小豆島(読み)ショウドシマ

デジタル大辞泉 「小豆島」の意味・読み・例文・類語

しょうど‐しま〔セウド‐〕【小豆島】

香川県北東部、瀬戸内海東部の島。淡路島に次ぐ内海第2の大島。奇岩の多い寒霞渓かんかけいがある。西側湯船山腹から湧出する水は貴重な水源。醤油醸造、オリーブ栽培、花崗岩かこうがんの採石、そうめんの製造が行われる。壺井栄の小説「二十四の瞳」の舞台。面積153平方キロメートル。

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精選版 日本国語大辞典 「小豆島」の意味・読み・例文・類語

しょうど‐しまセウド‥【小豆島】

  1. 瀬戸内海東部、香川県北東部の島。古くは備前国(岡山県)に属した。古来、瀬戸内海交通の要所。天正年間(一五七三‐九二)豊臣氏の所領となり、特産の花崗岩(かこうがん)が大坂城の築城に用いられた。江戸時代は幕府の直轄地。近年まで日本屈指の醤油の産地として知られた。明治四一年(一九〇八)移植されたオリーブは島のシンボルであり、また、香川県の県花、県木となっている。

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日本歴史地名大系 「小豆島」の解説

小豆島
しようどしま

香川県北東部にある瀬戸内海第二の大きさをもつ島の名称であり、また明治初期まで、西方(現土庄町)をはじめとする周辺小島を含めた島嶼の行政名称でもある。「古事記」の大八島国生成の項に吉備児島きびのこじまについで「小豆島」とみえる。「日本書紀」応神天皇二二年四月条には「阿豆枳辞摩」と表記しており、古代には「あづきしま」とよばれていた。鎌倉時代後期の永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案(九条家文書)には「せうつしまの庄」とあり、近世初期とみられる実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「しやうす島」とみえるので、この頃まで「しょうずしま」とよばれていたと思われる。ただ一五八六年のイエズス会士日本通信(イエズス会日本年報)にはXodoximaと表記されている。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡としては豊島南部の土庄とのしよう礼田崎れいださき遺跡・神子みこはま遺跡、本島西北部の同町伊喜末いぎすえ遺跡があり、内海うちのみ神懸かんかけ山のほらがい岩洞窟からは後期に属する土器片とともに獣骨片が出土、その山麓には殿山とのやま遺跡がある。弥生時代の遺跡としては、豊島ではだん山の山麓から海岸地帯、本島では伊喜末・長浜ながはま(土庄町)池田いけだ(池田町)安田やすだ坂手さかて福田ふくだ(内海町)など、全島の海岸地帯各所から土器片などが出土する。とくに安田極が谷ごくがたに遺跡からは銅鐸・銅剣が出土した。古墳には本島西部に富丘とみおか古墳群(土庄町)、東部に亀之尾かめのお古墳・弁天島べんてんじま古墳(内海町)など小古墳がある。平城宮跡出土木簡に「備前国児島郡小豆郷」とみえ、奈良時代には備前国児島郡に所属する一郷であった。しかし「和名抄」の同郡所管の郷中にはみえず、平安時代中頃には郷名をもってよばれていない。建仁三年(一二〇三)七月日に備前国衙により作成された備前国麦惣算用帳(南無阿弥陀仏作善集)に「小豆島郷司」とみえ、平安時代後期の郡郷制の改編に際し、再び立郷されたものであろう。なお「続日本紀」延暦三年(七八四)一〇月三日条に「小豆島所放官牛、有損民産、宜遷長島」とあり、奈良から平安初期にかけて官牛の放牧地があった。

〔中世〕

平安時代に立庄された庄園としては小豆島庄肥土ひと(現土庄町)があった。このほか、当島に所在した庄園としては、池田庄(現池田町)草加部くさかべ(現内海町)が知られる。なお、豊島には鎌倉時代以前に近衛家領家浦いえうら庄が成立している。南北朝の動乱開始からほどない暦応二年(一三三九)三月には、南朝に応じて挙兵した備前国住人佐々木信胤が当島を占拠したが、貞和三年(一三四七)五月には足利氏一門の細川師氏が淡路・阿波・讃岐・備前四ヵ国の軍勢を率いて来攻し、信胤は降伏しその麾下に入ったという。

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改訂新版 世界大百科事典 「小豆島」の意味・わかりやすい解説

小豆島 (しょうどしま)

香川県北東部にあり,瀬戸内海では淡路島に次ぐ第2の大島。島の面積は152km2,海岸線の長さ126kmで,南岸は半島や湾がよく発達する。行政的には西方の豊島(てしま)などとともに小豆(しようず)郡(2010年の人口3万1275)をなし,内海(うちのみ),土庄(とのしよう),池田の3町に分かれる(2006年池田町と内海町は合併して小豆島町となった)。最高峰は星ヶ城山(817m)で,その西側には美しの原と呼ばれる標高約700mの平たんな台地が広がる。これらはメーサ型の開析溶岩台地で,花コウ岩の上に讃岐岩質安山岩が厚くおおい,台地周辺は急崖をなして一部は銚子渓のような景勝地をつくっている。星ヶ城山西方の寒霞(かんか)渓には奇岩怪石が発達し,名勝に指定されている。また北東岸の旧内海町福田では古くから花コウ岩の採石が盛んで,海上交通の便がよいことから大坂城の石垣にも用いられた。気候はおだやかな瀬戸内式で,雨量は年平均1200mmと少なく,河川も伝法川,吉田川を除くと小規模で,毎年水不足が問題となる。殿川,内海,粟地の各ダムが1980年までに築造されているが十分とはいえない。花コウ岩の風化土が厚いため,集中豪雨の際には大土石流が発生し,1974年,76年には多数の死傷者を出した。耕地は大半が畑で,南西部の旧池田町を中心にオリーブ,青リンゴ,ミカンなどの果樹や,マーガレット,電照菊などの花卉栽培が盛んである。オリーブは明治末に移植されて以来,島のシンボルとなり,さらに香川県の県花,県木となっているが,本場の地中海物に押されて経済的には採算にのらない。1950年に始められた電照菊栽培は,ガラス温室の団地も建設され,全国の主要産地として知られる。古くから瀬戸内交通の要路にあったため,文化の発展が早く,銅剣,銅鐸がいっしょに発見された安田遺跡をはじめ,遺跡,史跡に富み,また農村歌舞伎を奉納する舞台が土庄町肥土山(ひとやま)と旧池田町中山に残るなど文化財も多い。

 54年,島出身の壺井栄作の《二十四の瞳》の映画化以来観光客が急増し,72年には150万人も島を訪れた。島の一部は瀬戸内海国立公園に含まれ,初春の島四国八十八ヵ所めぐりのお遍路の団体,夏の海水浴,秋の紅葉,さらに冬は学生のスポーツ合宿など四季を通じて来島客が多い。地場産業として古い伝統をもつのはしょうゆとそうめんである。しょうゆは旧内海町苗羽(のうま)を中心に発達,丸金醬油など大小のメーカーが集中しているが伸び悩み,近時はつくだ煮製造の比重が高い。また手延べそうめんは旧池田町を中心とした農家の副業として生産されるものが多く,冬にはそうめんのすだれを庭先で干す光景がみられる。島の表玄関土庄港をはじめ,池田港,草壁港,坂手港,福田港に高松,岡山,宇野,姫路,大阪,神戸からフェリーなどの定期船が就航している。
執筆者:

小豆島の名称は《古事記》の国生み神話や,《日本書紀》の応神天皇巡遊伝説にもみえ,古くから〈あつきのしま〉として知られていた。令制では備前国児島郡に属した。官牛の牧が置かれていたが,民産をそこなうことがあり,784年(延暦3)牧は長島に移され,農耕に切りかえられた。平安時代末期,後白河院政下の1178年(治承2)に石清水八幡宮寺領として〈備前国肥土荘〉がみえる。同荘は85年(文治1)に源頼朝によって他の同宮寺領とともに守護,武士らによる兵粮米の賦課や狼藉の停止が認められている。

 1250年(建長2)の九条道家処分状には〈小豆島〉とあり,九条家領としてみえる。75年(建治1)までに下地中分が行われ,室生の大峠を境にして東方(領家方。現在の内海町辺)と西方(地頭方。現在の池田町辺)に分かれていた。領家方はその後さらに三分二方と三分一方に分かれた(下地ではなく得分の分割)。

 1412年(応永19)に東寺修造料として備前など5ヵ国の棟別銭(むなべちせん)が寄せられているが,それに関係して小豆島は備前国内であるとして棟別銭が賦課されたのに対して,讃岐守護細川満元の守護代安富宝城は〈小豆島は備前の内であるとも内でないともいまだ落居していない島である〉ことを理由にその免除を申請している。これはこの時期すでに小豆島を支配下におさめていた讃岐守護細川氏が,その領国内であるがゆえに,同島はいまや必ずしも旧来の備前国に帰属するとは決まっていないことを主張したものといえる。

 そして注目されるのは,15世紀末ごろ領家方の有力名主であった利貞家吉について,彼が所持する各名に関してその諸権益と諸負担が知られることである。すなわち,利貞家吉は利貞名のほか岩吉,久末,重正,国友,友貞の5名において公田4町3反余(国役・段銭が賦課される面積は4町),余田2町7反余,畠4町6反余,塩浜116ヵ所(塩数合計は95石余),山10ヵ所を所持し,若干の自作のほかは多くの作人をして生産にあたらせていた。そしてこれら各名に関して荘園内の諸行事(御頭,流鏑馬,放生会,猿楽など)に際しては多くの負担を果たし,また大名,領家,田所ら荘官層に対して国役,塩年貢,諸公事物や人夫などを負担していた(ともに小豆島赤松家文書)。小豆島における塩の生産と,塩がおもに小豆島や備前牛窓を船籍地とする船によって多量に京畿に輸送されていたことは1445年(文安2)分の〈兵庫北関入船納帳〉からも知られる。また利貞家吉が所持する塩浜からは,その生産の構造や製塩が内海湾の大新開において行われていたことが確かめられる。

 豊臣政権下においてその用船や水主(かこ)役を負担する直轄領となっていた小豆島は,関ヶ原の戦後の1605年(慶長10)に豊臣秀頼の代官片桐且元によって検地が行われているが,15年(元和1)の豊臣氏の滅亡によって江戸幕府の天領になる。そして77-79年(延宝5-7)に備中足守藩木下氏によって検地が実施され,検地帳のほか,〈小豆島廻船御運上積帳〉などの諸文書,ならびに島全図と島内9ヵ村(土庄,淵崎,上庄,肥土山,池田,草加部,福田,大部,小海)などの絵図(足守文庫蔵)が作成されている。これによって従来の土庄,池田,北浦,草加部の4組区分が改められ,また絵図の記載内容から石高(記載のない肥土山村を除いた合計3517石余),家数(同じく合計本百姓2751軒,水呑百姓579軒),人口(同じく合計男9867人,女9241人)のほか,福田村に御用石出場,土庄,淵崎,池田,草加部,小海の5ヵ村に合計30ヵ所の塩田が存在していたことが知られる。なお,塩のほか天領小豆島の特産には,俵物として中国向け輸出品とされた煎海鼠(いりこ)や近世後期に興ったしょうゆなどがあった。

 1838年(天保9)に草加部,大部,福田の東部3ヵ村(なお,延宝検地では石高合計1444石余)を除く西部6ヵ村,石高合計5891石余(なお,そのうち肥土山村は407石余)が津山藩領とされ,同年閏4月に津山郡代所から66ヵ条におよぶ小豆島御条目が出されている(岡山県史〈津山藩文書〉)。そのなかにはたとえば〈塩浜・漁猟・船稼等精出相働,御運上も相増候様心掛〉とあり,島嶼(とうしよ)地域の人々の生活の諸様相とそれへの藩権力としての対応がうかがえる。

 維新政府の発足によって1868年(明治1)5月に倉敷県が置かれ,天領であった東部3ヵ村はその管轄になる。そして71年の廃藩置県によって,それは丸亀県に合され,さらに丸亀県は高松県と合併されて香川県が設置される。一方,津山藩領であった西部6ヵ村は津山県になり,さらに津山県は鶴田(たずた)県,真島県(旧勝山藩)などと合併されて北条県が設置される。翌72年北条県の管轄であった西部6ヵ村は同県から分離されて香川県に移されたため,小豆島全体が香川県に属することになった。
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小豆島[町] (しょうどしま)

香川県小豆(しようず)郡,小豆島南部の町。2006年3月池田(いけだ)町と内海(うちのみ)町が合体して成立した。人口1万6152(2010)。

小豆島町西部の旧町。小豆郡所属。人口5416(2005)。北東部は嶮岨(けんそ)山に連なる急峻な山地で,南西に向かって山地が海岸近くまで延びている。典型的な瀬戸内式気候で,特産のオリーブは明治末より栽培が始まり,オリーブ加工工場や,オリーブの栽培・利用法を研究する県農業試験場小豆分場がある。キク,マーガレット,キンセンカなどの花卉栽培が盛んで,全国主要産地の一つとなっている。16世紀末から始められたとされる手延べそうめんは播州(たつの市など),三輪(奈良県桜井市)とともに全国三大産地の一つである。誓願寺のソテツ(天),皇子神社の社叢(天)のほか,明王寺の釈迦堂(重要文化財),池田の桟敷(重要民俗文化財),農村歌舞伎を奉納する中山舞台などの文化財がある。

小豆島町東部の旧町。小豆郡所属。人口1万1841(2005)。中央北よりに島最高峰の星ヶ城山(817m)があり,その西には奇岩怪石と紅葉で知られる寒霞渓(名)が展開する。しょうゆとつくだ煮を主とする食品工業が観光とならぶ町の基幹産業である。しょうゆ醸造は文政年間(1818-30)に始まり,現在は南部の内海湾に面する苗羽(のうま),安田,草壁地区に丸金醬油(1907創業)をはじめとする大小多数の工場が立地する。西村は日本最初のオリーブ試作地で,オリーブ記念館,オリーブ園,ハーブ園などからなる小豆島オリーブ公園(現在は道の駅)がある。田浦半島西端は壺井栄の小説《二十四の瞳》の舞台になった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小豆島」の意味・わかりやすい解説

小豆島
しょうどしま

香川県の北東部海上にある瀬戸内海第二の島。面積153平方キロメートル。備讃(びさん)瀬戸の東部に位置し、東には播磨灘(はりまなだ)を介して淡路(あわじ)島がある。小豆(しょうず)郡土庄(とのしょう)町、小豆島(しょうどしま)町からなり、属島に豊島(てしま)などがある。『日本書紀』には応神(おうじん)天皇が小豆島に遊んだという記載があり、古代の山城(やまじろ)跡などもある。古くは備前国(びぜんのくに)児島(こじま)郡に属し、江戸時代には幕府直轄地であったが、大坂町奉行(まちぶぎょう)、倉敷代官、津山藩預かりと支配体制がよく変わり、住民は苦しめられた。江戸時代には讃岐(さぬき)との関係はなかったが、1871年(明治4)東部3村が、翌年西部6村が香川県に合併された。

 交通は、土庄港を中心に高松、岡山、姫路、大阪などからの定期船便があり、島内では路線バスの運行のほか定期観光バスもある。国道436号が通じる。

[坂口良昭]

自然

地形は典型的な開析溶岩台地で、花崗(かこう)岩を基盤に集塊岩、凝灰岩、両輝石安山岩がのっている。最高点は星ヶ城山(ほしがじょうさん)の816メートルで、台地面の大部分は770メートル程度で美しの原とよばれている。安山岩の崖端(がいたん)にできた渓谷が銚子渓(ちょうしけい)であり、凝灰集塊岩の部分が差別侵食されてできた地形が寒霞渓(かんかけい)の奇岩怪石群である。

 気候は典型的な瀬戸内海型であるが、台風時にはしばしば土砂崩れを伴う大災害をおこす。花崗岩の風化土は崩れやすく、1974年(昭和49)7月の七夕豪雨(たなばたごうう)では小豆島町橘(たちばな)地区を中心に山崩れが発生し29人の死者が出た。1976年9月の17号台風のときは、6日間で年降水量以上の雨が降り、小豆島町谷尻(たにじり)地区や西村地区などに土石流が発生し39人の死者を出した。春先から初夏の濃霧の発生も、海上交通が不能になり孤島化するので生活上問題が多い。一方、水不足も深刻で、とくに小豆島町の旧内海町域では毎年のように断水問題が起きている。そのため貯水用ダムや砂防ダムの築造が進んでいる。

 寒霞渓は日本唯一というカンカケイニラやその他貴重な植物や昆虫の宝庫である。野生動物はシカとサルが多い。銚子渓には自然公園「お猿の国」があり餌(え)づけが行われる。シカは県獣でもあって保護されている。

[坂口良昭]

産業

江戸時代に始まるしょうゆ業は、小豆島町苗羽(のうま)を中心に島しょうゆの名で広い販路をもっていたが、第二次世界大戦後は千葉県産に押され、現在では佃煮(つくだに)の生産額がしょうゆの生産額を上回っている。近世初期に大和(やまと)(奈良県)三輪(みわ)から手延べそうめんの技法を持ち帰ったといわれる島そうめんは、小豆島町の旧池田町域を中心に盛んに生産される。1950年(昭和25)以来、旧池田町域では電照ギクのハウス栽培が行われ、全国屈指の産地となっており、秋から冬にかけては不夜城の観を呈する。

 県花・県木に指定されているオリーブは1908年(明治41)に政府が地中海地方から導入したもので、小豆島のシンボルである。害虫の多発、オリーブ製品の輸入自由化などのため一時急速に衰退したが、その後回復している。

[坂口良昭]

観光・文化

寒霞渓は応神天皇が登ったと伝えられ、古くから知られているが、小豆島がとくに有名になったのは1954年(昭和29)の『二十四の瞳(ひとみ)』の映画化以後のことである。原作は島出身の壺井栄(つぼいさかえ)の小説で、島の玄関口の土庄港には12人の子供と女先生の群像が立つ。島四国とよばれる小豆島八十八か所巡りに訪れる遍路も多い。

 島では歌舞伎(かぶき)を氏神に奉納する農村歌舞伎(地芝居)が残り「肥土山(ひとやま)の舞台」、また祭礼見物用の「池田の桟敷(さじき)」(ともに国指定重要有形民俗文化財)がある。国史跡に大坂城石垣石切丁場(いしきりちょうば)跡、特別天然記念物に宝生院(ほうしょういん)のシンパクがある。

[坂口良昭]

『『わたくしたちの小豆島』(1971・小豆郡教育会)』『壺井栄著『小豆島』(1980・光風社出版)』『富永航平著『小豆島遍路と旅』(2003・朱鷺書房)』



小豆島(町)
しょうどしま

香川県北部、小豆(しょうず)郡にある町。小豆島の東南部を占める。2006年(平成18)、小豆郡内海町(うちのみちょう)、池田町が合併して成立。町域は主として花崗(かこう)岩からなる山地が海岸に迫り、平地に乏しい。池田、草壁(くさかべ)、坂手(さかて)、福田(ふくだ)の各港と高松、姫路、神戸とを結ぶフェリーが就航。国道436号が通じる。瀬戸内海での漁業、そうめん製造、しょうゆ製造、福田地区の採石などが伝統産業で、そうめんは小豆島手延べそうめんとして著名。苗羽(のうま)付近は、しょうゆと、それを利用して第二次世界大戦後に始まった佃煮(つくだに)製造の工場が多く、コンブの佃煮の生産量は日本有数。日本におけるオリーブ栽培の発祥地とされ、観光農園の小豆島オリーブ園がある。スモモ(レッドスター)や電照ギクの栽培も盛ん。文化財、史跡、景勝地にも恵まれる。明王(みょうおう)寺の釈迦堂、長勝(ちょうしょう)寺蔵の木造伝池田八幡本地仏坐像3体、同寺が保管する銅製梵鐘はいずれも国指定重要文化財。奇岩絶景の渓谷美で知られる神懸(かんかけ)山(寒霞渓(かんかけい))は国指定名勝、岩谷(いわがたに)地区の山中や海岸に残る大坂城石垣石丁場跡は国指定史跡。亀山八幡宮の祭礼の野外見物席として利用される「池田の桟敷」、春日神社境内にある中山農村歌舞伎舞台(中山の舞台)はいずれも国指定重要有形民俗文化財。同舞台で例年10月に演じられる歌舞伎は、土庄(とのしょう)町の肥土山(ひとやま)農村歌舞伎とあわせて小豆島農村歌舞伎の名称で国指定無形民俗文化財および県指定無形民俗文化財となっている。ほかにも小豆島八十八ヶ所霊場(島四国)の第1番札所洞雲山、坂手出身の作家壺井栄(つぼいさかえ)の小説『二十四の瞳』の舞台となった岬の分教場、中世の星ヶ城跡、国の天然記念物に指定されている誓願(せいがん)寺のソテツ、皇子(おうじ)神社社叢などの名所がある。面積95.59平方キロメートル、人口1万3870(2020)。

[編集部]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小豆島」の意味・わかりやすい解説

小豆島
しょうどしま

香川県北東部,備讃諸島東端にあり,兵庫県淡路島に次ぐ瀬戸内海第2の島。豊島など周辺の 20余の属島を含み,南東部の小豆島町,北西部の土庄町からなる。最高点は星ヶ城山(816m)。花崗岩類上に火成砕屑石,安山岩類を載せるテーブル型の開析された溶岩台地で,北西端に中新世の土庄層群や更新世洪積世)礫層からなる洪積台地がある。気候は温暖な瀬戸内気候。年間降雨量は少なく,夏季は水不足が問題となることが多い。米,ムギ,野菜のほかオリーブ,電照菊などを栽培し(→電照栽培),養殖漁業が行なわれる。小豆島町では醤油,佃煮,手延べそうめんを特産。古くから花崗岩の石材および安山岩の砕石を産し,大坂城石垣石切丁場跡は国の史跡に指定されている。国の名勝である寒霞渓のほか,小豆島八十八ヵ所札所,『二十四の瞳』の映画村,余島キャンプ場など観光地が多く,大部分は瀬戸内海国立公園に属する。面積 153.29km2。人口 3万4572(2000)。

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百科事典マイペディア 「小豆島」の意味・わかりやすい解説

小豆島【しょうどしま】

瀬戸内海東部にある島。面積153.25km2で,淡路島に次ぐ内海第2の大きさ。古くは〈しやうす島〉ともみえ,中世には小豆島庄などが成立していた。15世紀には塩の生産が盛んであったことが知られ,熊野水軍の勢力下の水軍も活動した。江戸時代にはこのほか,輸出俵物用のナマコやそうめん業も主な生業となった。香川県小豆(しょうず)郡土庄(とのしょう)・小豆島2町をなす。ほとんど山地で,最高点は星ヶ城(816m)。低地は南西部の池田湾岸,南東部の内海湾岸など海岸に限られる。畑作が主でオリーブを特産,花コウ岩の石材,古くからの醤油の産もある。瀬戸内海国立公園に属し,寒霞(かんか)渓の奇勝,小豆島八十八ヵ所(島四国)がある。大阪,神戸,高松,宇野などから航路があり,島内はバス交通が発達する。
→関連項目池田[町]内海[町]香川[県]土庄[町]備讃諸島

小豆島[町]【しょうどしま】

香川県北部,小豆島南部に位置する小豆郡の町。2006年3月,小豆郡内海町,池田町が合併し町制。国道436号線が通じ,高松市,神戸市,姫路市などからの航路がある。95.59km2。1万6152人(2010)。

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事典 日本の地域遺産 「小豆島」の解説

小豆島

(香川県小豆郡小豆島町)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小豆島の言及

【小豆島】より

…島の表玄関土庄港をはじめ,池田港,草壁港,坂本港,福田港に高松,岡山,宇野,姫路,大阪,神戸からフェリーなどの定期船が就航している。【坂口 良昭】
[歴史]
 小豆島の名称は《古事記》の国生み神話や,《日本書紀》の応神天皇巡遊伝説にもみえ,古くから〈あつきのしま〉として知られていた。令制では備前国児島郡に属した。…

※「小豆島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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