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朝鮮美術 ちょうせんびじゅつ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朝鮮美術
ちょうせんびじゅつ

朝鮮は,各時代にわたって中国大陸および北方民族の影響を強く受けながらも,簡素で繊細な独自の美術を生み出した。原始美術には新石器時代の櫛目文土器や金石併用時代の丹塗磨研土器,彩文土器があり,軽快で素朴な形態や文様に,のちの朝鮮美術全体に共通する基本的な性格をみせている。古朝鮮から三韓時代にかけての遺品としては,精巧な金属器や漆器が著名であるが,これは大陸の漢民族文化の強い影響のもとで作られたものであり,朝鮮民族独特の造形感覚を示すものとしては,金海式土器の類があげられる。三国 (高句麗,新羅,百済) 時代の美術品には仏教関係の遺品が多いが,高句麗古墳壁画や新羅古墳出土の金冠のように,朝鮮独特の世界を表わしているものもある。統一新羅時代は仏教美術の全盛期で,首都慶州を中心に石塔や石仏など無数の遺跡,遺物がある。また寺院建築に用いられた瓦当や (せん) ,ならびに新羅焼とも呼ばれる硬質陶器など土の工芸も盛んで,独創的な形と意匠をみせている。高麗時代も仏教美術が主であるが,前代のような力強さが薄れ,表現が繊細になった。象眼青磁や高麗螺鈿 (らでん) は朝鮮の民族美術の代表的なものである。李朝時代は儒教が国教となり,美術もやがて形式化したが,壮大な城郭や宮殿建築がすぐれた。とりわけ白磁や李朝染付などの陶磁器や風俗画などに,おおらかな朝鮮美術の特質が現れている。現代はこうした伝統的な朝鮮民族美術を受継ぎながら,西欧美術を受容し,新しい現代美術を創造している。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちょうせんびじゅつ【朝鮮美術】

朝鮮は日本と同様に中国文化圏にあって,中国の強い影響を受けてきたが,その文化は風土や民族性を反映して独自な発展を見せている。例えば朝鮮半島は日本に比べて雨が少なく,空気が乾燥しているので,良材や大木が乏しいが,そのかわり良質な石材や陶土,および金属資源に恵まれており,石塔や石仏,金,銀,鉄,銅などの金工作品にすぐれたものが多いのは,大きな風土的特色といえる。また工芸作品に見られる民族性については,素材がもつ自然の美を意識的に保存しようとする自然主義が底流として一貫しており,ある種の繊細さや素朴さに独自の風趣を示している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朝鮮美術
ちょうせんびじゅつ

中国文化圏にあった朝鮮では、美術面でも中国の強い影響下にあったが、風土や民族性を反映して独自な発展を示している。同じ中国の影響下にあった日本と比べても、雨が少なく乾燥している半島では良材に乏しく、そのかわり石材や陶土、金属資源に恵まれているため、石造建造物や石仏、陶芸、そして金属工芸などに優品が多い。[永井信一]

朝鮮美術の源流

朝鮮半島の先史時代が旧石器時代にさかのぼることは、従来からかなり確実性の濃いものと考えられていた。しかし、1973年以降、旧石器遺跡の発掘が相次ぎ、とくに近年発掘された文谷里(ぶんこくり)(韓国忠清北道丹陽郡赤城面)のものは、2万点を超す膨大な遺物と47か所の石器製作所が確認されたという点で、学界の注目を集めている。この遺跡は忠州ダム建設地域調査によって発見されたもので、単一遺跡としては朝鮮半島最大の面積を有し、旧石器時代中期・後期のものであることが実証された。
 新石器時代の遺跡や遺物は各地で発見されているが、その上限はおそらく紀元前3000年ごろまでさかのぼるといわれている。この時代の指標となる土器の遺物は櫛目文(くしめもん)土器で、これはシベリア地方から広まってきたものである。櫛目文土器の器形は一般に単純な形の丸底や尖底(せんてい)で、深鉢、甕(かめ)、皿、碗(わん)などがある。文様は、串(くし)状あるいは櫛歯状の簡単な道具を用いて、口縁部や胴部、または底部の周縁に施した幾何学的文様が主体であるが、その細部をみると、北東朝鮮出土のものと南朝鮮出土のものとでは違いがあり、シベリア沿岸地方で発見される土器と共通点のあることが注目される。
 櫛目文土器の次につくられたのは無文土器で、これは朝鮮半島における青銅器時代の指標をなす。土器の表面に赤褐色の顔料(酸化鉄)を塗り、それを磨いたもので、その源は中国の甘粛(かんしゅく)省を中心とする華北の彩陶の系統にあるといわれるが、鉱物資源に富む朝鮮陶芸の技巧上の原形が、すでにこのときつくられつつあったことはきわめて注目すべきことである。櫛目文土器の時代はまだ原始農耕の域を出ず、狩猟・漁労が生活の基盤であったと考えられるが、赤褐色無文土器の時代になると、かなり規模の大きい農耕生活が基盤となっていたことが推察される。[永井信一]

彫刻

先史時代の遺物には、日本の土偶・土面などに匹敵する美術的価値のあるものは、現在のところまだみられない。三国時代の4世紀ごろになると、新羅(しらぎ)の古墳から発見された人物、馬、虎(とら)、水鳥、水牛、蛙(かえる)などの小さな土偶類がみられ、5世紀末ごろの慶州・金鈴塚(きんれいづか)出土の騎馬武人型容器には、古代朝鮮民族の素朴で人間味のある表現がみられるが、その土の扱いや単純明快な造形感覚は、のちに陶芸のなかで開花するようになる。
 中国からの仏教伝来は、高句麗(こうくり)へは372年、百済(くだら)へは384年で、新羅へもこれと前後して伝来したものと思われる。以後、彫刻は仏像を中心に展開する。しかし現在のところ、4、5世紀につくられたと思われる仏教美術の遺品はみられず、現存最古の在銘像は高句麗の延嘉7年(539)の金銅如来(にょらい)立像(ソウル・国立中央博物館)である。1963年、慶尚南道宜寧郡大義面下村里で発見されたこの像は、刻銘に「高麗国楽良」の文字があり、様式的には6世紀初頭の北魏(ほくぎ)仏の模倣の跡が著しい。また、黄海道出土と伝える辛卯(しんぼう)(571)銘の金銅無量寿像(阿弥陀(あみだ)像)も、銘文中の供養者名から高句麗のものと推定されるが、これは東魏様式を踏襲した一光三尊形式である。
 高句麗は三国のなかでも、地理的にもっとも中国に近く、漢文化の影響をいちばん強く受けていたから、仏像製作はもっとも進んでおり、古新羅や百済もこの高句麗の先進文化の後を追った。しかし、のちには百済の仏教文化がもっとも華やかに栄えた。その首都であった公州および扶余(ふよ)を中心に建立された寺院の規模もかなり大きく、造像のうえでもかなり進んだものがあったと考えられるが、今日残るのは小さな石像、小金銅像だけで、その全般をうかがい知ることはできない。一方、古新羅では慶州を中心に仏教文化が栄え、552年には九層塔を有する皇竜寺のような大寺院が建立され、近年の発掘調査により、往時の盛観がしのばれるようになった。慶州の北部栄州、安東の両地域から出土したといわれる金銅半跏思惟(はんかしい)像は小像であるが、高句麗仏の影響の濃いものであることは注目される。このように6世紀中期までの三国時代の造像は高句麗のそれを手本につくられたが、6世紀後半に入ると、百済は中国南朝梁(りょう)と関係を結び、梁を通して南朝様式が取り入れられたことが、乏しいながら遺品のうえにうかがえる。古新羅は、前半の高句麗様式を受け継いでいった。
 6世紀前半から朝鮮半島でつくられた弥勒(みろく)半跏思惟像はかなりの数に上り、現在個人蔵になっている平壌出土のものは、そのなかでも最古の作と考えられる。そして、この形式の仏像の盛行は、高句麗の影響によるものと思われる。ソウルの国立中央博物館には、6世紀後半の仏像彫刻を代表する2躯(く)の金銅弥勒半跏思惟像がある。ともに等身大の優品で、両像とも出所については所伝がいろいろで、確かなことはわかっていないが、一見してその様式に大きな相違のあることがわかる。とくにそのうちの一つは、「宝冠弥勒」とよばれる京都・広隆寺の木造弥勒半跏思惟像に酷似している。この両像の様式の違いをどのようにみるかは、朝鮮古代彫刻の系譜を決定づける重要なポイントになるところから、十分な資料のそろわない現状では速断は避けるべきだが、あえて推量するならば、広隆寺像と似ている像は、全体のつくりが簡明で温和な作風を示し、百済美術の特色をよく表している。これに対し、もう一つの像は、宝冠の意匠や着衣の表現にいかめしい装いが感じられ、古新羅の造像の傾向の一面を示している。この2像に限らず、出土地や出所の不明な金銅仏の多いことは、朝鮮古代彫刻の解明に大きな障害となっているが、これに比べると、石仏や磨崖(まがい)仏(摩崖仏)は重要な示唆を与えてくれるし、美術的にも優れたものが多い。
 7世紀に入ると、古新羅、百済はそれぞれ独自の造像の経過をたどったが、それを立証する石仏が新しく発見された。一つは慶尚北道の慶州と安東を結ぶ国道の中間にある軍威郡南山洞石窟(せっくつ)の阿弥陀三尊像、他は百済の故地、忠清南道瑞山(ずいさん)市雲山面の磨崖の三尊像で、両者の作風の違いは、古新羅と百済の造像の傾向を端的に示している。とくに瑞山の磨崖仏の脇侍(きょうじ)の一つは半跏思惟像の形姿をとり、全体に穏やかでまろやかな感じにあふれている。そして口元にみられるこぼれるような微笑は、「百済のほほえみ」と韓国の美術史家が名づけたように、百済仏の造像理念をもっとも顕著に表したものである。
 677年以降の統一新羅時代は、中国では唐代にあたる。積極的に唐の文化を受け入れたこの時代は、仏教文化が隆盛し、石像、金銅像、塑像など盛んにつくられ、現存するものも少なくない。初期の遺品では、(せんぞう)四天王像(慶州・四天王寺址(し)出土)、感恩寺(682ころ創建)址西塔納入舎利容器付随の半肉(はんにく)彫り金銅四天王像が注目され、唐代彫刻との密接な関係を物語っている。しかし、統一新羅の仏教美術の精華を伝えるのは、慶州南山の石仏群と、同吐含山の石窟庵(あん)で、数多い南山石仏のなかでは、巨大な岩面に半肉彫りで刻まれた神仙庵の菩薩(ぼさつ)半跏像がとくに優れている。また石窟庵本尊の石造釈迦(しゃか)如来坐像(ざぞう)とその一群の脇侍は、新羅工人の200年にわたる伝統と独自の感覚を造形化したもので、優雅典麗ななかにも雄渾(ゆうこん)な民族精神が込められている。
 8世紀後半に入ると、衣文の表現と像容に特色のある形式をもった小金銅仏(新羅金銅仏)がつくられるようになるが、その形成の系統についてはまだ明らかでない。また新羅の彫刻では、仏像のほかに、墳墓の周囲にはめ込まれた浮彫りの石像が注目される。十二支の動物を擬人化し守護神としてつくられたもので、中国にも例をみない優れたものといえよう。9世紀に入ると仏像の作風はしだいに低下するが、定林寺や到彼岸寺の毘盧遮那(びるしゃな)仏のような鉄仏が盛んにつくられ、その傾向は高麗(こうらい)時代の初めまで続く。高麗も仏教を国教としたので、仏教美術は各方面に新展開をみせたが、仏像は様式的にみるべきものはなく、前代を凌駕(りょうが)することはできなかった。[永井信一]

絵画

朝鮮の絵画史をみるとき、現存する作品から、次の三つの時期に限られる。すなわち、高句麗の古墳壁画(4~7世紀)、高麗末期(13~14世紀)の仏画、李朝(りちょう)(14世紀以降)絵画であり、それ以外の百済や古新羅、統一新羅時代、高麗前半期の遺品はきわめて少なく、8~12世紀の約500年については空白に近い状態といってよい。[永井信一]
高句麗の古墳壁画
高句麗時代の壁画古墳は、主として北朝鮮の平壌市、南浦市、平安南道、黄海南道、および中国の吉林(きつりん)省集安市に分布し、『高句麗古墳壁画史料集』(1985・高句麗文化展実行委員会刊)によると、その数は83に達している。最古の壁画は安岳(あんがく)3号墳(黄海南道)のもので、永和13年(357)紀年と埋葬者冬寿の銘をもつ。ほかに将軍塚(吉林省集安市)、江西大墓、徳興里(とっこうり)(ともに平安南道)などが知られる。壁画の主題は人物風俗画を描いたものが最初で、4世紀後半になると人物に四神図(青竜、朱雀(すざく)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ))が加わり、6世紀中ごろに下ると、石室の壁面に直接描いた四神図が中心になる。作風的には、中国の東晋(とうしん)末および北魏の影響を強く受けているが、東アジア最古の絵画を代表する遺品として重要であり、近年では日本の飛鳥(あすか)時代の高松塚古墳壁画との類似性からも、その意義は広く注目されるようになった。[永井信一]
高麗の仏画
中国宋(そう)代絵画の影響を受けて、高麗時代には繊細な技巧を駆使した仏画が多数描かれたが、遺品は末期に集中し、その数も少ない。しかし、わが国にも伝来しており、日本銀行の『阿弥陀如来像』、京都・知恩院と和歌山・親王院の『弥勒下生(げしょう)経変相図』、東京・根津美術館と京都・玉林院の『阿弥陀如来坐像』、東京・浅草寺と奈良・長谷(はせ)寺などの『楊柳観音(ようりゅうかんのん)図』、静岡・MOA美術館と京都・松尾寺の『阿弥陀三尊像』、奈良・東大寺の『香象大師像』などによって、美しい文様表現を特色とする高麗仏画の一端をうかがうことができる。なお仏画以外の鑑賞画では、仁宗から毅宗(きそう)朝(1123~70)ごろに活躍した李寧(りねい)が、入宋(にっそう)の際その妙手を徽宗(きそう)に激賞されたという記録があり、中国への傾斜の強かったことがうかがえる。[永井信一]
李朝絵画
14世紀末から20世紀初めまで続いた李朝では、前代の仏教にかわって儒教が国教として採用され、その結果、美術も大きく変わった。絵画は、初期には中国の明(みん)朝の、後期には清(しん)朝の影響を受けつつ発達するが、とくに高麗時代から宋・元の影響のもとに愛好され始めた水墨画が文人の余技として盛んに描かれている。一方、官制の画院(図画署(とがしょ))では、専門画家が写実的な鑑賞画を制作、代表的な画員に初期の安堅(あんけん)(15世紀中期に活躍)、鄭(ていぜん)(1676―1759)、金弘道(1745―?)がいる。また儒教の祖先崇拝から肖像画も画員、文人によって広く描かれたが、これらは人物の全容を画面いっぱいに正面から描写する独特の形式をみせている。
 以上の上層階級のための正統派絵画のほか、庶民の絵画の需要にこたえて、膨大な作品が制作されている。日常生活と結び付いた民衆の生活感情を生き生きと表現したもので、「民画」と通称される。人物図、花鳥図、文房図などのほか、儒教の徳目の文字(忠・孝・信・礼など)を独特の書体で書き、それを草花・動物などで装飾した文字絵があり、いずれも民間信仰的な象徴性にあふれる。無名の民間画家によるそのユニークな造形美は、現代人にも強く訴えるものがあり、日本では柳宗悦(やなぎむねよし)らの民芸運動のなかで紹介されて広く知られるに至った。[永井信一]

工芸


金工
金属資源に恵まれた朝鮮半島には、古くから優れた金工品が多い。三国時代の高句麗、百済、加耶(かや)(加羅)、新羅の墳墓からは、豪華な黄金製の副葬品が出土しているが、なかでも慶州の金冠塚、金鈴塚、瑞鳳(ずいほう)塚、天馬塚などから発掘された金冠その他の副葬品、1971年に武寧王陵(忠清南道公州市)で発見された王と王妃の金製冠飾および金銀製の飾り金具は、新羅と百済のそれぞれの工芸の粋を集めたもので、典雅な趣(おもむき)にあふれたなかにも両者の作風の違いがみられる。
 また、朝鮮の鋳造技術を代表するものに梵鐘(ぼんしょう)がある。中国唐代の梵鐘を祖型とし、統一新羅時代に盛んに鋳造されたが、朝鮮鐘(しょう)とよばれる独自の特殊な形式をもつ。国立慶州博物館にある奉徳寺鐘(聖徳大王神鐘、エミレの鐘)は、高さ3.33メートル、口径2.27メートルの優美な巨鐘で、表面に鋳出された宝相華(ほうそうげ)文や飛天はきわめて繊細流麗である。以後、朝鮮鐘はその形式を踏襲して高麗、李朝でもつくられたが、しだいに小型化、粗雑化した。日本にも南北朝時代から多数もたらされ、福井県常宮(じょうぐう)神社などに40余口が現存する。[永井信一]
陶芸
三国時代には、中国の技術を導入して、灰色硬質土器がつくられた。とくに騎馬人物や瑞獣などをかたどった象形土器は、力強く、おおらかな民族性をよく示している。高麗時代の10世紀中期、中国五代の越州窯(えっしゅうよう)の青磁技術を導入して、いわゆる高麗青磁の焼造が始まる。その技術は目覚ましい発展を遂げて、12世紀には、ほのかな灰色を含む沈んだ深い青釉(せいゆう)の翡色(ひしょく)青磁、白土・赤土を象眼して細かい文様を表した象眼青磁が考案されて、高麗の陶芸は頂点に達した。
 李朝時代になると、前期には前代の象眼青磁の流れをくむ粉青沙器が焼造され、15世紀に最盛期を迎える。これは日本では三島(みしま)、刷毛目(はけめ)とよばれ、素朴な形姿で新たな展開を示すが、17世紀以後は、中国の元・明代初期の影響によって白磁が焼造されるようになり、李朝陶磁の主流となってゆく。そして、作域も染付(そめつけ)、鉄砂(てっしゃ)、辰砂(しんしゃ)などと広がり、独自の優品が次々に焼かれた。日本で茶道の盛行とともに「高麗茶碗」として珍重された茶碗は、この李朝の日用雑器的なものである。[永井信一]
漆工
漆工品は紀元前からつくられていたことが遺品の断片から推定されるが、製作が盛んになるのは三国時代以降で、百済の武寧王陵、新羅の慶州諸王陵の出土品がある。しかし、遺品のうえからは高麗時代以降のものが大部分を占め、陶芸に示された象眼技術がこの分野にも用いられて、仏具・家具・文房具などに優れた螺鈿(らでん)工芸品がみられる。また、李朝末期につくられた木工家具は、素朴ななかにも飾らない形の美しさがあり、李朝の焼物と同様の、自然主義的な一面をよく示している。[永井信一]

建築

日本の飛鳥時代の寺院、四天王寺や飛鳥寺の伽藍(がらん)配置は、百済や高句麗のものを模してつくられたものであるが、いずれも寺址としてプランが確認されるだけで、遺構は失われている。日本と同じく、木造の寺院が三国時代から造営され、統一新羅時代に入ると造寺の気運は一段と盛んになったが、当時のもので現存するものはなく、石造物に優れたものが残る。代表的なものは慶州・仏国寺の釈迦塔と多宝塔の二つの石塔で、前者は別名無影塔ともいい、方形三層、同形式のものが他にもみられるが、石組技巧に優れる。そして相対するユニークな構造形式の多宝塔と際だった対照を示している。
 韓国に現存する木造建築の最古の遺構は、浮石(ふせき)寺(慶尚北道栄州市)の無量寿殿で、高麗時代13世紀後半ころの建立と推定される。桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)三間、入母屋(いりもや)造、柱に強いエンタシスをもち、日本の大仏様建築同様、宋風建築の手法が用いられている。
 李朝時代に入ると、漢陽または漢城とよばれた今日のソウルが城郭都市として設計され、石造の城壁を巡らし、南大門、東大門ほか六つの小門を開き、内部には景福宮をはじめ徳寿宮、昌徳(しょうとく)宮などが営まれた。それらも南大門(1396)を除き、壬辰・丁酉倭乱(じんしんていゆうわらん)で焼失し、現存宮殿はその後の再建である。様式としては、高麗末に元から輸入された多包様式(柱頭はもとより柱間にも斗(ときょう)を置いて複雑でにぎやかな外観を形成する)、および柱心包(ちゅうしんぼう)様式(斗は柱頭だけで、柱間には間斗を置き、肘木(ひじき)には刳形(くりがた)が入る)があるが、仏教寺院を中心に発展した柱心包様式は、仏教が首都から締め出された結果しだいに廃れ、自由奔放な外観の装飾性を強調する多包様式が木造建築の主流となった。再建された今日の宮殿建築の造形に、その特色がよく示されている。[永井信一]
『金元龍著、西谷正訳『韓国美術史』(1976・名著出版) ▽金元龍著、西谷正訳『韓国考古学概説』増補改訂(1984・六興出版) ▽韓国国立中央博物館編『韓国国立中央博物館名品図録』(1972・大日本絵画) ▽韓国国立中央博物館編『新羅の古美術』(1975・学生社) ▽金基雄著『朝鮮半島の壁画古墳』(1980・六興出版) ▽伊丹潤著『朝鮮の建築と文化』(1983・求龍堂) ▽久志卓真著『朝鮮の陶磁』(1974・雄山閣出版)』

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