武王(読み)ブオウ

デジタル大辞泉 「武王」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐おう〔‐ワウ〕【武王】

中国王朝の創始者。姓は。名は発。文王の子。父の没後紂王ちゅうおうを討っていんを滅ぼし天下統一鎬京こうけいを都として即位封建制度創始

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精選版 日本国語大辞典 「武王」の意味・読み・例文・類語

ぶ‐おう‥ワウ【武王】

  1. [ 一 ] 中国周の初代の王。姓は姫。名は発。西伯(文王)の長子。紀元前一一世紀頃の人。父の築いた国力を背景に殷(いん)を破り天下を統一。鎬京(こうけい)を都とし、一族功臣を分封して、中国の封建制度を創設。生没年未詳。
  2. [ 二 ] 中国楚の初代の王(在位前七四一‐前六九〇)。姓は熊、名は通。春秋時代の初期に隣国を征服、楚王を自称。
  3. [ 三 ] 中国秦の第二七代の君主。恵文王につぐ第二代の王(在位前三一一‐前三〇七)。姓は嬴。名は蕩。諸国を征討し、丞相を創置して、秦の基礎を築いた。

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百科事典マイペディア 「武王」の意味・わかりやすい解説

武王【ぶおう】

古代中国,西周)の建国者。名は姫発(きはつ)。文王の子。前1050年ころ太公望の力をかりて(いん)を滅ぼし,鎬京(こうけい)(後の長安)に都して天下を統一。周公に,太公望をに,召公に封じ,封建制度を始め,周朝の基礎を置いた。
→関連項目妲己

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改訂新版 世界大百科事典 「武王」の意味・わかりやすい解説

武王 (ぶおう)
Wǔ wáng

中国,西周王朝第1代の君主。生没年不詳。名は姫発(きはつ)。父の文王天命を受け,徳によって諸侯たちを懐(なつ)けたという基礎のうえに,太公望召公奭(しようこうせき)ら賢臣補佐をうけ,武王は周族の勢力をさらに伸ばした。盟津に会した際には八百の諸侯が武王のもとにはせ参じたが,なお隠忍自重し,(ちゆう)王の悪徳がきわまり殷王朝の命運が尽きたことを見きわめて,初めて紂王討伐の兵を挙げた。牧野(ぼくや)の戦で殷軍を破り殷の都に攻めこむと紂王は自殺した。殷を滅ぼしたことを天に報告したあと,武王は周王朝を開き,重臣たちを各地に封建して斉,魯,燕などの国を建てた。さらに中原地帯の支配を確実にするために成周雒邑(らくゆう)(洛陽)への遷都も意図したが,そうした計画を十分に実行に移す期間もないうちに武王は死亡し,西周国家整備の仕事はその子の成王とそれを補佐する周公(旦)の仕事として残された。《尚書(書経)》周書のいくつかの篇が武王の殷討伐の際の宣言を伝えたものとされ,また後世,文王と併称して聖王の一人に数える。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「武王」の解説

武王(ぶおう)

生没年不詳

文王西伯(せいはく)の太子。名は発(はつ)。周王となって殷(いん)を滅ぼす。戦車300,勇士3000,武装兵4万5000を率いて盟津(めいしん)で黄河を渡り,800の諸侯と合流し,殷都郊外の牧野(ぼくや)で殷軍70万に挑む。殷軍は戦意なく降り,紂王(ちゅうおう)は自殺する。牧野の戦いの翌年の殷滅亡の年代は,前1045年,前1027年,前1024年の諸説がある。戦後,太公望(たいこうぼう)こと呂尚(りょしょう)は,弟の周公旦(しゅうこうたん)魯(ろ),召公奭(しょうこうせき)はなど各地に封建された。殷を滅ぼしたものの,周の政治体制が確立するのは次の成王と周公旦の時代であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「武王」の意味・わかりやすい解説

武王
ぶおう

紀元前11世紀ごろの人。中国、周王朝の創始者。名は発。父は文王。父の志を継いで殷(いん)を討ち、河南省の牧野(ぼくや)の戦いで紂王(ちゅうおう)の大軍を破り、殷を滅ぼしたのち、陝西(せんせい)省西安付近に新都鎬京(こうけい)をつくり周王朝を建てた。武王は弟の周公旦(たん)や召公奭(せき)(実際は殷代以来の大族召氏の首長ともいう)、あるいは羌姓(きょうせい)族の首長呂尚(りょしょう)(太公望(たいこうぼう))の助けを得て国政を行い、また諸侯を封建した。とくに殷の故地には紂王の子の武庚禄父(ぶこうろくほ)を封じて殷の遺民を鎮撫(ちんぶ)し、さらに付近に弟の管叔(かんしゅく)、蔡叔(さいしゅく)らを配して、その監視にあたらせた。しかし、武王は在位3年にして死んだので、たちまち武庚や管、蔡らの大反乱が生じたという。武王は文王とともに聖王とされ、「詩」「書」や青銅器銘文にもその功業がたたえられており、その殷の討伐も放伐物語として正統化された。

[宇都木章]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「武王」の意味・わかりやすい解説

武王[周]
ぶおう[しゅう]
Wu-wang

中国,周王朝初代の王。ほぼ前 11世紀の人。名は発。文王の長子で,即位後,西方の蛮族を合せて東進をはかり,文王を継いで 11年にして牧野の戦いで破って,周を開いた。首都を陝西省西安付近の鎬京に定め,一族の子弟を中心に,各地に諸侯を封じ,いわゆる周の封建制を始めたといわれる。後世,開国の英主とされた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「武王」の解説

武王
ぶおう

生没年不詳
前11世紀ごろの周の建国者
姓は姫,名は発。父の文王をつぎ,牧野の戦いで殷の紂 (ちゆう) 王を滅ぼして鎬京 (こうけい) に都し,一族功臣を各地に封じて周の基礎を築いた。弟の周公旦,羌族の太公望呂尚の補佐を得,父とともに王者の範とされる

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「武王」の解説

武王 ぶおう

武芸王(ぶげいおう)

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世界大百科事典(旧版)内の武王の言及

【湯王】より

の始祖契(せつ)より14世目。武湯,武王,天乙,成湯ともいわれ,卜辞では唐(湯と同音),成,大乙と書く。亳(はく)(河南省偃師県)に都をおき,伊尹(いいん)などの賢臣を用い,異民族をも心服させ,その徳は禽獣にもおよんだという。…

【鎬京】より

…中国,周の武王の都。武王は殷を滅ぼすと,父文王の都の鄷(ほう)から鎬へ遷都した。…

【周】より

…《史記》によると,尭帝の農官であった后稷(こうしよく)が始祖とされる。后稷の15世後の子孫の武王が,前1050年ころ殷王帝辛(紂王)を牧野(河南省淇県)で破り,殷を倒して,王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。…

【伯夷・叔斉】より

…一度は殷の(ちゆう)王の朝廷を訪れたが,紂王に見切りをつけて,西伯であった周の文王をたよってそのもとに身をおちつけた。文王が死に,武王が紂王討伐の軍を起こそうとしたとき,2人は武王の馬を引きとどめて,父の死後すぐ兵を起こすこと,また臣下でありながら主君を討伐することの不当をなじる。武王が殷を滅ぼし天下が周のものとなると,2人は周の粟(ぞく)を食べることを恥じ,首陽山(山西省永済県)に入って薇(わらび)をとって食料としたがやがて餓死した。…

※「武王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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