赤碕町の南西部に位置し、大山外輪山連峰の北東端にあたる。俗に頂上と称される地点(標高六一五・六メートル)は
「大乗院日記目録」元弘三年(一三三三)閏二月二三日条に、名和長年兄弟が隠岐を脱出した後醍醐天皇を奉じて「船上山寺」に拠ったとの記載がみえる。長年は「究竟の城郭」(伯耆之巻)と称して諸人を鼓舞したと伝えるが、城とは名ばかりで、「坊舎ノ甍ヲ破テ、カヒ楯ニカケ」(「太平記」巻七)、「峯のさかしき処に楯をつきたる計」であったといい、大手にあたる東坂の「東の城戸」には長年の一族六人と若党中間三〇人ほどが、また搦手にあたる西坂には名和一族の者五人と「大仙寺衆徒源盛同宿若党等廿七八人」が守備についていたにすぎなかったという。これに対して大手には佐々木清高の軍勢二千余騎、搦手には弟の清房の一千余騎が対峙したとされる(以上「伯耆之巻」)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鳥取県中西部,東伯(とうはく)郡琴浦町にあるメサ状溶岩台地。標高616mの三角点があるが,山頂の平たん地は標高660mから680mにわたって広がっている。大山火山群の北東部にあたり旧期大山のカルデラの外輪山をなす。船上山の東・北・西斜面には急崖が連なり,東斜面の急崖は屛風岩とよばれる絶壁をなす。大山のすそ野が眼前にひろがり,付近には千丈滝や峡谷,ブナの原生林などがある。登山口には少年自然の家がある。
執筆者:豊島 吉則 1333年(元弘3)閏2月,隠岐を脱出した後醍醐天皇は,山麓の豪族名和長年(なわながとし)に奉ぜられて智積(ちしやく)寺本堂を行在所(あんざいしよ)とし,名和一族に呼応した近在の土豪や大山寺衆徒らは要害を利して隠岐守護佐々木清高らの追討軍を撃破した。智積寺は山上の平たんな高台に建立された寺で,山号を船上山といい,大山寺の末寺であった。戦国時代に兵火で焼亡し,その後も隆替をかさねたが,明治の神仏分離で船上神社となり,現在は船上山行宮跡として国の史跡に指定されている。
執筆者:石田 善人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
鳥取県西部、東伯(とうはく)郡琴浦(ことうら)町にある山。標高616メートル。大山(だいせん)火山体中外輪山の北端に位置し、両輝石安山岩からなるメサ状溶岩台地である。要害の地で、東縁は30~40メートルの露岩(屏風岩(びょうぶいわ))と滝で囲まれている。クロモジやブナの林があり、大山隠岐(おき)国立公園の特別保護地区になっている。1333年(元弘3・正慶2)名和長年(なわながとし)は隠岐から遷幸の後醍醐(ごだいご)天皇を守り、隠岐判官佐々木清高らの軍三千騎を破り、建武(けんむ)新政の緒を開いた。当時の智積寺跡(ちしゃくじあと)が国の史跡船上山行宮(あんぐう)跡となっている。
[岩永 實]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…その時できたすそ野は長い年月の間に放射状谷に深く刻まれながらも,北および東斜面に広く残っている。旧期大山の山体上部はその後陥没によってカルデラとなったが,現在の船上山,矢筈ヶ山(やはずがせん)(1359m),甲ヶ山(かぷとがせん)(1320m)はカルデラの外輪山である。新期大山の主体はカルデラ内に噴出した弥山で,黒雲母角セン石安山岩からなる直径約5kmの巨大な溶岩円頂丘である。…
※「船上山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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