西脇村(読み)にしわきむら

日本歴史地名大系 「西脇村」の解説

西脇村
にしわきむら

[現在地名]那賀町西脇

紀ノ川南岸に位置し、東はなか村、西は茶臼ちやうす山を境に安良見あらみ(現粉河町)と接する。「続風土記」は「当村山足に家して家屋架上に在るか如し、故に軒を並へ屋を接するもの稀なり、荘中にて当村を本荘とすといふ、荘の旧家篠氏此に住るを見れはさもあらんか、当村荘の西に居る故に西脇といふ」と記す。中世は高野山領麻生津おうづ庄に含まれ、その中心地とされたらしい。近世も高野山領で、天正一九年(一五九一)九月二七日付の麻生津西脇村検地帳(旧麻生津村役場文書)によれば村高一六一石六斗三升二合で、うち三四石余が大豆高、三斗六升が荒。元和一〇年(一六二四)の検地帳(同文書)には総村高一七四石二斗一升一合、うち五八石余が大豆高とある。両検地帳とも石盛は上・中・下・屋敷・上畠・中畠・下畠の七段階で、天正の検地帳には「座頭」の名がみえる。両検地帳とも屋敷の面積に「一畝」「十五(歩)」「十分」などとあり、細かく査定したことがうかがわれる。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]幸田町菱池ひしいけ

村域の西はかつての菱池沼で、沼の対岸にも飛地として池開発地がある。集落は丘陵地に立地する。東は岩堀いわぼり村・鷲田わしだ村、南は岩堀村、北は鷲田村と各々耕地が交錯して接する。西は菱池沼で対岸の幡豆はず野場のば村と境した。

「正専寺要集」によると、室町中期頃、幕府奉公衆の子孫三浦弾正安房が鷲田郷正専しようせん寺の世話で居住し、同郷東部とうべに住して南の菱池沼に対する出崎の字萱所かやどを開発したという。この伝承に従えば、当村は鷲田郷からの新田村となる。菱池沼開発争論の一連の文書(岩堀区有など)では、当村は慶安三年(一六五〇)の甘縄藩領総検地の際に岩堀村より分村独立したとしている。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]姫路市西脇

なか村の北に位置し、揖東いつとう郡に属する。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)龍野藩領、寛永九年(一六三二)幕府領、同一〇年龍野藩領、同一三年幕府領、同一四年龍野藩領、明暦四年(一六五八)幕府領、寛文一二年(一六七二)再び龍野藩領となり幕末に至る(新版「姫路市史」など)。寛永一三年の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高八七五石余、寛永直し高七二三石余。正保郷帳では田方六三八石余・畑方一〇三石余。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]小野市西脇町

阿形あがた村の北に位置し、加古川の右岸、青野原あおのがはら台地の南麓に立地する。集落の中央を万願寺まんがんじ川が流れ、村域の南東端で加古川に合流する。耕地は万願寺川両岸の低地に開かれている。慶長国絵図にみえる「西脇原村」は当村のことか。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方二四一石余・畑方六九石余、「新開村有」と注記される。元禄郷帳では同高で、ほかに西脇村枝郷として西脇新村の高六石余が加筆されている。これは承応二年(一六五三)集落西端に開かれた田畑六反余・高六石余のさかい新田のことである(「境新村新田改帳」西脇町有文書)


西脇村
にしわきむら

[現在地名]上田市常磐城ときわぎ一丁目・二丁目・五丁目

上田城の北西にあたる。矢出沢やでさわ川の南側を通る北国脇往還に沿っている。東は鎌原かんばら村、西は生塚うぶつか村、西と南は諏訪部すわべ村と接する。北は条里的遺構を残す水田地帯が太郎たろう山麓まで続いている。西脇村のうち北国脇往還西寄り生塚村との間の集落を新町しんまちとよぶ。

この辺り古代は「和名抄」記載の小県ちいさがた須波すわ郷に含まれていたとされる。中世には鎌原村と同様、常田ときだ庄に含まれていたと推定される。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]西脇市西脇

加古川西岸で支流杉原すぎはら川が合流するところにあり、童子どうじ山山麓に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。寛永一六年(一六三九)幕府領(兵庫県史)、延宝六年(一六七八)下総佐倉藩領(「野村鑑覚書帳」東田家文書)、貞享三年(一六八六)相模小田原藩領(「大久保氏禄高調」「稲葉家引継書」小田原市立図書館蔵)、延享三年(一七四六)三卿の一橋領(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)、文政三年(一八二〇)幕府領(「貞享三年以来領主免の記録」西脇区有文書)と変遷し、天保元年(一八三〇)より幕末まで武蔵忍藩領(天保元年「忍藩領高覚書」要中録、旧高旧領取調帳)


西脇村
にしわきむら

[現在地名]美濃加茂市下米田町西脇しもよねだちようにしわき

則光のりみつ村の西、小山こやま村の北にある。飛騨川沿いの河岸段丘上の平地。「土岐累代記」に「西脇氏ハ揖斐出羽守頼雄四代ノ孫、与三左衛門光長始テ西脇ニ住」とある。慶長郷帳によれば幕府領で村高四五二石余。正保郷帳によれば尾張藩領で、田方一九八石余・畑方二五二石余・山年貢三石余。明暦覚書によれば、元和元年(一六一五)尾張藩領へ編入され、概高は三三三石余。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]明石市大久保町西脇おおくぼちようにしわき大久保町緑おおくぼちようみどりおか大久保町山手台おおくぼちようやまてだい二―三丁目

赤根あかね川の上流西岸に位置し、東は大窪おおくぼ村、南は東江井ひがしえい村・西江井村。野々上組に所属。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田高三九七石余・畑高九六石余、松山あり。元禄郷帳には当村枝郷畳谷たたみだに新田村(現神戸市西区)高七七石余が載る。天保郷帳では肩書に「古者西脇村畳谷新田村弐ケ村脇村」とあり、高六六六石余。畳谷新田村は明石藩主松平信之が当村の豪農寺島氏の協力を得て開いた新田といい、「明石記」では分村として扱われている。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]加美町西脇

寺内てらうち村の南、杉原すぎはら川が当地で湾曲し南東流する。対岸は門前もんぜん(現中町)。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では「荒田ノ」と肩書されて村名がみえ、田方三一二石余・畑方四三石余、山役・鉄砲役があり、幕府領。延宝五年(一六七七)の検地帳(西脇区有文書)によれば高三五六石余・反別一八町七反余、うち荒地林成一石余、小物成は山手銀四五匁余。明和九年(一七七二)の村明細帳(同文書)によれば高二六四石余・反別一九町四反余、小物成は山役銀三八匁余、家数三七(うち水呑四)・人数一五八、牛一〇。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]姫路市西庄さいしよう

飾西しきさい郡に所属。しよう村の西に位置する。文亀三年(一五〇三)八月日の重慶等連署散用状(松原八幡神社文書)によれば、松原まつばら八幡宮領の地が「西脇兵衛三郎大夫前」にあった。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方五三一石余・畠方三〇石余。


西脇村
にしわきむら

[現在地名]輪島市西脇町

中尾なかお村の南、河原田かわらだ川中流西岸の河岸段丘・山地に立地。正保郷帳に村名がみえ、高七四石余、田方三町三反余・畑方一町六反余。承応三年(一六五四)の村御印の高八三石余、免六ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九四石、免六ツ二歩、小物成は山役四五匁、苦竹役一匁(出来)、鳥役一匁(出来)、漆役七匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)


西脇村
にしわきむら

[現在地名]早良区西脇・干隈ほしくま五―六丁目・野芥のけ二―三丁目・田隈たぐま一―三丁目

野芥村の西にある同村の枝郷(元禄国絵図など)。田圃志で野芥村の内に記される新村分六四一石余にあたるか。元禄(一六八八―一七〇四)以降一村として独立したらしく、宝永五年(一七〇八)給知としない村に指定されている(「郡役所記録」県史資料四)


西脇村
にしわきむら

[現在地名]静岡市西脇・中田本町なかだほんちよう

なか村の南に位置する。領主の変遷は中島なかじま村と同じ。小島藩領はま四ヵ村の一つ。元禄郷帳では高五三一石余。享保四年(一七一九)朝鮮通信使帰国の際には浜四ヵ村で一六八人が出役(長田家文書)


西脇村
にしわきむら

[現在地名]加古川市別府町西脇べふちようにしわき別府町緑町べふちようみどりまち別府町本町べふちようほんまち

別府村の東に位置し、南は瀬戸内海に面する。慶長国絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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