日本歴史地名大系 「服部村」の解説
服部村
はつとりむら
- 大阪府:豊中市
- 服部村
現豊中市域のほぼ中央部、豊中台地の南の低地に位置し、村域の中央を
〔中世〕
弘安三年(一二八〇)春日社の在地への負担強化策に対して榎坂郷では榎坂助村らが下向してきた春日神人に武力抵抗をしたため紛争が起こり、本所のとりなしで郷民は妥協し、各村ごとに神供米、興福寺段米、本所の春日詣の屯食などの弁済、新井料の措置などについて請文を提出した。そのなかに穂積・服(部)両村としての請文があり、この時点で当村が穂積村から独立していたことがわかる(「中臣祐賢記」弘安三年四月六日条)。この請文の署名人六名中、則武・時里・成延の三名主は、のちの史料からみて服部村の名主で、両村は各三名主を代表としていることからほぼ対等であり、彼らを中心とした村落結合により村請体制をとったと考えられる。
服部村
はつとりむら
- 大阪府:高槻市
- 服部村
服部村
はつとりむら
服庄は服部庄の、服部は古代服織(機織)部のそれぞれ二字化表記したもの。現服部の西南(大字五百井飛地)にハタオリの小字がある。元暦元年(一一八四)六月の僧栄信田地相博券(書陵部所蔵文書)に「服庄田内 平群郡坂門郷十条十里十七坪 字柏取 右件私領田者、法隆寺之前
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
- 滋賀県:守山市
- 服部村
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
服部村
はつとりむら
- 鳥取県:倉吉市
- 服部村
服部村
はつとりむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報