)はここを拠点に、熊津など5か所に都督(ととく)府を設け、百済の故地を支配した。まもなく鬼室福信(きしつふくしん)らが、百済再興の兵をあげて失敗すると(662)、新羅がかわって百済の故地を収め、扶余を所夫里州とした(671)。いまの扶余邑内には、百済時代の遺跡が数多くあり、遺物の多くは、国立扶余博物館に保管されている。

 郡内の丘陵には、聖興山城をはじめ山城が多く残り、邑内の扶蘇山(ふそさん)城の軍倉址(ぐんそうし)からは、炭化した穀物が多量に発見されている。また劉仁願の軍功を刻んだ「唐劉仁願紀功碑」が博物館の前庭に立ち、定林寺址の五層石塔の下段には「唐平百済碑」の文が陰刻され、これら3点は百済の亡国の歴史を今日に伝えている。ほかに定林寺址には、石仏坐像(ざぞう)が塔と面して立ち、陵山里には壁画をもつ王陵が多い。

[浜田耕策]

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