アメリカの写真家。ニュー・ジャージー州生まれ。少年時代に中西部のウィスコンシン州、ついで西部のコロラド州へ転居。カリフォルニア州のレッドランド大学、南カリフォルニア大学で英語学を学び、1965年博士号取得。1962年から1970年までコロラド大学で英語学を教える。1963年より写真を撮り始め、1967年より写真家として作品を発表、また写真に関する執筆活動を行う。
現代のアメリカ西部の風景に独自の視点でアプローチした作品で注目される。『ザ・ニュー・ウェスト』The New West(1974)、『フロム・ザ・ミズーリ・ウェスト』From The Missouri West(1980)、『それを故郷とすること』To Make It Home(1989。同題の展覧会が同年から翌1990年にかけてフィラデルフィア美術館ほかを巡回)、『コロンビアの西』West from the Columbia(1995)などの写真集、またアメリカ国内外での展覧会を通じて、アメリカ西部における人と土地との結びつきを探求する作品を発表してきた。
アダムズの主題であるアメリカの西部は、フロンティアとしてその自然環境が無限の可能性と結びつけられてきた土地である。広々とした空間を選び、明瞭な描写を可能にする十分な光量のもと、安定した構図で撮影されたアダムズの写真のなかで、ハイウェーや郊外住宅などの人工物がかつてのフロンティアの空間に自然と並存する現代の西部の景観は、単なる風景美の礼賛でも自然破壊の告発でもない、緊張感をはらんだ光景として定着されている。アダムズの写真は、現実を直視することで、アメリカの建国理念に結びついて神話化されたフロンティアとしての西部の風景を脱神話化する一方、現代の西部の風景をあくまで肯定的に受け入れ、そこに新たな美を見いだそうとする。それはまたアンセル・アダムズに代表されるフロンティア神話と結びついた雄大な自然を称揚する近代アメリカ風景写真の系譜の脱神話化でもあり、写真というメディアによる風景へのアプローチの新たな方向性の模索でもあった。
アダムズも出品者の一人であった「ニュー・トポグラフィックス」展(1975、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館、ニューヨーク州ロチェスター)をきっかけに、社会学的あるいは環境論的な視座をもふまえ、科学調査のような客観性をもって風景にアプローチする新しい風景写真の動向が、ニュー・トポグラフィックスと呼ばれるようになり、その影響は1970年代後半から1980年代にかけてアメリカだけでなく、ヨーロッパや日本などにも及んだ。
フロンティアとしての西部の風景というアメリカ固有の主題に取り組んだアダムズの作品も、都市化や郊外といった世界各地で進行する風景の変容への先駆的アプローチとして、固有の文脈を越えて注目された。
[増田 玲]
『The New West; Landscapes Along the Colorado Front Range (1974, The Colorado Associated University Press, Boulder. Reprint 2000, Walter, Berlin)』▽『From the Missouri West (1980, Aperture, New York)』▽『Beauty in Photography; Essays in Defense of Traditional Values (1981, Aperture, New York)』▽『To Make It Home; Photographs of the American West 1965-1986(1989, Aperture, New York)』▽『Why People Photograph; Selected Essays and Reviews (1994, Aperture, New York)』▽『West from the Columbia; Views at the River Mouth(1995, Aperture, New York)』▽『California; Views by Robert Adams of the Los Angeles Basin 1978-1983 (2000, Frankel Gallery, San Francisco/Mathew Marks Gallery, New York)』
アメリカの作曲家。マサチューセッツ州ウースター生まれ。1971年ハーバード大学卒業後、カリフォルニアに移住。1972~1983年サンフランシスコ音楽院で教え、指揮も行った。1978年よりサンフランシスコ交響楽団の現代音楽アドバイザーを務め、また1979~1985年同楽団のコンポーザー・イン・レジデンス(作曲家を招待し、作曲の委嘱、初演を行う)に招かれるなど、このオーケストラとの関係は深い。アダムズの主要作品の多くがサンフランシスコ交響楽団によって初演されている。
初期の作品は、イギリスの作曲家コーネリアス・カーデューCornelius Cardew(1936―1981)やギャビン・ブライヤーズの影響を色濃く受けたもので、楽器の指定がなく、指揮者もかならずしも必要としない『アメリカン・スタンダード』(1973)といった作品にみられるように、実験的な作風であったが、しだいにミニマル・ミュージックと後期ロマン派の和声や管弦楽的な響きを混ぜ合わせたような「ポスト・ミニマル」という言葉がふさわしいスタイルに変化していった。こうしたスタイルをとった作品『ハルモニウム』(1980~1981)、『ハルモニーレーレ』Harmonielehre(1985)などにより、アダムズの名は広く知られるようになる。
代表作として知られるオペラ『中国のニクソン』Nixon in China(1987)と『クリングホファーの死』The Death of Klinghoffer(1991)は、演出にピーター・セラーズPeter Sellars(1957― )、台本にアリス・グッドマンAlice Goodman(1958― )、振付にマーク・モリスMark Morris(1956― )らを迎えたコラボレーションで、世界中で上演され話題をよんだ。そのほかのオペラ作品には『アイ・ワズ・ルッキング・アット・ザ・シーリング・アンド・ゼン・アイ・ソウ・ザ・スカイ』I was Looking at the Ceiling and then I Saw the Sky(1995、台本は詩人ジューン・ジョーダンJune Jordan(1936―2002))、オラトリオ『エル・ニーニョ』(2000)などがある。キリスト降誕をテーマにした後者は、ふたたびセラーズとのコラボレーション作品で、ケント・ナガノKent Nagano(1951― )指揮で2000年にパリで初演。日本での初演は2002年(平成14)。
「ミニマリズムに飽きたミニマリスト」と自称するアダムズであるが、現代アメリカを代表するもっとも著名な作曲家の一人である。1996年アメリカのオーケストラ連盟の調査で、また2003年の時点でのアメリカの存命作曲家のなかで、もっとも頻繁に演奏される作曲家として認められている。また、『室内交響曲』(1992)が1994年のロイヤル・フィルハーモニック協会賞のほか数多くの賞を受賞している。
アダムズは作曲家としての活動のほか指揮者としての活動も続け、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、デトロイト・オーケストラなど、世界各地の優れたオーケストラやアンサンブルの演奏会へ出演、録音も行っている。またサンフランシスコ交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ドイツの現代音楽グループ、アンサンブル・モデルンなど世界中の楽団、グループからの作曲の委嘱が絶えず、新作はつねに話題になる。
[小沼純一]
イギリスの作家。バークシャー南西部の都市ニューベリーに生まれ、オックスフォード大学のウスター・カレッジで修士の学位を取得した。第二次世界大戦に従軍し、戦後は25年以上にわたって公務員を務めた。最初の作品『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(1972)がすぐれた児童文学作品として高い評価を受け、カーネギー賞とガーディアン賞を受賞し、1978年にはアニメ映画化された。これは、一族全滅の危機を予感した1羽の若い兎(うさぎ)の予知能力を信じた少数の兎たちが、群れを離れて安住の地にたどりつくまでの、冒険に満ちた遍歴の旅の物語である。キップリングやウォルター・デ・ラ・メアの諸作から強い影響を受けたこの動物擬人化ファンタジーは、兎たちの社会を綿密かつ適確に描き、迫真性のある冒険の連続によって現代人の「生き方」を考察している。
アダムズは、巨大な熊の出現によって、熊を神とする信仰をもつ種族が、既存の豊かな文化を破壊して新しい支配体制をつくるが、結局は人間性のある文化が復活する長編小説『シャーディック』(1974)で、前作同様に叙事詩的なファンタジーを展開し、その特徴は『疫病犬と呼ばれて』(1977)にも引き継がれている。しかし、この作品の舞台となっている時代は20世紀で、動物実験用の疫病犬が逃げ出し、それが巻き起こす人間社会のさまざまな反応を語っている。これらの作品は、テーマが一見明瞭なために、寓意(ぐうい)の文学を思わせるが、人間についての深い洞察が、多くの問題を読者に投げかける。
大人の小説『ブランコの少女』(1980)や、イングランドの自然を美しい文と精密な絵によって紹介している『四季の自然』(1975)、『昼と夜の自然』(1978)なども翻訳されている。
[神宮輝夫]
『中村妙子訳『疫病犬と呼ばれて』上下(1979・評論社)』▽『神宮輝夫訳『シャーディック』上下(1980、1982・評論社)』▽『井辻朱美訳『コルサンの岩山』(1982・新書館)』▽『井辻朱美訳『鉄のオオカミ』(1982・新書館)』▽『神宮輝夫訳『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』上下、新装版(1989・評論社)』▽『百々佑利子訳『ブランコの少女』上下(1989・評論社)』▽『デイヴィッド・A・ゴダード絵、リチャード・アダムズ著、岡部牧夫訳『四季の自然』(1978・評論社)』▽『デイヴィッド・A・ゴダード絵、リチャード・アダムズ著、岡部牧夫訳『昼と夜の自然』(1980・評論社)』▽『アラン・オルドリッジ絵、リチャード・アダムズ著、田中未知訳『女王陛下の船乗り猫』(1986・角川書店)』▽『エドワード・ブリッシェン編、神宮輝夫訳『とげのあるパラダイス』(1982・偕成社)』▽『三宅興子著『イギリス児童文学論』(1993・翰林書房)』
イギリスの数理天文学者。イングランドのコーンウォールの中農家の長男に生まれ、少年期より数理に長じていた。1843年ケンブリッジ大学卒業。在学中に天王星の運動(公転)がケプラーの法則からずれることを知り、その原因が未知惑星による摂動のためであると解釈し、その計算を完成した(1845)。しかし、グリニジ天文台長エアリーに無視された。1846年、パリ天文台のルベリエが同様の計算を発表、それに従ってガルレが海王星を発見したのち、ハーシェルの進言で、アダムズの先見性が公認された。1848年その功により王立協会から最高賞を受け、1851年王立天文学会長、1858年母校の数学・天文学教授、1861年同大学天文台長となる。しし座流星群の軌道についての研究や、月の長年加速の研究でも先駆的な業績を残した。
[島村福太郎]
アメリカの思想家、歴史家、作家。2月16日ボストンに生まれる。曽祖父(そうそふ)は第2代大統領、祖父は第6代大統領、父は駐英公使を務めた政治家で歴史家、兄弟にも歴史家として活躍した人物がいたほどのアメリカきっての名門の出身。ハーバード大学に学び、ベルリン大学に留学、父の秘書として7年間ロンドン生活を送ったのち帰国して母校で中世史を講じ、『北米評論』の編集長も務めた。1885年に妻の自殺にあい、その後は世界各地を旅行して回った。9巻の大著『トマス・ジェファソンおよびジェームズ・マディソン治下の合衆国史』(1889~1891)でアメリカ民主政治の真の姿を自分の目で確かめようとしたが、先に書かれた小説『デモクラシー』(1880)には民主政治への激しいほどの絶望が表現されている。それを新しい史観で説明しようとして数編の歴史論文も書いた。晩年の2著『モン・サン・ミシェルとシャルトル』(1904・私家版)、『ヘンリー・アダムズの教育』(1907・私家版)は、混沌(こんとん)としたアメリカ精神および20世紀世界に対する懐疑と、統一的なヨーロッパ中世世界の精神に対する傾倒を、まれにみる美しい文体で表現した名著であるが、楽天的性向の強いアメリカ精神のなかでは、かならずしも十分に評価されてこなかったうらみがある。1918年3月27日ワシントンで没す。
[後藤昭次]
『刈田元司訳『ヘンリー・アダムズの教育』(1971・八潮出版社)』▽『野島秀勝訳『モン・サン・ミシェルとシャルトル』(2004・法政大学出版局)』
アメリカの社会改革者、人道主義者、平和主義運動家。1860年9月6日イリノイ州に生まれる。州議員を長く務め、第16代大統領のリンカーンを敬愛していた父親から強い影響を受けた。ロックフォード大学卒業後、フィラデルフィアの女子医大に学んだが、病のため勉学を断念。失意のまま西欧を旅行中(1887~1888)、ロンドンのスラム街にある施設トインビー・ホールを見学して感銘を受け、帰国後友人エレン・スターとともに1889年9月、シカゴのスラム街にアメリカ初のセツルメント、ハル・ハウスHull Houseを設立、人々とくに貧しい移民の生活改善に努力し、教育、文化活動を推進した。以後、女性参政権運動や腐敗したシカゴの市政改革運動などさまざまな社会改革運動に取り組み、第一次世界大戦を機に強力な反戦平和運動を展開、中心的指導者として国際的にも活躍した。その活動により1931年ノーベル平和賞を受賞。自伝をはじめ多くの著書も残した。1935年5月21日シカゴで死去、生地シーダービルに葬られた。
[太田和子]
『J・アダムズ著、市川房枝記念会・縫田ゼミナール訳『ハル・ハウスの20年』(1996・市川房枝記念会出版部)』▽『コンウェイ著、吉村俊男訳『ジェーン・アダムズ――アメリカの一女傑』(『日米フォーラム』第11巻9号所収・1965・好学社)』▽『木原活信著『ジェーン・アダムズ』(1998・大空社)』▽『木原活信著『J. アダムズの社会福祉実践思想の研究――ソーシャルワークの源流』(1998・川島書店)』
アメリカの天文学者。天体物理学とくに恒星分光学の実地研究での先駆的指導者。1898年ダートマス大学卒業後、ドイツに留学。1901年ヤーキス天文台助手となり、1904年ヘールの招きでウィルソン山天文台に移り、副台長を経て、1923年から1946年まで天文台長を務めた。1931~1934年アメリカ天文学会長、1935~1949年国際天文学連合副会長。1914年、恒星のスペクトル線を判別して、巨星と矮星(わいせい)とを区別し、分光視差法を確立した。1925年エディントンの示唆に基づき、シリウスの伴星のスペクトル線に、重力効果による赤方偏移を検出、白色矮星の高密度と、アインシュタインの相対性理論の証拠とを実証した。なお、スペクトル線のドップラー効果を測定して、地球の公転速度、太陽の自転速度、恒星の視線速度などを精査した。
[島村福太郎]
通称ジェリーGerry。北アイルランドの政治運動家、政治家。ベルファストに生まれ、1960年代のカトリック公民権運動に参加、アイルランド共和国軍(IRA)の積極的活動家となった。1969年以降の北アイルランド紛争のなかで、1971年にイギリス政府が導入した裁判なしの拘禁制度で数回にわたって拘禁され、1973~1976年には禁錮(きんこ)刑に服した。1978年、IRAと密接な関係にある政党シン・フェイン党の副党首となり、1983年には党首に就任、また同年のイギリス総選挙で下院議員に当選したが、女王への忠誠宣言を拒否して登院はしなかった。1992年には落選したものの、1997年の総選挙では当選、以降イギリス下院議員を務める。1980年代後半、IRAが実力闘争路線から政治闘争重視へと方向転換するうえで中心的役割を演じ、1993年にはカトリック穏健派の社会民主労働党首ジョン・ヒュームと共同で和平の呼びかけを行った。1998年の北アイルランド紛争解決に向けての合意実現に際しても、その推進役となった。
[木畑洋一]
アメリカ合衆国の外交官、政治家で、歴史家。第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの息子。ヘンリー・アダムズらアダムズ四兄弟の父。8月18日ボストンに生まれる。幼少期を外国で過ごす。ハーバード大学卒業後、文筆活動や文書編纂(へんさん)に関心を示す一方、マサチューセッツ州議会議員、連邦下院議員などを歴任し、共和党結成に参加した。1861年リンカーン大統領より駐イギリス公使に任命され(1868年まで在任)、冷静かつ適切な判断をもって、トレント号事件、イギリスにおける南部連合衝角艦(艦首の水線下に攻撃用の突出部をもつ軍艦)の建造問題など重大な外交問題に対処し、イギリス、フランスなどの南部連合側にたっての干渉を首尾よく防止した。1886年11月21日没。
[横山 良]
『オーティス・ケーリ編『アダムズ家の人々』(1964・創元社)』
アメリカ合衆国第6代大統領(在任1825~1829)。第2代大統領ジョン・アダムズの長男として、7月11日、マサチューセッツ州ブレーントリー(現、クインシー)に生まれる。父について滞欧中、フランス、オランダで学び、帰国後弁護士となる。ワシントン、アダムズ両大統領の下でオランダ駐在公使、プロイセン全権公使を務め、1803年フェデラリスト(連邦派)から選出され合衆国上院議員となったが、リパブリカン(民主共和党)のジェファソン大統領の政策に賛成して辞任。1809年ロシア全権公使となり、1814年ガン条約締結の交渉にあたった。イギリス全権公使を経て、1817年モンロー大統領下で国務長官に就任、フロリダ割譲(1819)やモンロー宣言(1823)起草などで活躍した。1825年下院により大統領に選出されたが、このときの下院議員クレイとの取引を非難され、1828年の大統領選挙ではジャクソンに敗れた。1830年合衆国下院議員に選出され、1848年2月23日に死去するまで在職、テキサス併合や奴隷制の拡大に反対した。
[竹本友子]
アメリカの写真家。とりわけ西部山岳地帯の自然景観を対象とした作品で有名。サンフランシスコに生まれる。幼少時よりクラシック音楽を愛好し、ピアニストを志すが、青年期に健康上の理由で断念。写真を撮り始めたのは14歳で、その後、転地療養先のカリフォルニア州シエラネバダのヨセミテで本格的に写真を始める。1930年にポール・ストランドと会い、1932年にはエドワード・ウェストンを中心とした写真家集団「f」に参加、他のメンバーともども大判カメラによる精密で即物的な作風を確立する。また、印画紙焼付けの技術を体系的にとらえた「ゾーン・システム」を編み出し、質の高い印画の制作規範を確立した。
[平木 収]
『アンセル・アダムス写真集『幻想のアメリカ西部』(1982・集英社)』
アメリカ合衆国第2代大統領(在任1797~1801)。10月30日マサチューセッツ州ブレーントリー(現クインシー)に生まれる。ハーバード大学を卒業後、1758年弁護士となる。1765年印紙法に反対して反イギリス運動を展開、アメリカ独立革命の指導者の一人となった。1774年から二度の大陸会議の代表として、ジョージ・ワシントンの最高司令官就任、独立宣言の起草などに活躍、1778年にはフランスへの使節団に加わった。帰国後マサチューセッツ憲法の起草者の一人となり、また1783年にはパリ条約交渉にあたった。その後イギリス駐在公使(1785~1788)、ワシントン大統領下での初代副大統領(1789~1796)を経て、1796年の大統領選挙に当選。任期中は、革命の起こったフランスとの戦争回避に努力したが、同じフェデラリスト(連邦派)のハミルトンと対立、外人法、治安法制定(1798)の不評と相まって、1800年の大統領選挙ではジェファソンに敗れた。以後著作活動に専念し、1826年7月4日クインシーで死去した。
[竹本友子]
アメリカ独立革命の指導者。9月27日、マサチューセッツ州ボストンに生まれる。第2代大統領ジョン・アダムズの又従兄(またいとこ)。1740年ハーバード大学卒業。1765年マサチューセッツ植民地議会の議員に選出された。印紙法(1765)、タウンゼント諸法(1767)に対する反対運動で、独立革命の基本的命題となる主張を述べ、アジテーターとしての役割を果たして独立革命急進派の指導者の一人となった。1772年マサチューセッツ通信連絡委員会を組織、翌1773年ボストン茶会事件を陰で指導、二度の大陸会議の代表として活躍した。独立革命後は、マサチューセッツ憲法制定会議(1779~1780)の代表となった。しだいに保守的な空気の強まるなかで、彼の影響力も弱まったが、マサチューセッツ州副知事(1789~1793)および知事(1794~1797)を務め、1803年10月2日ボストンで死去した。
[竹本友子]
アメリカの有機化学者。1月2日ボストンに生まれる。ハーバード大学を卒業(1909)、同大学で博士号を取得(1912)、ベルリン大学およびカイザー・ウィルヘルム研究所(現、マックス・プランク研究所)に学んだ。イリノイ大学教授(1919)、同大学化学部長(1926)、第一次世界大戦中は化学戦部陸軍少佐、第二次世界大戦中は国防科学研究委員長を務め、日本占領軍総司令部科学顧問団長として来日(1947)した。アダムズの酸化白金として知られる触媒や有機ヒ素化合物、局部麻酔剤などの研究がある。1971年7月6日イリノイ州アーバナで没した。
[岩田敦子]
アメリカ合衆国第2代大統領。在職1797-1801年。マサチューセッツのブレーントリー(現,クインシー)に生まれ,ハーバード大学卒業。弁護士になりアビゲールと結婚した。1765年の印紙税法の制定を批判して《教会法と封建法について》と題するパンフレット,次いで《ノバングルス》を著し,従兄のサミュエル・アダムズとともにマサチューセッツの独立革命運動の指導者となった。74年第1回大陸会議の代議員に選ばれ,アメリカ植民地の独立を推進する活動を行う。とくに76年5月大陸会議が各植民地に革命政府の樹立を促す決議を採択した際には指導的な役割を果たした。また独立宣言を起草する委員会の委員に選出され署名者の一人となった。しかし独立を唱道した《コモン・センス》でトマス・ペーンが提案した一院制立法府を中核とする政府案には批判的な立場をとり,立法・行政・司法の三権間の〈牽制均衡〉を重視する観点から《政府に関する考察》を著して対抗した。80年にはマサチューセッツ州憲法制定会議の代議員として自己の政府観に基づく州憲法の制定を導き,同年オランダ公使に任命された。その後88年までヨーロッパにとどまり,対英平和条約交渉に当たり,次いで初代イギリス大使になる。この間フランス人のチュルゴやコンドルセの批判にこたえて《アメリカ州憲法擁護論》(1787-88)を著し,連邦憲法案の起草にも少なからぬ影響を与えた。帰国後ワシントン政権で初代副大統領に就任し,96年の大統領選挙ではわずか3票の選挙人投票差でジェファソンを破って当選した。大統領在職中は与党のフェデラリスト内部からハミルトン派の激しい対抗にあって内閣においてさえ主導権を確立できなかった一方,フランス革命後の対仏外交をめぐって野党リパブリカンの厳しい批判にもさらされた。対仏外交ではフランスとの戦争に突入することを避ける立場をとり,国交調整のために派遣した特使に対するフランスの非礼な要求を公表(XYZ事件)して批判をかわす目途をつけたものの,国内対策のために制定した外人法・治安法(1798)はリパブリカンの批判に油を注ぐことになり,1800年大統領選挙で敗れ,初めての政権交代が実現する原因となった。政治思想においては,政府三権間の〈牽制均衡〉を重視する点で一貫しており,アメリカの保守主義者の代表的な人物として位置づけられている。独立宣言公布50周年記念の26年7月4日,ジェファソンと相前後して永眠した。
執筆者:五十嵐 武士
アメリカ合衆国第6代大統領。在職1825-29年。第2代大統領ジョン・アダムズとアビゲールの子で,マサチューセッツ出身の政治家,外交官,法律家。早くも1781-83年にロシア大使の秘書,82-83年のパリ講和会議では父ジョンの秘書をつとめ,87年にハーバード大学卒業後,94-96年オランダ大使として赴任した。政治家としては,フェデラリスト党の上院議員として出発したが,ジェファソンの出港禁止令に賛成するなど,党の方針に反して1808年辞職。09年にロシア大使になり,1812年戦争中は講和に努力し14年のガン条約の締結に貢献した。17年からモンロー大統領の下で国務長官をつとめ,18年のA.ジャクソンのフロリダ侵入を弁護し,19年フロリダ併合とオレゴン地方の英米共同管理協定に手腕をふるった。折からのラテン・アメリカ諸国の独立に際し,ヨーロッパ列強の干渉に反対する立場を明らかにするようモンローに進言し,イギリス外相カニングの共同宣言の提案を退けて合衆国が単独でモンロー主義を宣言するうえで大きな役割を果たした。24年の大統領選挙では一般投票では2位だったが,下院の決選投票でH.クレーの票をえて当選した。大統領としては,道路・運河の建設による農業・工業・商業の振興と,天文台の設立,度量衡の規格化など,科学・技術・文学の振興をはかる政策構想を発表し,これを秩序立った方法で実施しようとした。しかし1820年代のアメリカでは北東部で工業,南部で綿花栽培,西部で主穀農業がそれぞれ飛躍的に発展し,これにともなって地域間と社会階級間の対立が尖鋭化し,彼の方法は通用しなかった。とくに28年の高率の保護関税は〈唾棄すべき関税〉として南部の反発を招き,政党の分裂と対立を深めた。28年の大統領選挙ではジャクソンに敗れ,一時農事と読書の生活に戻ったが,31年連邦下院議員に選出されてから8期17年間を無所属で通し,35年以後は奴隷制とその西方領土への拡大に反対した。
執筆者:富田 虎男
徳川家康の外交顧問。日本名三浦按針。イギリスのジリンガムに生まれ,ライムハウス造船所に12年間勤めた後,イギリス海軍に船長として勤務。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊の一隻リーフデ号の航海士となり,1600年(慶長5)豊後の佐志生に漂着。大坂で家康に謁見し,来日の事情を説明,イギリスが日本と貿易を開きたい希望を持っていることを伝えた。同じ船で到着したオランダ人ヤン・ヨーステンとともに家康に信頼され,外交問題の顧問を務め,幾何学,地理学,造船学などを教授した。イギリス型帆船2隻を建造し,この1隻は上総に漂着したスペイン人のフィリピン前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るとき使用された。相模国三浦郡逸見村(現,横須賀市)に領地250石,また江戸日本橋に邸宅を与えられ,三浦按針と呼ばれた。このころイギリス東インド会社はジャワのバンタムに商館を設けていたが,11年アダムズがジャワにいるイギリス人あてに日本の事情を知らせる手紙を書いたことが,イギリスの日本貿易開始の契機となった。13年ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持ち,平戸に来航し,アダムズは彼とともに駿府で家康に謁見し,貿易許可の朱印状を得た。イギリスは平戸に商館を設置し,アダムズは年俸100ポンドで,イギリス東インド会社と雇用契約を結んだ。アダムズ自身朱印状を得て,15年(元和1)シャム,17年アンナン,19年トンキンに渡航して貿易を行い,日本人妻との間に生まれたジョセフも朱印船貿易家として活躍した。セーリスの帰国の際,アダムズも日本を出発する許可を得たが,そのままとどまった。1618年将軍秀忠の時代となると,幕府との関係も薄くなり,20年平戸で病没した。アダムズ夫妻をまつった按針塚が横須賀市西逸見町にある。
執筆者:永積 洋子
アメリカの歴史家,思想家,作家。第2代大統領ジョンの曾孫,第6代大統領ジョン・クインシーの孫。ボストンに生まれ,ハーバード大学卒業後ドイツに留学,また駐英大使の父チャールズ・フランシスの私設秘書として7年間ロンドンに滞在。1870年母校の中世史助教授にむかえられ,ドイツ式の科学的な歴史学研究法を導入し,他方,一流誌《北アメリカ評論》の主筆として政治腐敗を攻撃した。77年に大学を辞し,首都ワシントンに移って著名人との交友を重ねるとともに,歴史研究を続け,ギャラティンなど合衆国初期の政治家の伝記を出版した。また匿名で小説《デモクラシー》(1880)などを発表した。85年に妻が自殺をとげたのち広く世界各地を旅行し,86年には日本にも足をとどめた。89-91年には大作《ジェファソンとマディソン治下の合衆国史》9巻を出版した。強度の公共倫理観をもつ名門に生まれ,科学的歴史家として機械文明に向かう歴史の趨勢(すうせい)を認識しながらも,人間の精神的・倫理的進歩がこれに伴わず,機械技術が人間の統御を超えて発達し,ついには文明の破滅をもたらすと考え,深刻な懐疑におちいった。知識人の愛読書となった《ヘンリー・アダムズの教育》(1907)はこのような現代文明への懐疑を示し,《モン・サン・ミシェルとシャルトル》(1904)は中世の理性と信仰の調和への憧れを語る。晩年には熱力学の理論を援用した文明没落の法則をすら構想した。
執筆者:志邨 晃佑
イギリスの天文学者。1839年ケンブリッジ大学に入学し,在学中に天王星の運動の不整(説明できない乱れ)に興味を抱いた。43年首席で卒業,特別研究員に推されるや,天王星の運動の不整は,その外側にある未知惑星の摂動によるものと考えて研究を進め,早くも45年には未知惑星の質量と軌道要素を求めた論文をケンブリッジ大学に提出し,グリニジ天文台を訪れて観測を託した。しかし観測が行われぬまま,その翌年にフランスのU.J.J.ルベリエが同様の計算を行い,未知惑星の捜索をベルリン天文台のJ.G.ガレに依頼した。そして推算位置の近くに海王星が発見されたのである。アダムズの推算位置もほとんどルベリエと同じであったため,新惑星発見の功績をめぐってイギリス,フランス間に論争が起こったが,結局,アダムズ,ルベリエ,ガレの3者で栄誉を分け合うことになった。48年に王立天文学会はアダムズにコプリー賞を贈り,また51年にはケンブリッジ大学にアダムズ賞が設定された。同年,アダムズは王立天文学会長となり,59年ケンブリッジ大学教授,61年ケンブリッジ天文台長となった。
アダムズは月の運動にも興味をもち,とくに永年加速および交点運動などの研究が著名である。これらの研究に対して66年に王立天文学会金賞牌を贈られた。《J.C.アダムズ科学論文集》全2巻(1896,1900)がある。
執筆者:堀 源一郎
アメリカ独立革命の民衆派指導者。ボストン生れ。1764年以後のイギリス議会による植民地課税政策に反対し,ボストン民衆を〈自由の子どもたちSons of Liberty〉に組織し,ハッチンソンThomas Hutchinson(1711-80)一門のマサチューセッツ植民地支配を攻撃した。64-74年同植民地議会議員として,印紙税法への抗議決議,タウンゼンド諸法反対〈回状〉,植民地間通信委員会結成,70年ボストン殺戮事件,73年ボストン茶会事件で中心的役割を演じ,理論的には印紙税法反対の〈代表なくして課税なし〉から〈植民地議会と本国議会の対等論〉へ転換し,第2回大陸会議では他植民地の急進派と提携し,保守派を抑えて独立宣言に導いた。合衆国憲法には批判的で,88年の連邦議会議員選挙には敗れたが,マサチューセッツ州副知事(1789-93),知事(1794-97)に選ばれた。合衆国第2代大統領ジョン・アダムズはいとこである。
執筆者:武則 忠見
アメリカの天体物理学者。シリアに生まれ,1898年アメリカのダートマスカレッジを卒業後,シカゴ大学,ミュンヘン大学に学び,1905年からウィルソン山天文台員,23-46年まで同天文台長をつとめた。20世紀初頭に完成したウィルソン山天文台の太陽望遠鏡,152cm反射望遠鏡,254cm反射望遠鏡の装置開発に貢献し,それらを用いて数多くの発見をした。G.H.ヘールについて,太陽の黒点スペクトルや閃光スペクトルの撮影に成功したほか,恒星については巨星と矮星(わいせい)をスペクトル線の見かけによって区別する方法を考案し,分光学的に視差を求める手法を確立した(1916)。また白色矮星の存在を明らかにし,とくにシリウスの伴星については詳しい解析を行い,その高い密度とそれによると思われるスペクトル線の一般相対論的赤方偏移の存在を認めた。ただし後者については現在では疑問視されている。惑星スペクトル,早期型星の視線速度,ケフェウス型変光星,新星のスペクトル,星雲のスペクトルなどについても開拓的研究を残した。
執筆者:小平 桂一
アメリカのセツルメント活動家,社会改革家,平和運動家。彼女は社会奉仕的な仕事に就くため,大学卒業後医学校にはいったが,病気で断念。将来の道の定まらない不安から神経衰弱に陥ったが,2度のヨーロッパ旅行でロンドンの貧民街を見て深い印象を受け,セツルメント活動を始めることを決意した。帰国直後の1889年,シカゴの貧民街の中心にあるハル所有の古い邸宅を借り,以後晩年までそこの住民となった。ハル・ハウスは,保育所,運動場,集会所であり,また料理・裁縫など移民に必要な技術や知識を教える学校となり,音楽,演劇,絵画などの芸術活動を通じて地域の生活・文化の中心となった。またフローレンス・ケリーなどの社会改革の意欲を持つ人材を多く集めた。アダムズはハル・ハウスを根拠に,革新主義運動にも貢献し,婦人参政権運動,平和運動でも活躍。1915年にアメリカの女性平和党会長,19年には平和と自由国際女性同盟の会長に選ばれ,31年,ノーベル平和賞を受けた。
執筆者:有賀 夏紀
アメリカの写真家。はじめコンサート・ピアニストとして将来を嘱望されていたが,27歳のとき健康を害して演奏ができなくなったため,写真館を経営していた義父や,ストランドPaul Strandの影響もあって写真家となった。1932年E.ウェストン等と共に〈f・64グループ〉を結成。以来その主張のもとに撮影したヨセミテ等の風景写真は,写真集として多数刊行されている。また写真技術や理論の研究者としても第一人者で,35年に刊行した写真指導書《Making a Photograph》は,いまなお高く評価されている。ニューヨーク近代美術館の写真部門創設(1940)に大きく寄与した。
執筆者:大辻 清司
アメリカ合衆国第2代大統領ジョン・アダムズの妻,第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの母。独立革命のために働く夫の留守の家業を預かる賢夫人として知られ,夫との間に交わした多数の手紙は,当時の状況を伝え貴重な史料となった。黒人や女性の平等権に積極的な関心を持ち,とくに1776年,独立前夜に夫に出した手紙は,人間の権利を論じる夫たちが女性の権利を忘れていることを巧みに指摘し,女性解放思想の先駆としてしばしば引用される。
執筆者:有賀 夏紀
アメリカの歴史家。ヘンリー・B.アダムズの弟。初著《マサチューセッツの解放》(1887)で,ピューリタンの民主的な植民地支配という伝統的解釈に挑戦。歴史の科学的法則を構想し,主著《文明と衰退の法則》(1895)で,エネルギーの集中・拡散の法則から社会の発展・衰微を論じた。以後の著作で,この法則からアメリカの世界強国化を論じつつも,物質主義や私利追求の風潮によるアメリカの衰退の危険を警告した。
執筆者:志邨 晃佑
アメリカの歴史家。ドイツのハイデルベルク大学に学び,1876年から新設のジョンズ・ホプキンズ大学で教えた。ドイツ式のゼミナールを導入,科学的な歴史研究法をアメリカで確立した。アメリカ民主主義の起源はゲルマンの森にあるとする〈萌芽〉理論に立って,政治制度史を研究,またアメリカ歴史学協会の設立(1884)に貢献した。後の大統領ウィルソンや歴史家ターナーも彼の弟子であった。
執筆者:志邨 晃佑
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1564.9.24~1620.4.24
日本に来日した最初のイギリス人で徳川家康の側近。ケント州ジリンガム生れ。造船業を学び,地中海航路で働いた後,1598年オランダのロッテルダム会社東洋派遣艦隊の水先案内としてリーフデ号に乗船。1600年(慶長5)豊後国臼杵湾に漂着し,大坂で家康と会見。以後その側近・外交顧問として仕え,幾何学・数学・地理学などを講じ,イギリス型の帆船を建造。江戸の日本橋近辺(按針(あんじん)町)に邸を,相模国三浦郡逸見(へみ)に200余石の知行地を与えられ三浦按針と名のった。13年イギリス東インド会社が日本にクローブ号を派遣すると,その司令官セーリスの平戸イギリス商館開設を援助し,会社の使用人としてシャム貿易に,またみずから朱印船主として安南・トンキン貿易に従事。20年(元和6)平戸で病死。
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1735~1826
アメリカ建国期の政治家,政治思想家。アメリカ革命に際しては独立論者の急先鋒として活動,その後駐英公使,初代副大統領を歴任。ワシントンを継いで第2代大統領(在任1797~1801)となったが,1800年の大統領選挙でジェファソンに敗れた。古典的教養が深く政治論の著作でも知られる。
1722~1803
アメリカの独立の指導者。マサチューセッツの人。1764年以来イギリス本国政府の政策に対する植民地の反対運動を指導,「自由の子」を組織,ボストンの茶事件を計画し,大陸会議では独立論者の急先鋒であった。
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…アマチュアの写真愛好者にあっては,今日でもそれは一つの顕著な傾向であるといってよいかもしれない。一方,異境の風土や未踏の地の写真を,こうした定式化した芸術写真の脈絡から果敢に踏み出して撮影することも,写真表現の種々の面での独自性の認識が一般化するにつれ,しだいに行われるようになり,その際立った例としては,1930年代を中心とするE.ウェストンやA.アダムズの風景写真をあげることができる。両者とも描写の克明なこと,トーンのととのえ方,構成の仕方などにおいて,絵画の影響からまったく脱却した写真独自のみごとな画像を作り出している。…
…高度は低いが,東に東京湾,西に相模湾を望み,北西には丹沢,箱根,富士,南西には伊豆半島と伊豆大島が眺望できる。京浜急行の安針塚駅からW.アダムズ(三浦按針)の墓のある塚山公園を経て約2時間で頂上に達する。東方の小丘には中世の土豪三浦氏の居城衣笠城跡がある。…
…88年のスペイン無敵艦隊によるイギリス侵攻作戦は,兵員を多数乗せ,高いところから切込みを行うカラック船主体のスペイン側と,遠距離からの砲撃を行うガレオン船主体のイギリス側との,戦術の差が勝敗を決めたという説もある。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号で豊後(大分県)に漂着したW.アダムズ(日本名三浦按針)が,徳川家康に請われて建造した2隻の船も,イギリス系のガレオン船であったろうと推定されている。17世紀前半にはビークヘッドも短いヘッドに変わり,ガレオン船の名まえも消えたが,新大陸やフィリピンとスペイン本国を往復する船は,18世紀にもガレオン船と呼ばれていた。…
…シカゴは労働運動の中心地となり,77年の鉄道ストライキ,86年のヘイマーケット事件,94年のプルマン・ストライキ,同年および98年の炭鉱ストライキと,しばしば血なまぐさい事件をともなう大争議が生じた。貧しい移民や労働者を救うためにハル・ハウスを開いたジェーン・アダムズのような社会改革家もいたが,むしろ目だったのは移民たちの無知と結束の強さを利用して政治をあやつるボスや,一時の享楽を与える酒場や娼家であった。 シカゴは工業都市であると同時に,モンゴメリー・ワードやシアーズ・ローバックが本拠をかまえる流通業の中心であり,マーシャル・フィールド百貨店の存在が示すごとく一大消費都市である。…
…この考え方は,1884年にS.バーネット夫妻を中心にして設けられたロンドンのトインビー・ホール(A.トインビーにちなみ命名)で具体化され,これが最初のセツルメントとされている。アメリカではJ.アダムズが89年にシカゴに建てたハル・ハウスがセツルメント運動をアメリカに広げる端緒を開いたといわれている。日本では,91年にキリスト教宣教師O.アダムズがつくった岡山博愛会,あるいは片山潜が97年に東京神田に設立したキングスレー館などが古い。…
※「アダムズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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