船町(読み)ふなまち

日本歴史地名大系 「船町」の解説

船町
ふなまち

[現在地名]豊橋市船町

吉田二四ヵ町のうち西北端に位置する表町。他町と異なって伝馬の業務に従事しなかった代りに船役を勤めた。舟運の起源は古く、元禄二年(一六八九)船町庄屋与次右衛門より城主小笠原壱岐守の奉行への口上書(吉田宿雑記)に「船町ノ儀、古ハ河原同然ニて家居満者良(まばら)ニ御座候処、池田三左衛門様当御城主被成、堤等丈夫ニ被仰付、船町家居町並ニ罷成、舟之運送仕致渡世候処、慶長五庚子年関ケ原御陣之節、御城主三左衛門様より船役被仰付候」とあり、慶長五年(一六〇〇)池田輝政により船役を命じられている。「船町記録」(豊橋市史)によれば、この年伊勢松坂城主古田重勝・九鬼守隆の渡航を船町居住の浅井与次右衛門が中心となって協力したとある。浅井与次右衛門については、天正年中(一五七三―九二)に近江国より主立った者八三人を召連れて当時四ッ家とよばれたこの地に居住し、池田輝政より庄屋役を命じられ、以後四ッ家を船町と改めたという(船町史稿)


船町
ふなまち

[現在地名]福山市船町・延広のぶひろ町・もと

はま(入江)築切つつきりの両側には藩の米蔵が並ぶが、その東方しん(木綿橋)にかけての両岸の町筋をいい(安政時代福山城下地図)、南岸部を浜の町ともよんだ。水野時代福山城下地図では該当地域に「町家」とあるが町名はみえない。当地域には舟運や漁業関係者が多く住し、「備陽六郡志」に水野氏時代に下魚屋しもうおや町に住した三島屋安右衛門が水野勝成に「舟入口の津留の脇を顧請、三島屋小屋と名付」、伊予の三島みしま(現愛媛県伊予三島市)から連れてきた漁師を住まわせたといわれる。


船町
ふなまち

[現在地名]大垣市船町

大垣城の南西に位置し、中央を水門すいもん川が南流する。美濃路はたわら町より当町北端のきよう口を経て、水門川左岸に沿って南下し、右折してたか橋を渡り、久世川くぜがわ(久瀬川)町に至る。京口の西には貝殻かいがら橋があり、水門川左岸は町家地域、右岸には士屋敷・全昌ぜんしよう寺がある(享保城下絵図)。江戸期より大垣湊があった。慶長六年(一六〇一)木村与次右衛門が伊勢いせ町より移住、同一六年までに三三戸となり、船町と称した出来町。


船町
ふなまち

[現在地名]新宮市船町一―三丁目・大橋おおはし通一丁目

神民じんみん町の東隣にあり、速玉はやたま神社から東に延びる通りを挟む両側町。古くは紺屋こんや町と称したという(庵主梅本氏文書「新宮市誌」所収)。北は熊野川の河原、南はほん町。江戸時代後期の「新宮領分見聞記」には「神民町御幸町辻より町会所迄」とある。町名は当地に船持の家が多かったことによるという。もと上下の二町に分れていたようで、江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)には横町よこまち(現国道四二号)を挟んで西が「上ノ丁船町」、東が「下ノ丁船町」とされ、東西の長さはかみちようが六九間、下ノ丁が五八間とある。


船町
ふなまち

[現在地名]敦賀市蓬莱ほうらい

川中かわなかの西端、御所辻子ごしよのずし町の西に位置し北は敦賀湊。もと船場であったが、慶長一〇年(一六〇五)頃町家を建て、船町と名付けたと伝える(指掌録、敦賀志)。寛文三年(一六六三)の家数は四三、うち家持三一・貸家一二(寛文雑記)。享保一一年(一七二六)の家数三一(指掌録)

当町には寛永一一年(一六三四)弘前藩の蔵屋敷も置かれ(「敦賀郡誌」所収地子銀帳)、田中氏・道川氏のような豪商も多く、元禄一六年(一七〇三)の御用金調達の際には一〇〇両以上の者三人を含め八七〇両の献金をした(角野家文書)。また船持仲間の連絡を業とする船道歩きも天和(一六八一―八四)頃二人いたことが「遠目鏡」にみえる。


船町
ふなまち

[現在地名]明石市港町みなとちよう材木町ざいもくちよう

当津とうづ湊の西岸、波門崎はとさきから思案しあん橋を経て坊主ぼうず橋に至る湊の岸に沿って発展した町で、西は材木町の岩屋いわや神社。元和四年(一六一八)の築城とともに成立した明石惣町一〇町のうちに町名はみえないが、宝永六年(一七〇九)改の明石惣町一五町のうちに町名がみられ(明石記)、この時期以前に成立していたと考えられる。町名は廻船業者や船鍛冶・船大工が居住したことによる(明石市史)。享保二年(一七一七)えびす町が独立(明石記)


船町
ふなまち

[現在地名]西区土佐堀とさぼり一丁目・江戸堀えどぼり一丁目

玉水たまみず町の南にあり、東西に延びる両側町。西横堀にしよこぼり川に東面し、同川に船町橋が架かる。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では町域の西部分は五分一ごぶいち町の南半分になっており、逆に南隣の斎藤さいとう町の西横堀川沿いの部分が当町に含まれ、同川沿いの南北に長い町であった。元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図では東西に長い町域のふな町となっている。大坂三郷北組に属し、同一三年の三郷水帳寄帳では屋敷数五三・役数六九半役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は銭屋嶺雲。町名は「摂津名所図会大成」に「浪花繁栄に随ひ、船着の場所も船町と号する市中となり」とあって、土佐堀川西横堀川の合流点付近の船着場であったことに由来すると思われる。


船町
ふなまち

[現在地名]近江八幡市船町

生須いけす町の北、八幡町の最北部にあり、八幡堀西にしの湖から八幡町に入る所の東岸にあたる。西は船入堀を隔てて鉄砲てつぽう町、北から東は多賀たが村。元禄町絵図に町名がみえ、八幡堀には「八幡町船入堀筋」、東側には「畑高六拾四石余之内」との添書きがある。「輿地志略」にも船町一町とある。八幡城下形成時に船大工を居住させたと推定されるが不詳(八幡町史)。天保一三年(一八四二)から永原町元ながはらちようもとの民家に置かれていた尾張藩代官所が弘化二年(一八四五)に当町に移された。


船町
ふなまち

[現在地名]大津市西にししよう

膳所城下の北西の入口に位置。西ノ庄村域に町割が行われ、寛政一二年(一八〇〇)当時の東海道筋の町並は六二間余(法伝寺文書)。分間延絵図では北西の馬場ばんば村境に北総門・西総門ともよばれる大津口総門と番所が描かれ、西惣門絵図(中村家蔵)には惣門鋪石詰とあり、馬場境を区切る堀には長さ二間半の石橋が架けられている。


船町
ふなまち

徳山本町とくやまほんまち筋七町の枝町浜崎はまさき町に、さらにその枝町としてできた町で、初め船町とよばれたが、のち東西に分れた。

浜崎町の枝町であったが、支配は別であり、初め目代一人であったが、明和二年(一七六五)町内戸数の増加によって町年寄が置かれた。しかし問屋だけは本町筋年寄の支配下とされた。

徳山藩御領内町方目安(徳山毛利家文書)によれば、東船町が東西長さ一町三三間二尺、道筋三間、家数二六(瓦屋一)で全部が北側、ほかに土蔵二があった。裏屋は北側に一六、南側には長屋一と木屋五があった。


船町
ふなまち

[現在地名]中央区舞鶴まいづる一丁目

東職人ひがししよくにん町の北に位置し、北は博多湾に臨む。東はよろず町、西は鎗屋横やりやよこ町を通って東職人町に至る(続風土記拾遺)。元禄三年(一六九〇)の家数三四(続風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の船町の言及

【最上川】より

大石田が河港として画期的な発達をみるのは,山形の最上氏が1600年(慶長5)の出羽合戦で,村山,最上と庄内も領有するようになってからである。慶長末年には山形の外港として,最上川支流の須川にある船町も立てられた。上流は左沢(あてらざわ)(現,大江町)が終点とされたが,94年(元禄7)米沢の御用商人西村久左衛門らの開削によって置賜(おきたま)盆地にも通じるようになった。…

※「船町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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