[ 一 ][ 一 ]が風光美、なかでも月の名所として歌や句に見えるようになるのは、「源氏物語」の、光源氏が明石君を尋ねる八月十三夜の月の描写による影響も考えられる。
兵庫県南部,明石海峡に臨む市。1919年市制。人口29万0959(2010)。大阪湾の西の玄関として,また淡路島を経て四国への連絡路として古くからの要地である。また風光明美の地として知られ,江戸時代は小笠原氏10万石の城下町として栄えた。山陽本線明石駅の北に接する明石城跡は広大な明石公園となっている。駅南の旧城下町地区は第2次世界大戦の戦災でおもかげを失ったが,現在でも東播の商業の中心である。山陽新幹線西明石駅がある。市域中部の林崎一帯は大正期に工業化が進み,西部の大久保は昭和に入って航空機をはじめ軍需工業が発達した。戦災で市街の60%焼失の被害を受けたが,戦後は神戸製鋼,川崎重工業などの大工場が立地し,工業都市化が進んだ。しかし最近は丘陵地の開発や溜池の埋立てによる住宅団地が増え,工場跡地に巨大ショッピングセンターが開発されるなど隣接する神戸市の衛星都市としての性格が強まった。1995年の阪神・淡路大震災では死者8名,家屋の全半壊5600棟という被害を受けた。昔から明石タイやタコで有名な漁業は,水質汚濁や海面埋立てで衰えた。明石城の東に連なる人丸山上の月照寺境内に東経135°の日本標準時の子午線標柱があり,付近に1960年に子午線の標識をかねて建設された天文科学館がある。なお西八木海岸の洪積層から,いわゆる明石原人(明石人)の骨が発掘された。1998年4月世界最長の吊橋明石海峡大橋が完成,既に開通している鳴門大橋と合わせて本州四国連絡橋神戸・鳴門ルートが貫通した。
執筆者:小森 星児
播磨国の城下町。1617年(元和3)小笠原忠真が入封し,翌年幕命によって明石海峡を望む赤松山に明石城を築いた。城の南,中堀と外堀の間に侍屋敷が作られ,その南に城下町が建設された。姫路藩本多氏の客臣宮本武蔵玄信の町割図に従って,東は京口門から西は姫路口門までの西国街道沿い9丁19間半の間に,鍛冶屋町,細工町,東西魚町,東西本町,信濃(中)町,明石町,東西樽屋町の10町が造られ,明石湊が掘削された。そのために大蔵谷,中ノ庄,大明石3村の農地630石余がつぶされ,池野村は城地となったために伊川の北に移された。人丸塚と別当月照寺も侍屋敷となって城地東方の山に移された。その後18世紀初めまでに船町,戎町,東西の門の外に東西新町が成立した。以上14町と枝町25町を合わせて39町。町方人口は1721年(享保6)8922人であった。城下の東に続く大蔵谷村は兵庫と加古川へ継ぎ立てる中国路の宿駅であった。
執筆者:八木 哲浩
〈播磨国風土記逸文〉に明石の駅家に楠の大樹があり,舟を作って速鳥(はやとり)と名づけたという説話を載せる。古来多くの歌に詠まれ,月の名所である。《古今集》巻九羇旅には〈ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ〉の歌があり,柿本人麻呂作と伝える。これにちなみ,人丸山上には人丸神社(柿本神社)がある。また,《源氏物語》には〈明石〉巻があり,流謫(るたく)の光源氏が明石上(あかしのうえ)と結ばれた舞台とされている。芭蕉の《笈の小文》にここでの句として〈蛸壺やはかなき夢を夏の月〉がある。
執筆者:奥村 恒哉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
兵庫県南部にある市。東部と北部は神戸市に接し、南は明石海峡を隔てて淡路島を望む。1919年(大正8)市制施行。1942年(昭和17)林崎(はやしざき)村、1951年(昭和26)大久保町、魚住(うおずみ)村、二見(ふたみ)町と合併して西部に延び、東西16キロメートル、南北2~6キロメートルの狭長な市域となる。2002年(平成14)特例市(2015年施行時特例市に名称変更)、2018年中核市に移行。『播磨風土記(はりまふどき)』には「赤石(あかし)」と記され、『源氏物語』では「明石」が用いられている。その由来は諸説あるが、『明石市史』では赤みがかった土「赤磯(あかし)」によるとする。海岸には海食崖(がい)が形成され、そこが明石原人出土地で、アカシゾウなどの旧ゾウ化石も多く出土している。大化改新では畿内(きない)の西端を「赤石の櫛淵(くしぶち)」と定めている。大蔵谷に山陽道の明石駅家(うまや)が置かれ、また南海道の起点でその渡し場がいまの明石港付近にあった。魚住は摂播五泊の一つであった。1888年(明治21)山陽鉄道(現、JR山陽本線)が開通し、1919年山陽電鉄が敷設されると、中心街は駅南部一帯に移動する。1972年にはJR山陽新幹線が開通している。ほぼ山陽道沿いに国道2号も通り、山陽本線を挟んで国道250号が平行する。また北部を第二神明道路が走る。明石港へ向う国道28号、北上する175号がある。淡路島への定期船がある。1617年(元和3)小笠原(おがさわら)氏が移封されて築城、その南に10万石の城下町が建設された。1682年(天和2)以降松平氏の治下になり、廃藩置県で明石県を経て兵庫県に統合された。
明治末期から明石川右岸に工場が進出し工業都市化が進む。第二次世界大戦末期に7回の空襲で市街の約83%が焼失したが、戦後も西部地域への工業化は進み、鉄道、国道沿いに大企業や関連下請工場が林立し、播磨臨海工業地域に属している。二見沖の大規模な人工島は二見臨海工業団地となっている。製造品出荷額では県の第4位である(2016)。一方、ベッドタウンとして東部の明舞(めいまい)団地、西部の大久保団地など住宅建設が盛んである。明石の浜は前面に淡路島の浮かぶ白砂青松の景勝地で『源氏物語』の舞台になり、『万葉集』『古今集』などの歌にも詠まれたが、いまはコンクリートの防波堤で昔日のおもかげはない。明石城には国の重要文化財指定の巽櫓(たつみやぐら)と坤(ひつじさる)櫓が残り、城跡はスポーツ、文化施設も備えた広大な県立公園である。人丸(ひとまる)には柿本人麻呂(ひとまろ)を祀(まつ)る柿本神社があり、近くに市立天文科学館が東経135度の日本標準時子午線上に建っている。駅南の魚(うお)の棚通りは、店頭の鮮魚のように活気ある明石らしさの漂う街である。面積49.42平方キロメートル、人口30万3601(2020)。
[二木敏篤]
『『明石市史』上下(1960、1970・明石市)』▽『稲垣足穂著『明石』(1963・木村書店)』▽『『明石市史 現代編1』(1999・明石市)』
経(たて)・緯(よこ)ともに絹糸を使った縮(ちぢみ)織の盛夏用着尺地。明石織、明石縮(ちぢみ)(絹縮)ともいう。織物組織は、経糸に生糸、緯糸に練った強撚(きょうねん)糸を使う片しぼの絹縮。中国から撚糸技法が伝来し、近世初頭から各地で縮織が生まれたが、この技法は寛文(かんぶん)年間(1661~1673)に播磨(はりま)国明石(兵庫県明石市)で織り始めたと伝えられ、地名が織物名となった。京都の西陣でも織られたが、その後明石の浪人堀次郎将俊(まさとし)が、技法を越後(えちご)に伝え、麻糸を素材とする麻縮(小千谷縮(おぢやちぢみ)、越後縮)を生み出した。1887年(明治20)ごろ新潟県十日町を中心に西陣の明石織を導入し、緯糸の強撚糸と仕上げ整理法を研究して絹縮生産に成功、十日町明石の名で知られた。十日町明石は絣(かすり)から縫取りや、両しぼのものまで改良を加え、1940年(昭和15)ごろまで織られ、その後市場から姿を消したが最近わずかながら復活している。
[角山幸洋]
と記す。天正一九年(一五九一)一二月二六日付の穂田元清打渡状(「閥閲録」所収桂四郎兵衛家文書)によれば、明石の地三二石三斗が桂元依に給されている。
江戸時代には宮内村上組に属したが、
播磨灘に臨む海岸部一帯をさす文芸地名で、古くから景勝地として知られる。「万葉集」巻三に収める柿本人麻呂の「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」をはじめとして、同書には明石の海(浦・大門・門・湖)を詠む歌が八首、明石の潟の詠歌が一首収められる。のち明石浦(能因歌枕・和歌初学抄)、明石瀬戸(和歌初学抄)・明石門(五代集・八雲御抄)・明石浜(同上)、明石潟(八雲御抄)などが歌枕となった。「古今集」に「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行く舟をしぞ思ふ」(読人知らず)、「新古今集」に「あかしがた色なき人の袖をみよすずろに月もやどるものかは」(藤原秀能)など多数の詠歌がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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