他人が所有するものを奪い取ること。私有の観念の発生とともに古くからあった行為であろうが,さまざまな社会の中で,どのような行為が犯罪とされ,またどのように罰せられるかは,その社会や文化のあり方と深くかかわっているといえる。
なお盗みをめぐる現在の法律上の問題については,〈窃盗罪〉〈強盗罪〉〈横領罪〉の項を参照されたい。
盗みという行為がどう扱われるかは,その社会の〈所有観念〉と深くかかわりをもつ。個人所有をまったく否定する社会は事実上ありえないが,断りなく道具を使用したり,自由に飲食物を消費しても許される例はある。しかし,無制限の寛大さはごく狭い範囲の関係者だけに認められた特権であり,例えばニューギニアのガフク・ガマ族では近親または氏族成員間で,アマゾンのヤノアマ族では一つ屋根に寝起きする仲間うちで,そのような自由が享受される。逆にサンには,他人が発見した食用植物や倒した獲物は同じ宿営地の住人でさえも横取りできない掟があり,北米のオジブワ族も,他人専用の狩猟区に無断でわなを仕掛けたり,獲物を深追いして侵入するのを禁じている。これらの規則の違反者は仲間はずれや追放という制裁(サンクション)を受ける。
食糧の不足しがちな部族社会では,盗みが頻発するおそれが大きい。予防策として神霊に頼る場合も多い。メラネシアのグッドイナフ島民は祖霊に対して収穫物の,また霊験あらたかな呪い石には家具什器の盗難防止を祈願する。果樹にも呪文をかけておく。盗人は神罰を受けて病気に苦しむというのが島民の信仰である。このような超自然的威力に頼った盗難防止策が,現実にきわめて有効に機能している例は多い。
盗みに対する厳しい処罰はフィリピンのホロ島民に見られる。農耕作業に不可欠な水牛を盗みに来た者は,現場ですぐさま射殺するのが習いであった。同じくエスキモーでも狩猟に出た男の留守中に妻を連れ去った犯人を報復として殺すのは,被害者の正当な権利行使であった。
盗みの動機は必ずしも品物や異性への欲望ばかりではない。ホロ島民の水牛盗みやエスキモーの既婚女性誘惑は,生命の危険をあえて冒すことで〈男らしさ〉を誇示するのが真の目的であり,成功者には社会的名誉が与えられた。部族社会の結婚にも,盗みの〈象徴的〉側面が見られる。東アフリカのチガ族では,長期間の慎重な交渉の末に結婚をとり決めるが,挙式の当日には男たちが花嫁を力ずくで女たちから奪い,夫側へ引き渡す慣習がある。また,神話を分析した大林太良は,プロメテウスの火盗みや西アフリカのドゴン族の穀物盗みは人間の神に対する反逆と記している。盗みによって,神と人間を律する宇宙の権威と秩序の構造が動転し,新たな構造の生成が導かれる。このような〈盗み〉の神話には,犯人と被害者の二項対立,解決過程での未確定性および相剋,裁断時の立場逆転の可能性などの諸要素が包含されており,象徴論的見地からも〈盗み〉の意味の追求は興味深い。
執筆者:大森 元吉
日本の伝統的な村落社会においては,盗みには犯罪としての盗みと儀礼としての盗みがあった。犯罪としての盗みは,他人の家へ入ってのものは少なく,田畑の作物や山の草木など,野外にあるものを盗むのが基本であった。屋敷の絶対的な不可侵性に対して,耕地や山は皆のものとする共有の観念の伝統がその底にあるものと思われる。しかし,野外の作物や草木を取ることも犯罪であるとする観念はしだいに強まり,中世後期の惣掟や近世の村法にはそれら盗みに対する処罰規定が多くなった。村八分はじめ,一定期間赤頭巾を被せる方法など,さまざまな罰が加えられた。他方,儀礼としての盗みは,八月十五夜のだんごやサトイモを子どもたちが盗んで歩くことに代表されるが,小正月に他所の道祖神を盗んできたりする所も各地にある。八月十五夜の場合は,盗みは神への供物(くもつ)を神の代行として持ち去ることであると理解され,その役割を子どもが担うものである。道祖神盗みなどは,他所の幸いを自分たちの所へ引き込もうとするものといえる。いずれも犯罪とは考えられずに近年まで行われてきた。
執筆者:福田 アジオ
3世紀ころの日本社会を描写している《魏志倭人伝》に,倭人は盗窃しないと記されている。盗みが発生する前提として私有権の成長が不可欠であるから,3世紀ころの日本では私有権が未発達で,盗犯行為はあまりみられなかったのであろうか。《隋書》倭国伝には,倭国の風俗として強盗は死刑,強盗以外の盗みは贓物(ぞうぶつ)(盗品)を返還させるなり,奴隷にして贓物の分だけ役使するとみえている。律令時代になると中国法を模した詳細な規定が盗みについても定められ,強窃二盗を明確に規定し,盗品の性質や多寡,また既遂,未遂等に応じた刑量を定めている。賊盗律強盗条によれば威もしくは力をもって他人の財を奪うことが強盗であり,それ以外の盗みが窃盗である。強盗の最高刑は死刑であり,窃盗の最高刑は加役流である。平安時代に入ると検非違使が独自の法を発達させ,盗みを犯したものの田宅資財を没収し,罪の軽重を論ずることなく,役所において駆使した。
執筆者:森田 悌
日本中世社会では,盗みはもっとも忌むべき罪と考えられていたが,この盗みに対しては二つの対極的な法思想が存在した。一つは,在地の村落社会で〈地下(じげ)の沙汰〉として現実に機能したもので,それがそのまま在地領主の法,荘園領主の法,一揆の法などに採用された〈窃盗重罪観〉である。もう一つは,このような社会観念を前提にして,統治権者の撫民(ぶみん)の立場から,これをチェックしようとした公家法や幕府法にみられる〈窃盗軽罪観〉である。幕府法では,盗品である贓物を銭で換算し,その額の大小により罪の軽重を定めているが,基本的には,盗人の〈一身(いつしん)の咎(とが)〉におよばない賠償制が採用されていた。この刑罰の賠償制は,盗みを単なる物の移動としてとらえ,その物の返済,もしくはその不当な占有期間に見合う弁償を加えれば,罪を解消し原状を回復しうるという考え方にたつもので,世界諸民族の盗犯に対する法の標準的法理であったといえる。前者の社会的な窃盗重罪観は,鎌倉幕府の〈大犯三箇条(だいぼんさんかじよう)〉に対して,中世後期,殺人,放火,盗みを内容とする新しい〈大犯三箇条〉の語を生みだしたことに象徴されるように,一貫して現実の社会に機能していた。盗みに対しては見つけしだい打ち殺すのが,この世界でのルールであり,犯人の妻子まで縁坐として処刑されることもまれではなかった。戦国時代の法令にあらわれる一銭でも盗んだ者は死刑にするという〈一銭切(いつせんぎり)〉〈三銭切〉の語は,この在地の苛酷な慣習のもとから生まれたものである。中世日本人のこの盗みを忌み嫌う独特の観念は,盗みを一種の災い・穢れとする古い考え方に由来する。盗まれたものは,他のものによって代替えできない,いったん他人に占有されたものは完全に原状を回復させることが不可能である,穢れたものであるという観念が,盗みを許されざる大犯とする考え方の根底にあり,この犯罪に対して苛酷な刑が科されたのである。
執筆者:勝俣 鎮夫
江戸幕府は盗みに対してかなり厳しい刑罰をもって臨んだ。《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》(1742年成立)に見える盗犯に対する刑罰は,江戸時代前期よりは緩やかなものになっていたが,しかしなお死刑が科せられる場合が少なくなかった。同書は強盗,窃盗を区別せず,共に〈盗〉と称し,行為の態様によっていくつかの類型を設けていた。強盗に相当するものとしては〈追剝(おいはぎ)〉〈追落(おいおとし)〉〈押込〉などがあり,刑は,獄門,死罪等の差はあるものの,いずれも死刑であった。窃盗にあたるものも行為の態様により数種に分けられ,刑の重いものから列挙すれば,〈忍入りの盗〉〈戸明きの盗〉〈手元の盗〉〈軽き盗〉〈湯屋の盗〉の順となり,刑はまた,盗んだものの金額によっても左右された。〈忍入りの盗〉は家屋や土蔵の中に盗みの意図をもって侵入しての盗みであって,盗品の多少にかかわらず,初犯で直ちに死罪となった。この中には,忍び入って人を脅して盗むごとき強盗犯も含まれた。〈戸明きの盗〉は,同じく家屋等への侵入であっても,戸のあいている所から侵入し,もしくは用事等で戸をあけて入った後,出来心で10両以下の品を盗んだ場合で,入墨の上,重敲(おもきたたき)(百敲)がその刑罰であった。この両者の相違は場合によっては微妙であり,しかもいずれの盗と判断されるかによって,犯人の生死が左右されたから,両者の差異については幕府も慎重に扱い,精緻な判例法の発達が見られた。〈手元の盗〉は知人宅,旅籠屋(はたごや)等で手元にある品を,ふと出来心で盗んだもので,盗品の額により10両以上は死罪,10両以下は入墨敲(五十敲)の刑が科せられた。〈軽き盗〉とは〈往来通り懸りの盗〉に適用されるもので,これには家の前,縁先などに出ているもの,物干竿に掛けてある衣類等を盗む場合のほか,〈途中にての小盗〉すなわちすりが含まれ,風呂屋で他人の衣類と着替えて帰る〈湯屋の盗〉とともに,最も軽い敲刑(ただし10両以上の場合は死罪)に処せられた。なお窃盗犯の累犯体系は,他の犯罪の場合と異なる独特のもので,敲刑を受けたものは再犯で入墨刑,入墨刑のものが次に盗みを犯したときは死罪となる定めであった。ただし幕府にとってとくにたいせつな場所での盗み(〈御場所柄の盗〉),たいせつな客体(〈御用之品〉)に対する盗みや,不具者からの盗みなど,〈忍入りの盗〉でもなく,10両以下の盗みであっても,初犯から死罪となるものもあった。以上のような厳刑主義は,必ずしも人心に適合しなくなり,あるいは被害届に金額9両3分2朱と書き,あるいは〈忍入りの盗〉を〈戸明きの盗〉〈手元の盗〉として扱うなど,事実を曲げて刑を減軽化する傾向が見られた。なお江戸時代の村法には,盗犯に対して村が過料を科す等の処罰を行うことを定めたものがあり,軽微な盗犯は村内で処理されることもまれではなかった。
執筆者:林 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…盗んだ物を貧しい者に分け与える義賊とは異なり,恐れられることが多いが,稀代の大盗賊のなかには,民衆からひそかな喝采(かつさい)をおくられた者も少なくなかったことが知られている。
[ヨーロッパ]
ローマ最古の成文法である十二表法の第8表には,夜間盗みを行った者を現場で捕らえたとき,被害者は殺してもさしつかえないという規定があり,盗みに対する制裁措置が過酷であった。イエス・キリストとともに処刑された2人の男が盗賊であったことはよく知られた事実だが,中世社会に入ると犯罪の中で最も恐れられたのが,血だらけの殺人ではなく,他人の物を盗む行為であったことに注意する必要がある。…
※「盗み」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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