中国、南朝梁(りょう)の文人。字(あざな)は休文。呉興郡武康(浙江(せっこう)省)の人。武官系の寒門の出身であるが、学問と文才によって、宋(そう)、斉(せい)、梁の3代に仕え、斉梁文壇の第一人者となった。斉の竟陵(きょうりょう)王(蕭子良(しょうしりょう))の文学サロンに出入りした「竟陵の八友」(沈約、蕭衍(しょうえん)、王融(おうゆう)、范雲(はんうん)、謝朓(しゃちょう)、任昉(じんぼう)、陸(りくすい)、蕭琛(しょうちん))の詩風は、年号によって「永明(えいめい)体」とよばれる。典故、対句、声律などを駆使し、形式的な言語美をより洗練させた。沈約の四声八病説は、中国語の音声的特徴である四声を組み合わせて音律美を構築しようとしたもので、繁雑すぎて試論にとどまったが、唐代の近体詩成立に寄与した。ただその詩は没個性的で、遠く謝朓に及ばず、技巧に走った「永明体」の弊害をも代表する。文学仲間の蕭衍(梁の武帝)のブレーンとして梁王朝の実現に尽力し、高官となったが、むしろ文壇で重きをなした。南朝宋の断代史『宋書』を著した歴史家でもあり、仏教信者としても知られる。『沈隠侯集』2巻がある。
[成瀬哲生]
『網祐次著『中国中世文学研究――南斉永明時代を中心として』(1960・新樹社)』
中国,南朝の文人。字は休文。彼が生をうけた呉興武康(浙江省武康)の沈氏は〈将門〉,すなわち武将の家柄であって一流の門閥貴族ではない。しかも父は政治上の事件に連座して,沈約13歳のときに自殺を命ぜられている。このような家庭環境にもかかわらず,努力と持ちまえの詩文の才によってめきめきと頭角をあらわすにいたった。南斉の永明時代(483-493)には竟陵王蕭子良(しようしりよう)のサロンに集って,〈永明体〉とよばれる詩風の旗手となり,そこで知りあった蕭衍(しようえん)(梁の武帝)がやがて梁王朝を創業すると,尚書令に進んで官界に重きをなし,文学界,思想界ににらみをきかせた。《宋書》100巻の著作のほか,その詩文は《文選》などに,仏教に関する思想論文は《広弘明集(こうぐみようしゆう)》などに採られて多数が伝わる。〈四声〉の理論の発見とその詩学への応用も彼の功績に帰せられ,空海の《文鏡秘府論》にも影響がみとめられる。
→永明文学
執筆者:吉川 忠夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…中国,六朝時代,斉(せい)の武帝の永明年間(483‐493)における文学をいう。詩が主流であり,その中心となったのは,武帝の第2子,竟陵王や文恵太子の下に集まった謝朓(しやちよう),任昉(じんぼう),沈約(しんやく),陸(りくすい),范雲,蕭琛(しようちん),王融,蕭衍(しようえん)ら,いわゆる〈竟陵の八友〉で,彼らは竟陵王の西邸や太子の東宮で開かれる文会に参集して詩を作りあった。その詩の特徴は,綺麗な表現,巧みな典故技法,そうして韻律論の適用である。…
…すなわち,中国語固有の四つの声調(〈四声〉)を調和させて用いることに心がけるようになったのである。なかでも,梁の沈約(しんやく)は《四声譜》を著して,この面に大きく貢献した。南朝の詩の特色をよく表しているのは,南斉の謝朓(しやちよう)の作品である。…
…清の劉鶚(りゆうがく)の《老残遊記》にも題壁詩の実例がしるされている。梁の文豪沈約(しんやく)は,浙江省金華県に建てられた玄暢楼(げんちようろう)の壁に自作の〈八詠詩〉を書きしるし,以後玄暢楼は,八詠楼とも称された。唐代詩人にも〈壁に題す〉と題がつけられているものが数多くあるが,すべて〈題壁詩〉である。…
…2書とも6世紀の初めの著作であった。それらに先だつ5世紀末に沈約(しんやく)が中国の音調を研究して四声(しせい)(平(ひよう)・上・去・入)の名称を定め,その違いが詩文の韻律に及ぼす効果を論じた。彼の四声と八病(はつぺい)の説は大きな反響をよび,中国の作詩法の基礎は,ここに定まった。…
※「沈約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加