神山村(読み)こうやまむら

日本歴史地名大系 「神山村」の解説

神山村
こうやまむら

[現在地名]御殿場市神山・神山平こうやまだいら一―三丁目・富士見原ふじみはら一―三丁目

大坂おおさか村の南に位置し、南は岩波いわなみ(現裾野市)、東は箱根はこね外輪山を境に相模国足柄下あしがらしも仙石原せんごくはら(現神奈川県箱根町)で、西方には大野おおの原の草原が広がる。集落は町屋まちや(本村)高内たこうち尾尻おおじり須釜すがまの四つに分れ、うち須釜は延宝八年(一六八〇)の村鏡(武藤文書、以下断りのない限り同文書)に「本村より拾九町弐拾五間参り、深良村之内ニ神山村分須釜と申所」とあるように、本村の南東方深良ふから(現裾野市)地内の山間にある小集落であった。黄瀬きせ川が南流し、箱根外輪山を水源として西流する高内川が高内で黄瀬川左岸に注ぎ、黄瀬川の西側を南流する久保くぼ川は尾尻で黄瀬川の右岸に注いでいる。高内では「藤原女」と刻された貞和六年(一三五〇)の年紀のある銅鏡が発見されている。中世には足柄路・御厨みくりや道ともいった御殿場道が通る交通の要衝で、同道の宿駅として機能し、戦国時代には神山宿で問屋を営む武藤氏が名主・代官を勤めていた。なお宿場は町屋にあったと思われ、今も問屋・元問屋・角屋といった屋号をもつ家が残る。

〔中世〕

天文一九年(一五五〇)五月二〇日、葛山氏元は神山宿の名主武藤新左衛門に対して「神山政所給」として以前どおり二貫文を安堵し(葛山氏元判物)、翌二〇年一二月二六日には家臣の垪和山城守と渡辺備前守にこのことを伝えている(葛山氏元判物)。同二二年三月九日氏元は新左衛門の門屋五間分の棟別役・点役を免除し(葛山氏元判物)、弘治三年(一五五七)七月一一日にはその特権に変更のないことを確認、捺印している(同判物追筆)。永禄年中(一五五八―七〇)神山宿では伝馬役負担をめぐって争いが生じている。


神山村
こうやまむら

[現在地名]松田町神山

北から西境を川音かわおと川が流れ、東は篠窪しのくぼ村・山田やまだ(現大井町)、南は金子かねこ(現同町)、西は松田惣領まつだそうりようと接し、北の大住おおすみ(現秦野市)より矢倉沢やぐらさわ往還が通じ、松田惣領町屋まちやへ抜ける。

小田原衆所領役帳に篠窪民部丞「拾六貫三百七拾七文 西郡神山」と載せ、元亀四年(一五七三)七月九日の植松右京亮宛北条氏尭着到定書(県史三)によれば植松氏の貫高四〇貫五一〇文のうち「三貫五百十文神山にて出」とある。天正九年(一五八一)一〇月一七日の「神山 代官百姓中」宛北条家朱印状写(同書)

<資料は省略されています>

とあり、氏政から氏直への代替りに際し検地を実施せず段銭の増徴に変え、米穀だけで納めがたい時は銭でも綿でも有合せの物で納めるよう命じられている。


神山村
かみやまむら

[現在地名]五所川原市神山

大釈迦だいしやか丘陵の西端、長橋ながはし溜池の西に位置し、西は福岡ふくおか村、南は野里のざと村、北は松野木まつのき村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に神山村一九七・一八石とあり、うち田方一七六・一五石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳、貞享元年(一六八四)の郷村帳もほぼ同高である。同四年の検地帳は田方五七町二反六畝五歩・畑方二六町五反五歩、田畑屋敷合せて八三町七反六畝一〇歩、村高六一一・三〇四石、郷蔵屋敷、漆木三一本と記す。


神山村
こやまむら

[現在地名]能勢町神山

今西いまにし村の南西に位置し、長谷ながたに川が東流する。南西は三草みくさ山を隔てて川辺かわべ仁部にんべ(現兵庫県川辺郡猪名川町)。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)に南北朝初期と推定される当村の向井氏以下七氏が書上げられている。また永禄二年(一五五九)二月九日の能勢郡諸侍書上覚写(井戸家文書)にも神山村諸侍がみえる。村高は文禄三年(一五九四)の検地で二二〇石余(乾家文書)。領主の変遷は栗栖くるす村に同じ。延宝七年(一六七九)の小物成場検地帳(神山区有文書)によれば、栗木山・柴山・村分の草山があり、小物成は山手米・入木代・栢木代がかかっている。


神山村
こうやまむら

[現在地名]東久留米市上の原うえのはら一―二丁目・金山町かなやまちよう一―二丁目・神宝町しんほうちよう一―二丁目・下里しもさと一―二丁目・八幡町はちまんちよう一―二丁目・幸町さいわいちよう四―五丁目

落合おちあい村の北に位置し、東は新座にいくら石神いしがみ村・栗原くりばら(現埼玉県新座市)、北は新座郡西堀にしぼり(現新座市)。南を黒目くろめ川が流れ、北はかなりの比高差のある台地。門前もんぜん村と同様、近世初期に前沢まえさわ村から分れて成立したとされる。この頃は幕府領・旗本米津領・浄牧じようぼく院領の三給であったが、寛永の地方直しで幕府領の一部が旗本蜂屋領と同田中領となり五給となった(以上「東久留米市史」)


神山村
こうやまむら

[現在地名]河南町神山

なか村の西にあり、北は寛弘寺かんこうじ村。中央部を北流する千早ちはや川流域を含む台地上に位置する。川沿いに千早街道(富田林街道)が通り、中村への道との交差点辺りを茶屋の辻とよんだ。村名は鎮守の鴨習太かもならいた神社の所在地神山にちなむという(河南町誌)

天正一二年(一五八四)一一月の河内国御給人御蔵入之内より出米目録(中之島図書館蔵)に二八五石四升「かうやま」とみえ、右のうちより一〇八石五斗二升二合出米と注記される。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四五五石余、幕府領、小物成として山年貢米一石五升。


神山村
こうやまむら

[現在地名]信楽町神山

江田えだ村の南に位置。山に囲まれ、東は伊賀国境。大戸だいど川の支流が村内を流れ、集落はこれを挟んでいくつかの垣内をなす。伊賀国丸柱まるばしら(現三重県阿山郡阿山町)に越えるさくら峠は丸柱越・信楽越・栂嶺とがみね越ともよばれた。「近江国注進風土記」にみえる「神山」は当地のことか。中世は信楽庄に属した。建武四年(一三三七)四月日の小佐治基氏軍忠状(小佐治文書)によれば、小佐治基氏は信楽上郷の「甲山」東口より攻めて南朝勢を攻略した。


神山村
こうのやまむら

[現在地名]熊野市飛鳥あすか町神山

寺谷てらだに村の南南東、大又おおまた川流域に開けた村。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「粉山村」と記される。「紀伊続風土記」に「神は神戸の義にて神戸の山の義なり」とある。小名滑地なべらじは北一キロの大又川沿いに位置する。近世初期の家数三一(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。北山組に属する。新田畑開発に関しては、寛永一六年(一六三九)から享保一五年(一七三〇)にかけての史料が残っている(「奥熊野神山村新田検地帳」徳川林政史蔵など)


神山村
こうやまむら

[現在地名]安濃町南神山みなみこうやま

穴倉あなくら川が長谷はせ(三二〇・六メートル)きようヶ峰(八一九・三メートル)の山稜とに挟まれた谷間を蛇行して平地部に流れ出たところにあり、前野まえの村の西にあたる。穴倉川をさかのぼると日南田ひなた(現美里村)に至る。「五鈴遺響」には「草生郷ノ内ナリ草生神山ト称ス。同郡同名雲林院ノ内神山アリ方俗分弁センカ為ニ郷名ヲ冒シテ称ス」とあり、神山こやま(現芸濃町)との違いを記す。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「神山」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数二〇、人口九七、牛七。


神山村
かみやまむら

[現在地名]宜野湾市神山かみやま愛知あいち赤道あかみち・赤道一―二丁目・中原なかはら上原うえはら一―二丁目

宜野湾じのーん村の北、宜野湾街道沿いにある。初め浦添うらしー間切に属し、絵図郷村帳で同間切のうちに「かミ山村」とある。康熙一〇年(一六七一)宜野湾じのーん間切新設により管轄替えとなり、「琉球国由来記」「琉球国旧記」では宜野湾間切のうちで神山村とみえる。「中山伝信録」では「城田」とあり、これは神山村の地頭家名城田を記したと考えられる。乾隆一四年(一七四九)の和宇慶里之主親雲上の言上写(毛姓与世山家家譜)に「宜野湾間切城田地頭所」とみえる。拝所に宜野湾ノロ管轄の神山之殿があり、麦・稲四祭には地頭・百姓中が花米・五水・神酒を供えた。村掟は置かれておらず、四員夫地頭内の村であったと考えられる(琉球国由来記)


神山村
こうやまむら

[現在地名]宇土市神合こうあい

東は神原こうばる村、北は石橋いしばし村、西は山越しに網引あびく村、南は長崎ながさき(現宇土郡不知火町)、四方高低のある地形。村の南西に柳迫やなぎさこ鳴原なるはらなど、西に端谷はしだに白山はくさん坊屋敷ぼやしきなどがある(郡村誌)。慶長国絵図に村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では田方三一二石一斗余で「はへ山有」とあり、畠方は六九石二斗余。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると宇土知行所の村で、竈数二八・人数一五二・役男三五、本方四〇〇石、田一七町九反三畝余・畑七町五畝余、新地二反九畝余、永荒畑五反三畝余、諸開一町六反余、他に茶床がある。


神山村
こやまむら

[現在地名]芸濃町北神山きたこやま

小野平おのひら村の東、安濃あのう川右岸でたき川の合流点の沖積地上に立地する近世初頭の新村。寛永一四年(一六三七)の忍田区有文書に「河内山・神山村山之出入ニ付相究覚」がある。神山村は雲林院うじい村の分村ともいわれており、安永四年(一七七五)の「勢陽在名集」では「雲林院ノ内 神山」とある。安濃郡には二つの神山村があり、他(現安濃町)石切神山いしきりごやままたは南神山とよぶのに対し、当村を雲林院神山または北神山とよぶ。


神山村
かみやまむら

元治元年(一八六四)上山かみやま村が改称、明治三五年(一九〇二)まで存続した村。元治元年五月五稜ごりよう郭が竣工、鬼門にあたる上山村に東照宮が創建され(祭神記)、村名が神山村と改称された(函館市史)。明治元年の戸口は五〇軒・二六〇人(旧記抄録)。同二年亀田郡に所属。同四年の戸口は五三軒・二七五人。田五町九反・畑二〇町三反、産物は稗・粟・麦・蕎麦・大豆・小豆・大根・五升芋・角豆。馬三五四、秣一万一千九〇〇坪、浄土宗無量むりよう庵、草庵一寺がある(明治四年渡島統計)


神山村
かみやまむら

[現在地名]小高町神山

耳谷みみがい村の枝郷。宮田みやた川の上流部に位置し、東は浜街道を境に上浦かみうら村、北は上根沢うわねざわ村、南は丘陵を境に標葉しねは立野たつの(現浪江町)。寛文四年(一六六四)に耳谷村から分村したとされ、天保郷帳では耳谷村に「古者 耳谷村・神山村弐ケ村」と注記される。明暦二年(一六五六)の高一二九石余(相馬藩政史)元禄郷帳に耳谷村枝郷と注記され高一八四石余。


神山村
かみやまむら

[現在地名]大洗町神山町

沼の北東岸に位置し、北東は大貫おおぬき村。応永二八年(一四二一)の文書と伝える鹿島神宮所領日記(鹿島神宮文書)に「かミ山かう十九貫」とあり、六反田ろくたんだ(現常澄村)六地蔵ろくじぞう寺恵範の「心車鈔」には「亀山村不動堂勧進疏」とある。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に神山村五七五・四五石とあり、当地と思われる。


神山村
こうやまむら

[現在地名]十津川村大字神下こうか

玉置たまき山東方、くず川西方に立地。十津川郷のうち。寛永郷帳には「かう山村」と記し、村高八・六七三石、幕府領。元禄郷帳では村高七石。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に椴栂松尺〆二〇本、杉板二五〇間、茶一〇貫目、炭二五〇俵、椶櫚皮一〇〇枚とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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