自分が育てなければならない子どもを人知れず捨てること。また,その捨てられた子どもをいう。
《令集解(りようのしゆうげ)》(戸令)には,養子の相続分規定に関連して捨子の法的位置が論じられている。実質的な養子の仮装としての捨子は,古代から比較的近年まで存在した。また,親の年齢から生児の不祥をみていったん子を捨てて拾わせたうえで育てる風習があり,あらかじめ拾い手が特定されている捨子も多かった。だが,少なくも京都などの都市では,完全な遺棄としての捨子も古代にあり,そのいくらかは悲田院に収容されたが,野犬の餌となるなどの運命をたどった例も記録される。乳幼児だけでなく,病者を家の内で死なせることを嫌って路上に遺棄することもしばしばみられ,その禁令は,1261年(弘長1)の鎌倉幕府法にもみえるが,実効度はおぼつかない。とはいえ,譜代下人がひろく存在した社会では,幼児にも将来の労働力としての価値が認められ,その売買もあったから,完全な遺棄としての捨子が,平常時にひろくみられたとは思えない。戦乱・疫病流行・飢饉などの災害時は,この限りでなく,また,譜代下人層をかかえる親方層の庇護(ひご)と支配とを離れた都市細民のあいだに,遺棄としての捨子が早く生じていったと思われる。
小農自立の傾向が進み,成長過程の小農家族が乳幼児養育の責任を負い,一方,下人の主人への永続的な労力提供が保証されず,幼児売買が買い手に利益をもたらさなくなる状況が,遺棄としての捨子を増加させる。近世都市はとくにその多発地となった。17世紀末,生類憐みの令のなかで,捨子禁令が大きな位置を占めるのは,この条件による。幕法をうけた諸藩でも,捨子の養育を命じ,子を捨てた者の処罰を強化した例が多い。処罰例から知られる捨子の実態は,未婚の奉公人や都市細民の出生児のほか,農村でも例が少なくないが,直接生児を遺棄する例より,若干の養育料をそえて里子に出す困窮者に対し,養育料をとって子を捨てる者が,獄門などの重刑に処せられた例が目につく。この種の営利捨子者の厳罰以外には,捨子発見地の住民に養育の義務を負わせるのが,多くの捨子禁令の実態であった。捨子が見いだされた町村住民の養育負担法は以後も問題となったが,この負担を避けるため,住民自体が他所から子を捨てにくる者への監視を強めることになり,かえって人目につかぬ地への,拾い手を期待できない捨子を増加させた。捨子と迷子との区分も問題となり,幕法では歩行可能なものは迷子とした。以後,捨子養育負担問題をふくめて捨子廃絶策が論じられたが,間引きの廃絶策と共通の問題となり,人口調べの徹底と妊婦登録制を必要とするに至った。1880年の《全国民事慣例類集》では,出生後相当年月を経てはじめて社会的に登録される地が多い反面,毎月懐胎者調べを行う地もみえる。第2次大戦前の体制では,戸籍の整備,刑法遺棄罪の規定があり,堕胎の取締りが強化されたが,捨子の変型としての一家心中事件も,ときにみられた。
執筆者:塚本 学
《帝国統計年鑑》によれば,明治初中期の日本には捨子が多く,1885年(明治18)には1364人の捨子がなされ,以後徐々に減じたが今日なみの100人前後に落ち着くのは大正末年以降である。当時捨てられた子供は養育棄児(きじ)と称し,通常裕福な家に預けられ自治体などから養育米が支給された。明治20年代まではこうした捨子が全国に累計で5000人を超えていた。捨子は死んで見つかる場合もあるが,基本的には間引きや堕胎と違いその死を望むものではなく,親権や扶養義務を一方的に他人に移す行為であり一種の養子入りの方法ともいえる。かつての子育ては子守親や宿親など多様な仮親(親子成り)の慣行があり,また自家で育てると軟弱になるとして里子や見習奉公に出す習慣もあり,生みの親が全責任を負うものではなかった。また当時の家は労働力としてのもらい子や養子奉公人のみならず住込み奉公人や徒弟などを多数かかえており,捨子を受容する基盤として非親族員を取り込む開放的な〈家〉が存在した。捨子の減少と相反して大正末期以降親子心中が急増するが,これは親のみ自殺することが捨子と同じくわが子を見捨てる非情な行為とみなされるようになったこと,すなわち子育てをすべて生みの親の責任とみる育児観の変化と,血縁者のみで構成されるに至った家の閉鎖化にかかわっている。
こうした現実の捨子とは別に,日本には一時的に子供を捨てる儀礼的な捨子の習俗がある。四十二の二つ子などといって親の厄年に生まれた子供や,鬼子と称し歯の早く生えた子や異形な容姿をした子供,また病弱な子や子育ちの悪い家の子供などを辻や川に捨て,あらかじめ頼んでおいた知人や通行人に拾ってもらい再びそれを実の親が引き取るものである。この拾い手を拾い親・辻親と呼び,仮親の関係を結んで命名や将来の庇護を依頼したり,捨松など子の名前に捨の字を付けたりする場合もある。この習俗は厄など親の悪条件が子に移らぬようかりに親子の縁を切り子どもの健全な成育を願った呪的な儀礼であるが,また捨てられる子供はいずれも普通の子どもとは何かしら異なったスティグマ(聖痕)を負った者たちであった。記紀の創世神話にも伊弉諾(いざなき)尊・伊弉冉(いざなみ)尊二神の誤りの結果蛭子(ひるこ)が生まれて捨てられる記述があるが,かつては異常な出誕・成長が親や先祖の業報の表れと観念されたに違いなく,また子供をかりに捨てる際,赤い服を着せて箕(み)や桟俵(さんだわら)に乗せ捨てる方法は疫病送りの形式に類似している。つまり捨子とは,家の災いを取り除く一種の厄落しとしてその繁栄を保証する贖罪であったともいえる。こうした意識は現実の捨子にも潜在化していよう。
なおギリシア神話のゼウスをはじめ,世界の多くの民族が神話や昔話として一種の捨子譚を語り継いでいるが,日本でも蛭子に限らず《熊野の本地》や武蔵坊弁慶,役行者(えんのぎようじや),伊吹童子,金太郎,頭白上人の話など,山中に捨てられた子どもが山姥(やまうば)や動物に育てられ,成長後異能を発揮して活躍する一連の類話があり,また酒呑童子(しゆてんどうじ)の原義を〈捨て童子〉とする説もある。
執筆者:岩本 通弥
未成年の子に対して面倒をみる責任のある者から遺棄され,保護を必要とする状態にある子をいい,身元の明らかなものと身元のわからない棄児(きじ)の2種に分けられる。
棄児とは出生直後とか幼少にして捨てられたなどの理由により,子の身元が判明しない子をいう。棄児をみずから管理する場所内で発見した者にはその旨を警察官など公務員に届け出る義務が課され(軽犯罪法1条18号),または24時間以内に市町村長へ申し出るべきものとされている(戸籍法57条1項,なお児童福祉法25条参照)。また警察官は棄児をみずから発見したり棄児の通報を受けた場合には,その旨を24時間以内に市村町長へ申し出ねばならない(戸籍法57条1項)。市町村長は子に氏名をつけ,本籍を定め,推定出生年月日,性別,発見の日時場所,発見状況など関連情報をまとめ棄児発見調書を作るものとされ,この調書は出生届とみなされる(同条2項)。棄児が言葉や身体上の特徴から日本人の子と推定しにくい場合でも,想定される父母の国籍にかかわりなく日本国民として新戸籍が作られることになる(国籍法2条4号)。棄児に新戸籍が作られたのち,父母の存在が判明したときには,父母は1ヵ月以内に出生届をして子の戸籍を訂正することを要する(戸籍法59条)。この場合,子は父もしくは母の氏を名のるが,市町村長により付けられた名は残さなければならないので,名の変更を希望する場合には所定の手続がとられねばならない(107条2項)。また,父母から出生届がなされていたなど子の身元が判明したときには,棄児として作られた新戸籍は抹消され,子は本来の氏名を有する者として扱われる。棄児の扶養義務ある者が明らかになった場合には,子の養育などに要した費用は義務ある者から徴収され,もしくは被保護者である子本人から徴収されることがある(児童福祉法56条)。
明治政府は幕藩体制下での捨子救済の慣行を引き継ぎ,1871年(明治4)棄児養育米給与方(太政官達第300号)を定め,町村が捨子を第三者に委託養育する場合や個人に養い子として保護を託するときには,子が15歳(のちには13歳)になるまで養育米を官給することとした。棄児養育米給与方は,恤救(じゆつきゆう)規則とともに捨子の救済を図ったが,公的扶助責任を回避しようとする政府の姿勢のため十分な保護は期待できなかったといわれる。捨子の面倒みは個人による救済のほか,明治10年代より経済変動,自然災害による捨子の増大とともに,宗教団体を基盤として創設された保護収容施設により主としてなされてきた。第2次大戦後,児童は健全な発育を保障される主体であるとされ,捨子は施設収容,在宅収養の保護が用意されている。捨子が発見されると児童相談所長により保護の通知をうけた都道府県知事は子を乳児院,児童養護施設,他の児童福祉施設へ収容させ,子の面倒をみさせることができる(児童福祉法25条,25条の2,26条,27条)。また都道府県知事が必要と認める場合には子を里親の下で養育させることもできる(27条)。施設に収容された子には施設の長が親権を代行することができ(47条),里親の下におかれた子には後見人をたてることができる(33条の6)。
捨子は基本的人権を保障されることになっているが,就学,就職などの点で不利益を受けることが多いばかりでなく,成長後も生活上の困難が生じた場合,適切な相談援助の相手を見つけにくいという問題がある。また本来の捨子とは形態を異にするが,父母が揃っている家庭内でも養育・教育・精神的つながりを十分受けられない家庭内捨子の状況がみられるようになってきた。
執筆者:南方 暁
親が子を捨てるという行為は,ヨーロッパ文明において,つねに規範に反するものとみなされていたわけではない。たとえば,古典古代では,生児遺棄は深い罪の意識なしに行われていた。アリストテレスは奇形児の養育を禁ずる法が必要であると明言し,スパルタのように,虚弱児の場合にも,部族の長老の審査を経たのち遺棄されるのが慣行となっていたポリスもある。古代の宗教感情から奇形児は怪異なるものとみなされ,虚弱児は戦士共同体としてのポリスの成員となるにはふさわしくない存在と考えられていたのである。いかなる事情があろうとも生まれた子どもは生命ある存在として尊重されねばならないという考えは,ストア派の哲学,そしてとりわけキリスト教の信仰によってもたらされた。
中世以降キリスト教の浸透にともない,生児遺棄は教会によっても,また世俗権力によっても禁じられるようになった。しかし,社会的淘汰の考えは後退したものの,貧困あるいは婚姻外出生など社会的原因にもとづく捨子の数は,依然高い水準にあった。避妊も堕胎も禁じられ,間引きの慣行も許容されることがなかったヨーロッパ社会では,養育困難の状況におかれた親は,捨子に抜け道を求めたのである。これに対し,たとえばフランスでは,1556年のアンリ2世の王令が死罪をもって報いると規定しているが,この厳罰をもってしても,夜陰に乗じ教会の入口や産婆の家の門前に置去りにされる捨子をなくすことはできなかった。こうしたなかで,バンサン・ド・ポールは慈愛会の修道女とともに捨子の救済に努め,やがてパリをはじめ各地に〈捨子養育院〉が設立されるに至る。パリの養育院には,地方からも,手数料をとる運び屋によって捨子が運び込まれ,1670-1791年の間に捨子の受入れ数は25倍にも達した。最高の1772年には7676人という驚くべき数を示している。養育院の入口には〈回転箱〉が設けられ,外側から入れて回せば顔を見られずにすむシステムになっていたことも,捨子の数をふやす原因となった。ルソーがテレーズとの間に生まれた5人の子供を次々と捨子にしたことはよく知られているし,《百科全書》の編者の一人ダランベールも路上に置き去られた捨子であった。捨子には私生児が多かったことは確かだが,20~30%は嫡出子であったと推定されており,のちに引取りを願う親の例もある。捨子は養育院に収容されても,その死亡率は異常なまでに高い。養育院自体過密状態であったし乳母の数も少なかったから,収容された捨子はほどなく地方の里親に託されたが,その養育条件も劣悪であり,誕生後1年以内に50~90%もが死亡してしまう。養育院はまさに底なしの深淵の趣を呈していたといえよう。フランス革命とともに養育院は国家の施設となり,捨子は〈祖国の子ら〉と呼ばれるようになるが,革命の混乱のなかでその数はふくれあがるばかりとなり,再び19世紀の慈善施設に引き継がれることとなる。
執筆者:二宮 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…ヨーロッパ世界でも,すでに古北欧のエッダやサガに氏族仲間が貧窮化したり,病気になったときに助け合う習慣があったことが描かれているし,中世の領主制のもとでも領主は領内に居住する者の病気や老衰,事故の際に世話をする義務を負っていた。捨子や孤児を養育する義務も原則として領主にあった。 キリスト教の浸透とともに慈善事業のあり方に大きな変化が生じ,独特の慈善・善行charity,caritasの考え方が確立される。…
…この名称で総括したひとつの幕法は存在せず,その趣旨の法や措置をよぶため,始期についても諸説がある。1685年(貞享2)7月将軍家御成先で犬猫をつなぐに及ばずとし,9月馬のすじをのばすことを禁じ,11月将軍家台所での魚貝類使用をやめる等の措置を早い例とし,87年正月捨子,捨病人,捨牛馬をきびしく禁じて以来,格別に強化されたとするのが通説に近い。綱吉将軍就任の1680年(延宝8)からこの時期までの施策に対して,生類憐み政策の強化は,綱吉ないし生母桂昌院,寵僧隆光らの個人的嗜好による退廃政治とする見解が古くからあり,無主犬のいたわり令,犬毛付帳の作成等を経て,95年(元禄8)江戸中野犬小屋の設置にいたる犬愛護令の異常さと,これへの反感の記録とが,この印象を強めた。…
…夜番人は,夜10時から明方6時まで木戸を閉じ,1時間ごとに町内を巡回した。捨子の多いのは夜番人の怠りゆえであると戒められているので,盗みや火災への警戒に加えて,捨子の防止も彼らの役目の一つだったことがわかる。夜番人は町に雇われ,給銀や町儀(ちようぎ)の際に祝儀を与えられていたが,昼間は別の仕事をもっている者もいた。…
※「捨子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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