荒井村(読み)あらいむら

日本歴史地名大系 「荒井村」の解説

荒井村
あらいむら

[現在地名]高砂市荒井町扇町あらいちようおうぎまち荒井町御旅あらいちようおたび一―二丁目・荒井町紙町あらいちようかみまち荒井町新浜あらいちようしんはま一―二丁目・荒井町千鳥あらいちようちどり一―三丁目・荒井町中町あらいちようなかまち荒井町南栄町あらいちようみなみさかえまち荒井町東本町あらいちようひがしほんまち荒井町中新町あらいちようなかしんまち荒井町蓮池あらいちようはすいけ一―三丁目・荒井町日之出町あらいちようひのでちよう荒井町若宮町あらいちようわかみやまち高砂町松波町たかさごちようまつなみちよう

高砂町の西、加古川支流のあらい(現法華山谷川)の左岸に位置し、同川と加古川に挟まれた三角洲に立地する。加古郡に属した。嘉吉年間(一四四一―四四)から戦国期にかけて杉岡蔵人が居城した荒井城が八幡神社付近にあったという(播陽諸大家系譜)。年未詳三月晦日の浦上則宗折紙写(加須屋文書)に荒井村とみえ、梶原猪右衛門尉知行分の当村に対し梶原孫平次が命令に背いて不義を働いたため、浦上則宗は今後事あれば成敗すると猪右衛門尉に伝えている。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通じて姫路藩領であった。正保郷帳では田方三六八石余・畑方二九八石余。寛延二年(一七四九)の村明細帳控(荒井神社蔵)では田方二九町四反余・分米四九九石余、畑方四四町余・分米三六〇石余、新田畑八町六反余・分米五九石余。家数九一五・人数四千一〇四(うち高持百姓七〇七)、牛四五。職業別人数は陸塩売一九七・問屋一〇・小商人七三・米穀小売七・干鰯屋三・大工一六・藁屋根葺六・医者四・鍛冶屋二・樽屋二・釘師二・笠屋七・船大工一・出家一三・神主一など。


荒井村
あらいむら

[現在地名]福島市荒井

荒川右岸の扇頂部に広がり、西の吾妻山麓から荒川に沿って東北東に延びる。福島街道が通り、原宿はらじゆくは馬継場であった。北は荒川を隔てて佐原さばら村、西は吾妻山系内の土湯つちゆ村、東は上鳥渡かみとりわた村。南には金剛こんごう山や馬越まこし山などがあり、水原みずはら村や山田やまだ村との境界をなす。延元二年(一三三七)八月二六日の相馬胤平軍忠状(相馬文書)信夫しのぶ庄「荒井城」とみえ、同年三月一五日に南朝方であった相馬胤平は北朝方の守る荒井城を攻め落している。荒井城の位置は明確ではないが、一之字いちのじ館跡・古内ふるうち館跡・小田谷おだや館跡のいずれかとされている。ほかに中世城館跡としていちさか館跡・愛宕あたご館跡がある。永正一二年(一五一五)伊達稙宗は荒井の内蔵助在家と兵庫という作人が耕作する菅屋屋敷堤の田一千刈を大塚下総守に安堵している(同年一二月二六日「伊達稙宗安堵状案」伊達家文書)。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方として「かミあらい」とみえ、段銭は五貫七〇〇文。


荒井村
あらいむら

[現在地名]郡山市安積町荒井あさかまちあらい

日出山ひでのやま村の西、笹原ささはら川下流北岸の沖積原に立地。古くは撫子なでし村とも(荒井村地誌)巫子なぎし村ともいったと伝え、また戦国期蘆名氏領下では山東荒江さんとうあらえとも称された(「大槻家伝光録」伊東家文書)。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に南郷のうちとして「荒井 一丁三段」とみえる。天文一二年(一五四三)田村隆顕は伊達氏の天文の乱に乗じて安積郡の蘆名・伊東両氏を攻撃し、荒井のほか名倉なぐら・郡山など計六ヵ所を攻め取ったという(観集直山章)。しかし同二〇年田村氏と蘆名氏との講和が成立し、田村氏領であった「名倉、荒井」が会津の蘆名盛氏に渡され、盛氏の扱いで二階堂氏に引渡された(同年七月一六日「田村隆顕証状」白河証古文書など)。戦国期には蘆名家臣伊東治部左衛門・弾正父子が荒井館に居住、天正五年(一五七七)八月田村清顕に攻略されたという(郡山市史)


荒井村
あらいむら

[現在地名]本宮町荒井

仁井田にいだ村の西、阿武隈川西岸の本宮盆地に位置し、南方安積あさか郡との境を五百ごひやく川が東流する。南西隅の一部を除きすべて平坦で、耕地は肥沃である。本宮宿方面から青田あおた村を経て北西に二本松街道(会津街道)が通る。村名は新しい村で新居の意であろうという(相生集)。天正一五年(一五八七)には伊達成実の知行地となっており、翌一六年二月一二日に大内定綱が苗代田なわしろだを攻撃した際には、当地の人々は玉井たまのい(現大玉村)に引籠っている。同一七年猪苗代盛国が会津蘆名氏と手を切り伊達側につくことを約束したので、伊達政宗は六月一日、片倉景綱二本松にいた伊達成実を猪苗代(現猪苗代町)に先発させることとし、成実は同日出発し、その夜当地に着いている(以上「政宗記」)


荒井村
あらいむら

[現在地名]仙台市荒井

長喜城ちようきじよう村の東方一帯で、東におお沼などの潟湖を挟んで海沿いの荒浜あらはまと接する。天保一〇年(一八三九)写の仙台郡村小名調(鈴木紀一郎家文書)佐々ささ新田・藤田ふじた新田・田中たなか柳原やなぎはら十呂盤そろばんはまなどがみえる。正安二年(一三〇〇)五月二一日の留守家政譲状(留守文書)荒居あらいとあるなど鎌倉期より岩切いわきりなどとともに留守氏の所領内であったと思われるが、関連文書に「荒屋」「荒居村」「くわうや」などとあり、当村に比定できるかどうかは確証がない。なお元亨四年(一三二四)六月一九日の留守家明譲状(同文書)では高用こうゆう名のうち、文和元年(一三五二)一二月二三日の足利尊氏御判御教書(同文書)では余目あまるめ郷のうちとなっている。


荒井村
あらいむら

[現在地名]北本市荒井・石戸いしと二丁目・石戸宿いしとしゆく七丁目

高尾たかお村の南・東などに散在し、一部は荒川西岸に位置する。南は下石戸上しもいしとかみ村と石戸宿村で、まとまった村域をもたず多くの飛地がある。永禄五年(一五六二)七月一六日、岩付いわつき(現岩槻市)城主太田資正が道祖土図書助に安堵した「先年於石戸親ニ出候野場」は、荒井のうちの字駒場こまばに比定される(「太田資正判物」高柳文書)。元和六年(一六二〇)八月検地が施行され、足立郡新井村御検地水帳(矢部家文書)によれば田七町六反余(一三〇筆)・畑三七町六反余(五〇一筆)・屋敷二町余(四三筆)、名請人計九四名、うち八名は分付百姓としてのみ名がみえる。


荒井村
あらいむら

[現在地名]大田原市荒井

くま川と蛇尾さび川の合流点の左岸、高台に集落がある。南は町島まちじま村、北は舟山ふなやま村。天正一八年(一五九〇)大田原氏豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「荒井」とみえ、一四九石二斗八升(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領。慶安郷帳では田四四石余・畑一〇四石余。大田原宿の定助郷を勤め、宝暦一四年(一七六四)の助郷高一四九石余(「大田原宿助郷帳」印南敬二郎文書)


荒井村
あらいむら

[現在地名]豊田市荒井町

矢作川とかご川の合流点に位置し、飯田街道(国道一五三号)が篭川を横切る所には兵主ひようず橋が架けられている。平戸橋ひらとばし町から南に下って荒井に至る国道沿いには篭川面が顕著にみられる。字寿田すだから越戸の船塚こしどのふなづかにかけて広がる船塚遺跡は、炉跡状の石組遺構(滅失)などが発見された縄文中期の遺跡である。中世は高橋たかはし庄に属し、矢作川対岸の梅坪うめつぼと合わせて延命えんめい(現大府市)蔵大般若経識語に「三州高橋庄大島郷柳島正蔵庵公用」とみえる「大島郷」にあたるという。

寛永郷帳には荒井村の記載はなく、越戸村のうちと考えられる。当時越戸村は幕府領である。元禄郷帳時には挙母藩領となり明治まで続く。


荒井村
あらいむら

[現在地名]坂井町東荒井ひがしあらい

坂井平野の中央部北西寄りに位置し、兵庫ひようご川右岸の自然堤防上にある。北西はたこ村、西は兵庫川を挟んでひがし村。正保郷帳以降荒井村となるがそれ以前は川端かわばた村と称した。慶長三年(一五九八)の検地帳(東荒井春日神社文書)の表紙に「越前国坂北郡荒井郷之内川端村之帳」とあり、荒居あらい郷の一村で、古くは奈良興福寺領河口かわぐち庄に含まれていたと思われる。


荒井村
あらいむら

[現在地名]中野市大字新井あらい

東は一本木いつぽんぎ若宮わかみや、西は七瀬ななせ田麦たむぎ、北は金井かない間長瀬まながせ、南は吉田よしだの各村に接し、中野扇状地の先端に位置する。

上杉景勝が川中島四郡を領するに及び、高梨頼親を安源寺あんげんじ地方に還住させた。頼親が天正一一年(一五八三)九月、家臣木島又次郎(監物丞)(荒)井・厚貝あつかい等の地を宛行った高梨頼親宛行状案(別本歴代古案)に「新屋之地」とあるのが初見。


荒井村
あらいむら

[現在地名]牧村荒井

飯田いいだ川左岸にあり、対岸は山口やまぐち村、南東はまつ村に接し、ひるこ街道に沿う。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「長井丹波分新井村 中」とあり、本納一七石六斗一升六合・縄高五七石二斗一升七合、家三軒・一一人男女。正保国絵図に高二五石余とある。天和三年郷帳では高五八石四斗余、うち山高三石五斗一升四合、ほかに新田として一三石余、反別田四町二反余・畑屋敷四町八反余・山林一〇町二反余、家数六。


荒井村
あらいむら

[現在地名]小山市荒井

東から南は出井いでい村、西は大町おおまち村。慶長年間(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)宇都宮藩領となり、同八年下総古河藩領。元禄七年(一六九四)幕府領。同一〇年には宇都宮藩領、宝永七年(一七一〇)より再び幕府領。正徳五年(一七一五)の徳川家康百回忌に際して日光街道小山宿の増助郷村となり、勤高一〇〇石(「増助郷帳」添野一夫文書)。また大通行の時は、日光街道新田しんでん宿内の往還二八間の掃除役を負担した(天保一四年「新田宿明細帳」大塚信文書)


荒井村
あらいむら

[現在地名]大野村荒井

鹿島灘沿岸にあり、北は浜津賀はまつが村、南は青塚あおつか村。慶長七年(一六〇二)の荒井村御縄打水帳(荒井家文書)によれば、戸数は一二で、田二町二反五畝二三歩(分米二二・五七四石)・畑二町二反六畝二九歩(分米一四・五八四石)、田畑総計四町五反二畝二〇歩(分米三七・一五八石)。寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、青塚村に含まれ、旗本岩瀬氏が支配した。元禄期(一六八八―一七〇四)頃自立し、元禄郷帳の村高は四八石余。


荒井村
あらいむら

[現在地名]今庄町荒井

北流する日野川の左岸にあり、南東は八飯やい村、北東は大門だいもん村。文明六年(一四七四)一一月一三日付の宗伝寄進状(慈眼寺文書)に「荒井村神田等除之」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では三尾川内みおのこうちに含まれていた。正保郷帳によると田方三三石余・畠方一九石余。


荒井村
あらいむら

[現在地名]松本市和田 蘇我そが

明暦の検地帳によると石高は二五二石三斗八升九合。荒井村はすなわち新井村で計画開発があったことを示す。

浄土宗の忠全ちゆうぜん寺が村の中心部にあり、藩政時代は除地となっていた。字古城こじようは現在水田となっているが、小豪族の館と考えられ、古城・堀川・屋敷添・町尻・薬師堂・衣下いげ・社宮寺宮通・東村・東村屋敷・道上屋敷北みちうえやしききた・東和田・長田・棗田なつめだ・塚田などの地名がある。


荒井村
あらいむら

[現在地名]郡山市荒井町

蒲倉かばのくら村の南、阿武隈高地西縁の丘陵に立地。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 あらい かまくら之内」とみえ、蒲倉のうちに含まれていた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に荒井とみえ、高一二七石余、源左門の知行地。以降の領主の変遷は村と同じ。


荒井村
あらいむら

[現在地名]松本市島立 荒井

松本城下町をめぐる庄内組なぎさ村の西に木曾川(現奈良井ならい川)を隔ててある平坦な村である。

天正検地には島立郷の中の一村で「新井村弐百四拾五石七斗六升」と初見。「信府統記」には享保九年(一七二四)当時の石高は三七九石八斗五升二合九勺とある。


荒井村
あらいむら

[現在地名]矢板市荒井

矢板村の北に位置し、会津中街道が通り、江戸から三六番目の一里塚がある。慶安郷帳では高一四六石余、田方一二〇石余・畑方二六石余、幕府領。元禄元年(一六八八)旗本高家の大友領となり幕末まで続く。元禄郷帳では高二〇六石余。延宝五年(一六七七)の田畑各一四町余。


荒井村
あらいむら

[現在地名]岡山市清水しみず・清水一丁目など

清水村の北に位置し、平場に集落がある(備前記)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高五〇石余。「備陽記」では田畑三町四反余、家数七・人数五六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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