白山城跡(読み)しろやまじようあと

日本歴史地名大系 「白山城跡」の解説

白山城跡
しろやまじようあと

[現在地名]東広島市高屋町白市

白市しらいちの東南にそびえる標高三一四・一メートル、比高約一〇〇メートルの半独立丘上にあった平賀氏の拠城。県指定史跡。平賀氏系譜(同家文書)の弘保の項に「御園生之要害、回山名殿之旗間、雖為名城、依山低、文亀三年始被誘白山之城、御園生之城ハ一族家老友安式部ヲ置云々」とあるように、高屋堀の御薗宇たかやほりのみそのう城の防御機能の弱さを考えて築いたもの。必ずしも峻険とはいえず比高も十分ではないが、平賀氏の所領のほぼ中央にあたり、交通路も四方に通じ、当時市町として発達しつつあった西北麓の白市の掌握にも至便であった。

白山城跡
はくさんじようあと

[現在地名]韮崎市神山町鍋山

鍋山なべやま集落の背後にそびえる標高約五六〇メートルのしろ山あるいは鍋山とよばれる独立峰山頂にある中世の山城跡。鍋山砦ともよばれ、同山中腹に白山権現社があることから白山城という。「甲斐国志」は武田氏の館跡の項で「城山ハ八幡山ノ南ナルヲ云、要害城ト見エタリ、今ハ鍋山村ノ域ニ属セリ」と記し、一般に北方に位置した武田信義館の要害であったとされる。武田信義は文治二年(一一八六)に没するが、信義の子石和五郎信光の曾孫武田時信の子孫は巨摩郡武川むかわ筋に割拠し、武川衆として発展する。「寛政重修諸家譜」によれば武川衆の一、青木氏の八代信種は「武田信縄及び信虎・信玄につかへ、武川のうち鍋山砦を守」ったという。

白山城跡
はくさんじようあと

[現在地名]宗像市山田

孔大寺こだいじ山に連なる白山に築かれた中世の城。「訂正宗像大宮司系譜」によると、宗像氏国が源頼朝から遠賀おんが(現岡垣町)地頭職を宛行われ、白山城を築き居城にしたという。また宗像氏仲が建暦三年(一二一三)七月一九日に大宮司職に還補し白山城に移ったこと、建武三年(一三三六)足利尊氏が九州に西走したとき宗像氏範の居城白山城に籠ったことなど、白山城についての記述がある。

白山城跡
しろやまじようあと

[現在地名]桑名市西別所

西別所にしべつしよの東北丘陵地にある平山城であったが、遺構不詳。長島一向一揆の拠点であった。「五鈴遺響」には「中嶋将監居セリ長島本願寺一揆与力ナリ、天正二年十月織田信長令シテ撃シム」とある。天正二年(一五七四)一〇月八日に信長が桑名東別所に着陣するや、付近の土豪は人質を出して和を結んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「白山城跡」の解説

はくさんじょうあと【白山城跡】


山梨県韮崎(にらさき)市神山町にある城跡。甲府盆地北部の釜無川西岸、標高約560mの独立丘上に位置し、川を挟んでほぼ真北の眼下に武田勝頼の最後の居城である新府城跡」を望む。『甲斐国志』によると、甲斐源氏の祖、武田信義によって築城されたといわれ、北麓には武田八幡神社がある。南北に延びる尾根上の東西約150m、南北約180mの範囲に北から馬出し郭(かく)、虎口郭、主郭、副郭を配し、山腹に横堀をめぐらせて横堀に放射状の竪堀(たてぼり)を接続し、西側背後の尾根には大きな堀切りを2ヵ所設けて遮断している。横堀と放射状竪堀の組み合わせは、戦国大名・武田氏の築城技術を示すものでもある。西側の背後は標高約882mの八頭山尾根へと続き、南北の尾根筋は白山城跡を包み込むように東側に下って、尾根の先端にそれぞれ烽火(のろし)台が築かれており、地元では南側をムク台、北側を北烽火台と呼んでいる。それぞれの烽火台は白山城の南北を守備し、白山城を経由して相互に連絡ができた。両烽火台を含む白山城は、信州諏訪(すわ)方面、佐久(さく)方面と甲府の武田館をつなぐ烽火台群の甲府盆地北部の中枢であり、新府城築城後は同城防衛の中核となった。武田氏の高度な築城技術を示す重要な山城跡として、2001年(平成13)に国の史跡に指定された。JR中央本線韮崎駅から山交タウンコーチバス「鍋山上」下車、徒歩約3分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報