出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
神奈川県藤沢市の南にある小島。藤沢市に属する。周囲約4キロメートル、面積0.38平方キロメートル。島が「江」の字の形をしていることが地名のおこりとされる。最高所は標高60メートルで台地状をなし、相模(さがみ)湾をはじめ伊豆、箱根、富士山、丹沢、大山(おおやま)などを広く展望できる。史都鎌倉と結んで湘南(しょうなん)観光の中心をなし、国際観光ルートに入れられ、早くから内外人に親しまれている。
江の島は地質上、第三紀中新世の凝灰質岩層と、集塊岩質凝灰岩または凝灰岩との互層からなり、その上に関東ローム層が重なっている。これら凝灰岩質の諸層は海底火山の噴出物が海底に堆積(たいせき)したものであるが、のち隆起運動によって海上に現れ、さらに断層運動によって片瀬(かたせ)の台地と離れて陸繋島(りくけいとう)となった。そこへ激しい海波の侵食を受けて切り立った海食崖(がい)ができ、また断層による弱線沿いにいくつもの海食洞ができたが、最奥の御窟(おんいわや)はその典型。また南岸には海食台(岩礁)も発達している。こうして江の島は男性的な海食崖と海食洞、岩礁をあわせてすばらしい海岸景勝をなし、古くから画材とされている。さらに江の島には全島にわたってタブノキ、スダジイ、シロダモ、ヤブツバキなどの常緑広葉樹がよく茂り、うっそうとした暖帯樹叢(じゅそう)をなす。江島神社は島のシンボルで、江島弁天ともいわれ、民間にも強い信仰をもち、雨乞(あまご)いのほか、音楽と芸能の守護神(裸(はだか)弁天は琵琶(びわ)を抱える)、そして開運、除災、除病などが御利益(ごりやく)とされ、江戸時代以後、江戸の歌舞伎(かぶき)役者、木材商、建設業者、薪炭(しんたん)商、花街関係者の参拝が多く、それらの寄進になる石や銅の大鳥居がいまもみられる。鎌倉初期以後、江の島は鎌倉鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の供僧(ぐそう)の管理下にあり、江戸時代には岩本(いわもと)坊、上の坊、下の坊の3別当がこれら諸宮を管理していた。木造彩色弁才天坐像(鎌倉時代の作)と大太刀は県指定重要文化財。
江の島は鎌倉時代からの行楽地で、鎌倉武士の訪れが多く、江戸時代には江戸町民や東海道の旅行者が多く立ち寄り、大山や鎌倉さらに金沢八景、川崎大師とあわせた参拝ルートが形成されて門前町が発達し、いまも参拝講社の宿坊や定宿(じょうやど)から続く旅館がある。第二次世界大戦後、展望塔、サムエル・コッキング苑などがつくられ、東部にはヨットハーバーのある湘南港もある。サザエの壺(つぼ)焼きが名物。小田急電鉄江ノ島線片瀬江ノ島、江ノ島電鉄江ノ島、湘南モノレール湘南江の島駅下車。砂州上には江の島大橋(1964年完成)と江の島弁天橋(1958年完成)が架けられている。
[浅香幸雄]
江ノ島とも書く。神奈川県南部,相模湾岸にある小島で,藤沢市に属する。周囲約4km,面積0.38km2。第三紀の凝灰岩,砂岩を基盤としてローム層におおわれ,南岸には1923年の関東大震災の時に隆起した海食台がある。〈真白き富士の嶺(ね),緑の江の島〉と歌われたようにその風光が賞され,鎌倉と結んで湘南観光の中心地である。島の弁財天は近世期に日本の三弁天の一つとされて庶民の江の島参りが盛んであったが,明治初年の神仏分離により江島神社となった。江ノ島電鉄(江ノ電),小田急江ノ島線,湘南モノレール線がそれぞれ藤沢,新宿,大船から対岸の片瀬まで通じ,島へは歩道,車道の両専用橋がかかる。橋詰めから辺津宮(へつのみや)までみやげ物店が並び,島の高所へはエスカレーターを組み合わせたエスカーが通じ,熱帯植物園と展望塔がある。東部には埋立地が広がり,海辺に湘南港とヨットハーバーがあり,奥部にかながわ女性センターが建つ。
執筆者:伊倉 退蔵
1182年(寿永1)4月僧文覚(もんがく)は江の島に大弁財天を勧請し供養を行った。源頼朝監臨のもとに藤原秀衡調伏を密々に祈願したものである。以後旱魃祈雨(かんばつきう)などの信仰の対象として繁栄し,1216年(建保4)1月15日,陸続きになった江の島へ船の煩いなく多くの人々が参詣する様子が《吾妻鏡》にみえる。南北朝初期には,伊勢国から奥州を目ざして船出した南朝方の関八郎左衛門尉らが,海上で遭難し江の島に漂着した。世に江島合戦といわれる戦いが起こったのは1450年(宝徳2)4月である。以前より関東公方足利成氏(しげうじ)と上杉氏の山内家家宰長尾景仲,扇谷家家宰太田資清らとの対立があり,成氏は江の島に拠り,腰越,由比ヶ浜で激闘が行われ,室町幕府の仲介で終結した。後北条氏の時代に入ると玉縄城主の支配下に置かれ,公界(くがい)所とされた。永禄6年(1563)1月2日の蜷川某制札によると,江の島に関が設けられ参詣人から関銭をとっていたことが知られる。79年(天正7)8月江の島は後北条宗家直轄の地とされ,漁および住民の移転などが制限された。
執筆者:田辺 久子
(1)能の曲名。江島,江之島,江野島とも書く。脇能物。観世長俊作。観世流のみにある。欽明天皇の朝臣が勅を奉じて東海に湧出した江野島を見に下向する。そこに老若2人の漁師が来て江野島のいわれを語り,老翁は竜口明神と名のって消え失せる。その夜天部が2人の童子をしたがえて現れ,宝珠を捧げ舞楽を奏する。また竜口明神も現れて威光を示すという筋。(2)山田流箏曲の曲名。山田検校作曲。中七曲の一つ。1777年(安永6)開曲か。江の島縁起によるが,能や河東節の同名曲との関係は認められない。箏雲井調子,三絃三下り。海人(あま)の子のうたう〈貝尽し〉は粋で,長唄の《相模蜑(さがみあま)》にとり入れられている。(3)長唄の曲名。一つは《旧江の島》で,山田流箏曲をそのまま移したもの。もう一つは《新江の島》で4世杵屋(きねや)六三郎(六翁)作曲。作曲年代未詳。名所めぐり,祭礼などをにぎやかにきかせる変化に富んだ曲。(4)河東節の曲名。竹婦人(ちくふじん)作詞,初世十寸見(ますみ)河東作曲。江の島縁起による作品だが,現在は廃曲。
執筆者:竹内 道敬
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…第三紀の凝灰岩,砂岩を基盤としてローム層におおわれ,南岸には1923年の関東大震災の時に隆起した海食台がある。〈真白き富士の嶺(ね),緑の江の島〉と歌われたようにその風光が賞され,鎌倉と結んで湘南観光の中心地である。島の弁財天は近世期に日本の三弁天の一つとされて庶民の江の島参りが盛んであったが,明治初年の神仏分離により江島神社となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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