西光寺
さいこうじ
[現在地名]三国町宿
真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。本堂は米ヶ脇、庫裏は宿と両地籍にまたがり、その間の道路上を廊下橋で結んでいるため、俗に橋寺ともいう。開基は性光。文明三年(一四七一)本願寺八世蓮如の弟子となり、坂南郡川尻村(現福井市)に道場を開いたのに始まる。同六年八月六日の蓮如消息写(大阪府堺市真宗寺蔵)に「コノ方河尻性光門徒ノ面々ニヲイテ」とあることから、性光は坂井郡一帯の本願寺系門徒団の中心的人物であったとみられる。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]熊本市細工町二丁目
細工町二丁目の西側にあり、南に阿弥陀寺がある。慈雲山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。「国誌」によれば、開山は了宗で、明応年間(一四九二―一五〇一)山鹿郡方保田村(現山鹿市)に建立したのに始まるといい、熊本における浄土真宗寺院の最初の建立である。永正五年(一五〇八)西光寺の号を得、同地には二世了心までおり、慶長年間(一五九六―一六一五)三世了勧の時、加藤清正の招請によって当地に移ったという。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]富山市中布目
曹洞宗寺院で、山号は布金山。本尊は釈迦如来。文明一八年(一四八六)に布目に創建された大安寺の後身。明治期初頭まで存続していた大安寺は太田保における曹洞禅の創始である瑞泉寺末の一つで、最勝寺四世貫翁龍珠の弟子雪天存康(文亀元年死去)が開山。当寺には文禄三年(一五九四)正月二五日の前田利家印判状写が伝存し、米などの新川郡より猪谷(現細入村)までの飛騨街道運送方法が記されている。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]磐田市見付
旧東海道見付宿の西部、旧横町の加茂川西岸にある。東福山と号し、時宗。本尊の阿弥陀三尊像および日限地蔵は東福門院(徳川秀忠の娘和子、後水尾天皇皇后)の寄進(「古社寺取調書」西光寺文書)。寺伝によると文永二年(一二六五)真言宗阿闍梨傾木の創建で、弘安六年(一二八三)一遍の遊行を迎えて改宗、これを開祖に招請したという。江戸時代には朱印高三二石余(正保郷帳など)。寺領は寺堂のある見付の横町と北は河原藪敷から一の谷にかけて、南は字赤髯・上野までほとんど畑地で、加茂川縁に寺の作付田があった(慶長九年「検地帳」・慶安二年「寺領田畑帳」西光寺文書)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]鯖江市杉本町
石田山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。本願寺六世巧如の三男周覚(現福井県上志比村興行寺開祖)の長男永存を開祖とし、本願寺七世存如の布教留錫の地、丹生北郡石田荘に草創された。江戸時代は准連枝格の寺であった。越前一向一揆激化の頃は、その旗頭として活躍し、天正三年(一五七五)一揆平定のため織田信長が越前へ侵攻した時、当寺五代真敬は、木ノ芽峠の鉢伏城(現福井県今庄町)に立てこもり、同年八月一六日敗死した(勝授寺文書)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]宇多津町 今市
大束川の西岸、市街地に所在。浄土真宗本願寺派、諦観山と号し、本尊は阿弥陀如来。西光寺縁起によれば、承元元年(一二〇七)法然が讃岐に配流された折、九条兼実はこれを嘆き、近衛家領塩飽庄預所である高階時遠入道西忍に依頼し法然を守護させた。西忍は宇多津に草庵を建て、自身の念持仏の阿弥陀如来を安置し法然に供奉、のち西光寺と称したという。法然帰京後は弟子然慶が相続した。その後細川頼之が同清氏との合戦で勝利したのち本堂を建立、寺地・仏餉田を寄せ禁制を与えた。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]沼津市本 宮町
沼津市街の南部、狩野川の河口近くの右岸に位置する。福応院と号し、時宗。本尊は阿弥陀三尊。寺伝によると初め真言寺院であったが、弘安五年(一二八二)真言一五世尭存が修行中の一遍に帰依し、文阿と改め時宗に転じたという(駿河志料)。かつては沼津道場とよばれ、守護今川氏以下、代々領主の外護を受けた。文亀元年(一五〇一)九月、今川氏親の生母北川殿は「沼津道場」に田一町八反・畠二町二反小を寄進している(「北川殿寄進状」「北川殿寄進畠地注文」寺蔵文書、以下断りのない限り同文書)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]近江八幡市中村町
中村町の北東にある。竜亀山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。天正七年(一五七九)の安土宗論における浄土宗側論者の一人、貞安が宗論に勝った恩賞として織田信長より安土城(現滋賀県安土町)大手前の田中に寺地を与えられ、堂宇を建立したことに始まるという(「信長公記」など)。同一四年豊臣秀次の八幡城下形成の折に安土から現在地に移った。同一三年には正親町院、一八年には後陽成院の勅願所となっている(「蒲生郡志」など)。
江戸時代を通じ中村地内に高一一石四斗余の朱印地を有し(寺蔵文書)、「浄土宗寺院由緒書」によれば、末寺に丸山村(現近江八幡市)海雲寺・清見寺、神崎郡伊庭村(現滋賀県能登川町)妙金剛寺、野洲郡大篠原村(現同県野洲町)西養寺があった。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]大石田町大石田 四日町
石水山と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。応永年中(一三九四―一四二八)光明寺(現山形市)七世其阿達心の創建と伝える。延宝三年(一六七五)に再興されたが、明治三年(一八七〇)に類焼し、現在の堂宇は同五年に再建されたもの。境内に享保飢饉時の餓死者霊を祀った唐金地蔵尊があり、「西光寺相阿教順和尚、享保六巳年七月、武州江戸大門通亀井町 施主最上屋喜兵衛」の銘と数多くの法名が刻まれている。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]弘前市新寺町
新寺町寺院街にあり、貞昌寺もと境内北側、天徳寺の東、西福寺の北隣に位置。行岳山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。もと貞昌寺塔頭。
蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、開山は寂蓮社良然、元和年間(一六一五―二四)の開基とある。寺伝によれば、同寺の開基は宗祖法然の弟子金光で、奥州を布教中、蓬田村(現東津軽郡蓬田村)の阿弥陀川で阿弥陀如来像を発見し、像を背負って布教。最後に庵を結んだ中野村(現南津軽郡浪岡町)に、あとで西光寺が建てられ、代々浪岡城(現浪岡町)城主北畠氏によって保護されたという。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]豊岡市九日市上町
円山川西岸、勝妙寺の南方にある。背後は丘陵で西光寺谷の小字名を残す。宝珠山と号し、本尊は阿弥陀如来。時宗。元亨元年(一三二一)創立と伝え、山名宗全(持豊)が康正二年(一四五六)一〇月一七日に亡母の十七回忌法要を営んだ「西光精舎」(蝉庵稿)は当寺とみられる。文明一八年(一四八六)焼亡(「但州西光寺化縁疏并序」半陶文集)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]右京区太秦多藪町
西高瀬川と旧下嵯峨街道の間に位置する。来迎山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝は安貞元年(一二二七)僧幸阿の開山という。太秦西光寺略縁起(太秦村誌)によれば、法然の弟子来迎房円空の住房跡で、法然死後の嘉禄三年(一二二七)六月、比叡山延暦寺の荒法師が東山大谷(現京都市東山区)の墳墓を破却しようとした際に、棺を嵯峨二尊院(現右京区)に、さらに当所来迎房に移して、翌年正月粟生光明寺(現京都府長岡京市)で火葬するまで安置したという。「法然上人行状画図」「法然上人伝記」とも「廿八日の夜、しのびて広隆寺の来迎房円空がもとにうつしたてまつりて」と記す。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]橋本市柏原
柏原集落の南東部にある。高野山真言宗。本尊阿弥陀如来。明治四一年(一九〇八)山田(現橋本市)の一言主神社に合祀された熊野神社(証誠権現社)の別当寺であった。近世は南馬場(現同上)天竜院末。柏原区有の西光寺文書によれば、正応二年(一二八九)一一月、藤原行房が柏原村西光院の灯油田として田畠を同寺一結講衆に売渡している(藤原行房田畠売渡状)。当寺の阿弥陀仏の信仰集団である結衆の存在がうかがわれ、この頃から応永年間(一三九四―一四二八)まで阿弥陀仏へ多くの田畠の寄進・売却があった。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]上田市大字富士山 三門地
町屋村の小字三門地にある。真言宗、松本山阿弥陀院西光寺。本尊大日如来。もと下野国鶏足寺末であったが、塩田前山の前山寺末となる。往古は末寺に東光寺・善光寺・蓮光寺・城光寺・来光寺の五光寺があったという(長野県町村誌)。
元亀元年(一五七〇)九月、武田信玄は「今度御尋之鎖張進上、一段御悦喜ニ候、為其御褒美、門前三人之分、御普請并兵粮運送等之役、被成御免許者也、仍如件」(西光寺文書)と免状を与え、天正六年(一五七八)武田勝頼は、阿弥陀免七七五文、観音免一貫二九〇文、油免六百文の計二貫六六五文を安堵した(同文書)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]調布市上石原一丁目
旧甲州街道の南側にある。聖天院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。中世には石原聖天坊という修験の寺であったことが、深大寺僧長弁の「私案抄」に記す応永三四年(一四二七)一〇月二〇日の先師幸承追善の諷誦と卒都婆意趣書、および永享六年(一四三四)一一月五日の先師幸尊追善の卒都婆意趣書によって明らかである。「風土記稿」には長谷山聖天院という修験の寺であったが、寛文年間(一六六一―七三)頃僧弁盛が天台宗に改宗したとある。弁盛は深大寺五七世で、「深大寺縁起」のうち慶安三年(一六五〇)の真名縁起の詞書を執筆している。慶安年中に寺領一四石余の朱印を与えられ(風土記稿)、この寺領は下石原宿内にあった(旧高旧領取調帳)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]輪島市西院内町
日乗山と号し、高野山真言宗。本尊不動明王。寺院明細帳には、元亀元年(一五七〇)三月密乗の創立とあるが、中興の祖と思われる。建久八年(一一九七)六月九日の地頭長谷部信連禁制案(西光寺文書)に「大屋御庄南志見村内西光寺」とみえ、当寺の四至を定め、敷地田二段を寄進している。南は一瀬、北は堂谷川(南志見川に比定される)、東・西は山を限り、寺域は東西一町・南北三町であった。ただしこの文書は検討を要する。信連は建仁元年(一二〇一)八月当寺に対する沙汰人以下百姓の煩いを止め(「地頭長谷部某下文案」同文書)、建保二年(一二一四)八月僧慶心を当寺院主職に補任し、当寺を鎌倉殿祈祷所として、地頭代以下の煩いを停止している(「地頭某下文案」同文書)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]佐世保市上柚木町
上柚木町の中ほどにある。東嶽山と号し、真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来・虚空蔵菩薩。古くから虚空蔵菩薩の霊地として知られ、開山の盛行は平戸安満岳の西禅寺(現廃寺)の盛雅のもとで修行を積んだという(「西光寺虚空蔵堂記」寺蔵文書)。貞享四年(一六八七)平戸藩五代藩主松浦棟が領内を巡見した際に寺号のないのを惜しみ、廃寺となっていた佐々村西光寺(現佐々町)の寺基を移すことを許し、寺領一五石および山林を寄進、以後も歴代藩主の保護を受けている。寛政六年(一七九四)寄進の子育地蔵尊のほかに護摩祈祷殿・奥院大師堂・八天宮などがある。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]西会津町上野尻
上野尻集落の南方にある。無量山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「新編会津風土記」によると、永正(一五〇四―二一)の頃良然の中興、慶長年中(一五九六―一六一五)に蒲生秀行の臣津川城(現新潟県津川町)城主岡半兵衛によってそれまでの寺領を没収されたという。寺伝によると、慶長一八年駿河駿府(現静岡市)において半兵衛が誅戮されたのち、徳川家康に寺領の復活を願出たが果さず、代りに蒲生氏郷の画像と和歌一首を賜ったという。この画像(国指定重要文化財)は縦七一センチ・幅三九センチ、紙本著色で参議従三位の正装の姿を描いており、元和七年(一六二一)の製作である。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]八木町字神田
神田集落の北西山麓にある。飯盛山と号し、真言宗大覚寺派、本尊阿弥陀如来。嘉応年中(一一六九―七一)の創建、開基を慶巌としており、文覚が中興したと伝えられる。
「丹波志桑船記」によると、往古は寺領三千石を領し、塔頭三六寺、本坊住持は日野・北小路家から出たが、江戸時代には朱印地二五石、本坊・禅学院・奥之坊の三寺のみであった。北条時頼・文覚の書状も蔵されていたというが、現在は本坊のみで、禅学院など二寺は旧跡を残すのみである。旧高旧領取調帳によれば、神田村に一九石余、広垣内村に三石余、雀部村に二石余の寺領があった。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]菊川町大字下保木
木屋川の下流、通称小日本平野とよばれる穀倉地帯の東南部、下保木の中央丘陵地にある。門前に肥沃田が続き、木屋川を挟んで大野平野を望む。西山浄土宗で白雲山と号し、本尊は阿弥陀如来。
寺伝によれば、延慶元年(一三〇八)周恵の創建と伝え、白雲山安養寺と称し、初めは禅宗であったという。豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した石州津和野城主吉見元頼の家臣下瀬頼直の「朝鮮渡海日記」の天正二〇年(一五九二)三月一八日条に「豊東郡の内ほぎの村あんやう寺ニ御やと被成候」とみえる。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]山形市小白川町四丁目
旧笹谷街道を挟んで天満神社の南にある。東白山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。宝樹山称名院仏向寺血脈譜写(西沢文書)によれば、永徳元年(一三八一)開山蓮阿によって創建された時宗寺院であった。当寺蔵の太鼓銘に「檀那成沢義清 西光寺東白山小白川道場常住光阿聖 十方檀那」とみえ、享禄三年(一五三〇)二月一五日の紀年銘がある。当地を領していたとみられる成沢義清の寄進であった。当寺は雨乞寺として著名で、最上義光時代には寺領一〇石を与えられ、江戸時代にも同高の寺領が継承された(山形故実録)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]群馬町保渡田 薬師前
薬師塚古墳の前方部にある。浄土宗、紫雲山東陽院と号する。本尊は阿弥陀如来。創建は応永二年(一三九五)と伝え、開山は随泉。創建当時は西方の字阿弥陀にあったが、戦国時代には有力な支持者もなく、荒れるにまかせ荒廃した。元亀二年(一五七一)武蔵岩槻城(現埼玉県岩槻市)城主北条氏房の伯父誓願が来住し中興したという。寺は通称元屋敷とよぶ字道心座にあった。現在地に移ったのは天和三年(一六八三)以降である。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]常陸太田市谷河原町
真宗大谷派で鳥喰山無量光院と号する。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると建保三年(一二一五)唯円房寂照の開基といい、寂照は鳥喰の唯円房とよばれ、もと那珂郡鳥喰新田(現那珂郡那珂町豊喰)に住したので山号にしたという。鳥喰に本泉寺を創建したが、寛永三年(一六二六)藩主徳川頼房の命で現在地に移し現寺号に改めたという。唯円は「歎異抄」を編述した人物だが、一説には二人いて「歎異抄」の唯円は河和田村(現水戸市)に道場を開き、親鸞の没後に活躍した人ともいわれる。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]赤坂町多賀
天台宗、菖蒲山と号し院号随縁院、本尊阿弥陀如来。天平勝宝年中(七四九―七五七)報恩大師建立の備前四八ヵ寺の一つ。建久三年(一一九二)持運の再興という。永和二年(一三七六)銘の鰐口に「菖蒲谷西光寺」とみえる。住職浄阿が備前吉岡庄(現瀬戸町)の友永に作らせたもの。本尊は行基作と伝え、台座に元禄八年(一六九五)、脇に同九年銘の観音像・勢至像がある。庫裏(箱棟造)は万治三年(一六六〇)建立、仁王門(三間一戸八脚門、入母屋造)は天和三年(一六八三)建立、本堂(入母屋造)は安永三年(一七七四)建立。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]松江市和多見町
大橋川に架かる松江大橋南詰南東に位置する。市成山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、親鸞直弟子で二四輩の一人である唯円が常陸国那珂西郡鳥喰(現茨城県那珂町)に一宇を建立したのを創始とする。唯円の数代後の幸順は故あって常陸を去り、永禄年中(一五五八―七〇)に出雲国島根郡市成村(現在の西川津町に市成の通称が残る)に移住し庵を海潮庵と称した。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]金津町中川
中川の北東部にある。真宗高田派。仏原山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、もと加賀国仏原村(現金津町)にあったが、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫氏が一向一揆に滅ぼされた時、越前坂北郡兵庫郷(現福井県坂井町)に移転したという。その後、伊勢の高田専修寺の住持職を越前真智と伊勢応真の二派に分れて争った時、真智を擁立する越前の大坊四ヵ寺の一寺となった。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]田原町西神戸 神明前
三霊山と号し、真宗高田派。本尊阿弥陀如来。境内七七五・九坪。寺伝によると奈良初期の創立で、弘仁六年(八一五)現在地に一宇を創設し、潮転山哥口寺と称し天台宗であった。嘉祥元年(八四八)慈覚大師が一本の桜の木に一刀三礼して弥陀・釈迦・大日の三尊を刻み、以来天台顕密兼行の精舎であった。正嘉元年(一二五七)に真宗の顕智が伝道に来て当寺に滞在し日夜説法を行った際に、時の住僧覚証がその化風に帰依して真宗に改めたという。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]小川町小川
小川の南東部、槻川右岸、仙元山北東の麓に位置する。瑞龍山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。開基は天文二年(一五三三)に没した西光院前黄門瑞龍浄喜大居士というが、西光院の俗名は不詳である。開山は遠山寺(現嵐山町)五世の宗室真超。慶安二年(一六四九)には徳川家光より高一〇石の朱印地を与えられている(「徳川家光朱印状」寺蔵)。本堂内には閻魔像が祀られ、同像の前に奪衣婆像がある。この奪衣婆は「じょうづかのお婆さん」とよばれ、真綿一かせを納めて子育ての祈願をする風習があったと伝える。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]斐川町三分市
三分市の南西、砂川北岸に位置する。鼓音山と号し、臨済宗相国寺派、本尊阿弥陀如来。「出東村誌」によると、創建開山は不詳だが、富村富田寺開山の天珪が慶安三年(一六五〇)当寺を拝請したのでこれを始祖とした。境内に鎮守堂・地蔵堂・毘沙門天を祀る長徳院がある。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]下関市大字清末
清末の中央よりやや北西部、字田畑にある。浄土真宗本願寺派。槃若山と号し、本尊は阿弥陀如来。
寺伝によれば、大内家の家臣真鍋幸次郎が本願寺蓮如に帰依、法名了円を賜り長禄三年(一四五九)長州熊野村に創建、のち二世了信の時、現在地へ移転建立した。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]大刀洗町本郷
三原城跡の東方に位置する。浄土宗。神光山と号し、本尊は阿弥陀如来。寛文十年寺社開基などによれば、永正一四年(一五一七)三原城主三原種勝が菩提寺として建立、庵主は碩序叟であったという。種勝とその子種親、孫の左衛門太夫重種の頃に最も盛んであったが、重種没後は退転。江戸時代、林西が廃寺を嘆き草庵をここに結び、千日の念仏を勤めた。寛文二年(一六六二)その法弟順西が四方の檀家に願って草堂を再興、順西以後同九年まで再び無住。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]長野市南長野 北石堂町
浄土宗。一般には刈萱山あるいは刈萱堂というが、刈萱山寂照院西光寺というのが正しい。本尊阿弥陀如来。
寺伝に、開山は刈萱道心等阿法師で、等阿は筑前国三笠郡刈萱庄博多の人、俗名を加藤左衛門尉藤原重氏という。仁平二年(一一五二)法然の室に入り得度し、寂照坊等阿と号した。長寛二年(一一六四)三月黒谷を出て高野山に登り、念仏を修行。その子石堂丸は寂照坊の弟子となり、信生坊道念と号した。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]池田市新町
浄土宗。不断山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、天文一五年(一五四六)京都知恩院の徳誉光然の嫡弟で、万里小路秀房の子息満誉祐円が諸国遊化の途次当地に止宿、一宇を建立したのに始まる。元禄九年(一六九六)誠誉のとき諸堂の再建がなされたという。「蓮門精舎旧詞」には「不断山西光寺起立不知、開山善蓮社満誉上人和尚、生国姓氏等不知」とある。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]萩市大字瓦町
蓮池院の西に位置する。霊沙山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。
もと安芸国西条(現東広島市西条町)にあったが慶長年間(一五九六―一六一五)萩に移り、御弓町に一宇を建立したが、海辺に近く風波の節破損するので寛永年間(一六二四―四四)瓦町本町に、さらに宝永七年(一七一〇)現在地に移建された(萩諸町之旧記草案、八江萩名所図画)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]東大阪市吉原
浄土真宗本願寺派、山号霊松山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると永正五年(一五〇八)正善の開基。正善は俗名を佐々木重綱といい、江州佐々木氏の一族で、文明年中(一四六九―八七)戦乱を避け当地に移住。久宝寺村(現八尾市)にいた蓮如に帰依して出家し、今米村の中氏の援助で当地に道場を創設したという。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]岡崎市鴨田町
鴨田町西南の洪積台地の西端に位置する。長親山と号し、浄土宗鎮西派。本尊阿弥陀如来。もと大樹寺末。応仁元年(一四六七)の井田野合戦の死者を弔うために、松平四代親忠が戦場跡に念仏堂を建て、大樹寺開山勢誉が七昼夜の別時念仏を営んで亡魂を鎮めた所である。のち破壊したのを五代長親が再興して西光寺としたと伝える。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]階上町道仏 大蛇長根
道仏の北西、国道四五号の北側に位置する。海中山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一盛岡大泉寺末寺道仏村 海中山西光寺」とある。寺伝によれば文安元年(一四四四)道仏城主赤松民部介義成の命により開創され、開山は孝寛という。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]野辺地町 寺ノ沢
通称下町にあり、北は海中寺である。本龍山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「西光寺 本龍山京都東本願寺末寺、無触頭」とある。慶長一八年(一六一三)の草創で、開山は飯田願正釈浄玄と伝える(新撰陸奥国誌)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]境町西泉田
西泉田の中央に所在。境内に桜が多い。虚空山歓喜院と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。正和三年(一三一四)または同四年に持阿良心が橋本図書之助などの信徒とともに創建したと伝えられる。持阿良心は高声寺(現岩井市)第二祖で、当寺など数多くの寺院を創建した。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]階上町晴山沢 根岸
晴山沢のほぼ中央の根岸にある。晴沢山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一八戸来迎寺末寺晴山沢村 晴沢山西光寺」とある。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]檜山郡厚沢部町字滝野
安野呂川の北岸、同川沿いに開けた平坦地にある曹洞宗寺院。山号龍沢山、本尊釈迦如来。宝暦一〇年(一七六〇)江差正覚院六世の伯仲が安野呂村の現在地に西光庵を創建したという(明治一二年「開拓使渡島国檜山郡末庵及仏堂明細帳」)。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]蟹江町蟹江本町 城
城南山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。縁起によれば、古くは天台宗だったが、嘉禎元年(一二三五)親鸞が関東から帰国の途次、萱津宿(現甚目寺町)で草庵を結び留錫した際、当寺の覚全がこれに参じて真宗に帰依したことに始まる。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]能代市上町
在府屋敷の南側にあたり、真宗大谷派、照護山と号し、本尊は阿弥陀如来。
文化年間(一八〇四―一八)の能代町絵図(県立秋田図書館蔵)では間口三三間余、七間二尺の門がある。寺院台帳(秋田県庁蔵)によると、元亀年間(一五七〇―七三)に能代に草庵を結び、天正二年(一五七四)に西光寺の寺号と本尊安置の免許を受け、秋田氏から二千一一八坪の不毛の地を与えられたという。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]加悦町字後野 福井
九鬼山と号し、高野山真言宗。本尊不動明王。中世末の丹後国御檀家帳に「かやのいちはにて(中略)いちば(中略)西光寺」とみえ、天和二年(一六八二)の丹後国寺社帳にも「後野村 西光寺」とみえる。
西光寺
さいこうじ
[現在地名]守谷町大柏
大字大柏のほぼ中央に所在。大柏山林香院と号し浄土宗。応永年間(一三九四―一四二八)の創立というが、寛永二年(一六二五)地誉離風によって開かれたとも伝えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
西光寺
さいこうじ
福岡市早良区にある浄土真宗本願寺派の寺。寺伝によると,開創は文明1 (1469) 年,開山は天海という。国宝の梵鐘を有することで知られる。この梵鐘は承和6 (839) 年の銘が陽鋳されているが,金石寺 (不詳) を離れて転々とし 1897年に西光寺が購入したもの。紀年銘がある梵鐘としては妙心寺 (698) ,興福寺 (727) ,劔神社 (770) に次ぎ4番目に古く,形状や文様は平安初期の特徴をよく表わしている。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の西光寺の言及
【石童丸】より
…なお説経《苅萱》の伝承を今日まで残し,苅萱道心と石童丸の親子地蔵をまつる寺が善光寺周辺に二つある。苅萱山寂照院西光寺と苅萱堂往生寺という。西光寺の所在が妻科村石堂(現,長野市北石堂町)西光寺となっているのは,石堂に拠る聖と幼い主人公の因縁がしのばれる一つの証しである。…
【空也】より
…948年(天暦2),比叡山に登って天台座主延昌について受戒し,光勝の名を与えられたが,その後も民間の布教僧として活動し,京都に疫病が流行すると,世人に呼びかけて,1丈の十一面観音像,6尺の梵天・帝釈天,および四天王の像を造り,大般若経600巻の書写をする願を発した。この大願は963年(応和3)に成就し,賀茂の河原で盛大な供養が行われ,その地に西光寺が建てられた。空也はこの寺で70歳の生涯を終えた。…
※「西光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」