改訂新版 世界大百科事典 「日〓宗」の意味・わかりやすい解説
日宗 (にちれんしゅう)
古くは〈法華宗〉〈日蓮法華宗〉などとも称した。日蓮を宗祖とする仏教の宗派の総称だが,現在では山梨県身延久遠(くおん)寺を総本山とする日蓮宗の代表的一派の名称でもある。1253年(建長5)日蓮は法華信仰弘通(ぐづう)を開始した。教団ではこの年を日蓮宗開宗の時としている。日蓮在世中,原初的教団が形成されたが,その教団的展開は鎌倉時代末期からである。1282年(弘安5)日蓮は日昭,日朗(にちろう),日興(につこう),日向(にこう),日頂,日持(にちじ)の本弟子6人(六老僧)を指定,このうち日昭が浜(はま)門流,日朗が比企谷(ひきがやつ)門流,日興が富士門流,日向が身延門流を形成,これらに日蓮没後僧となった富木常忍(ときじようにん)(日常)の中山門流が加わる。中世日蓮教団の実体はこの門流であった。諸門流は互いに対立と協調をくり返し,門流自体にも教線伸張の必然的結果として,既成門流のあり方への批判や教義上の対立などから派出現象も生じた。
東国を基盤とした日蓮宗も南北朝時代には京都に進出,京畿,西国にも教線を伸張した。京都では比企谷門流から出た日像(にちぞう)の四条妙顕寺を中心とする四条門流と,日静(にちじよう)の六条本圀(ほんこく)寺を中心とする六条門流とがあり,さらに前者からは日隆(にちりゆう)が尼崎本興寺と京都本能寺を中心とする日隆門流(現,法華宗本門流)を,次いで日真が本隆寺を建立して日真門流(現,法華宗真門流)を,後者からは日陣が分立して日陣門流(現,法華宗陣門流)を形成した。中山門流からは先に日什(にちじゆう)が独立して妙満寺を中心に日什門流(現,顕本法華宗)を開き,日親が本寺のあり方にあきたらず,本法寺を中心に関西中山門流のもとを築いた。京都日蓮宗は公家・武家ばかりでなく,町衆の帰依を受け,その勢力を増大し,戦国争乱のなかで法華一揆を結び,一時期は京都に自治的状態を実現したが,1536年(天文5)既成教団・戦国大名の連合軍に襲撃され,壊滅状態におちいり京都を追放され,やがて復帰をゆるされた。この間,教学的には,《法華経》全体を肯定して本迹一致とする立場と,とりわけ本門を重視して本門・迹門に勝劣ありとする立場とに分かれている。
近世初頭にいたり,日蓮宗は近世政権のもとにくみふせられていく。まず織田信長による安土宗論の敗北の結果,それまでの折伏(しやくぶく)から摂受(しようじゆ)への転換を余儀なくされ,次いで豊臣秀吉,徳川家康による不受不施と受不施との分裂と受不施派の正統派的位置づけがなされ,17世紀後半,不受不施派は地下に潜行した。一方,興学の機運がおこり,檀林(だんりん)が諸方に開設され,門流を越えた交流が行われるとともに,身延を中心とする全国的教団体制も築かれていった。日蓮に対する祖師信仰がいっそう高揚し,寺檀関係とは別に講中の結成や諸寺の居開帳(いがいちよう)・出開帳が行われた。さらに古活字・整版による日蓮の遺文・伝記や教義書が出版され,庶民の識字能力の向上はこれらを消化し,近世後期・幕末にいたって在家仏教運動をおこしていった。松平頼該(よりかね)の八品(はつぽん)や長松日扇の仏立講(ぶつりゆうこう)(現,本門仏立宗)がそれである。明治維新期にいたり,日蓮宗諸派は一致派,勝劣派のいずれかに所属したが,1876年一致派は日蓮宗を公称することになり,勝劣派は別立してそれぞれの宗名を公称し,現在にいたっている。
執筆者:高木 豊
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